「夜這いしてこい」と上司から命じられたのですが、私はあなたを好きなのですが
「ナンバー6。成功すれば、これを最後の任務にしてやる」
いつものように本部の隊長席に横柄な態度で座る、鬼上司エッカルト。背中を背もたれに預け、片足を太ももに乗せて腕組。
そんな彼が、ニヤリと悪人らしい笑みを浮かべる。
といっても、一応身分は悪人ではない。陛下直属の諜報部隊隊長らしいから。
だけど、彼の人となりは完全に悪役。
私をこの道に引き込んだ、悪魔。
容貌も、まさしくそれ。黒髪に黒い瞳。美しい顔、青白い肌、酷薄そうな薄い唇。なにより、全身黒色で統一された服装。それ以外の色をまとっているのを見たことがない。
でも、これで最後の仕事になるかもしれないの?
嘘でしょ?
死ぬまで彼の手下でいなければならないのかと思っていた。
拍子抜けするような、不思議な気分。
だけど、これは確実にめでたいことなのよ。
別れが惜しいなんて言っている場合ではないわ。
気を引き締めないとね。
「では、その任務とは」
部下らしく、かしこまって尋ねる。
こき使われて、三年あまり。
お茶会で令嬢たちと、パーティーで青年たちと、公式行事で爵位持ちの夫妻と。楽しく会話しながら情報を探ったり偽情報を流したり、こっそり魔道具をしこませたりと諜報活動を行ってきた。
裏で『婚約破棄されていかず後家になった伯爵令嬢』と笑われながらも、がんばった。表面的には良い関係を築いてきた。神経と良心をすり減らしながら。
それも、ついに終わりなのだわ!
鬼上司が笑みを深くした。
「ナンバー6。お前の最後の任務は、第二王子テオバルトに夜這いをすることだ」
「……はい?」
「王子に他国から縁談が来ている。それを破談にさせたい。本人も望んでいることだ。無事ことを成し遂げて、朝を迎えろ。仕込みの侍従が寝室を訪れて、大騒ぎをする。わかったな?」
「ちょ、待ってください! それ、私はどうなるんです? 不敬罪で処刑ものじゃないですか?」
鬼上司が笑う。
「大丈夫だ。俺が保証する」
「ていうか、あなたは陛下の直属の部下なんですよね? だったら陛下が縁談はなしと言えば簡単なのでは?」
「そうはいかない事情がある。しかもお前は任務から解放されて、王子妃にもなれる。いいことづくめだ」
「全然です!」
「どうしてだ。お前はテオバルト王子が好きなんだろ?」
「確かに憧れてはいますけど、違います! ああいう穏やかで優しい方が理想というだけで、好きなわけではありません! それに本人の断りなしにこういことをするのは、いかがなものかと思います」
第二王子テオバルト殿下は二十五歳にもなるのに、浮いた噂もひとつもない。とても気高く立派な方なのだ。
そのお年で独身で婚約者もいないのは、お母様が元メイドだから。それに兄である王太子殿下と歳が一緒。生まれたのは三ヶ月違い。
第二王子殿下は結婚により自分の派閥ができ、それが兄に迷惑をかけることを心配して独身を貫いているという。
兄思いの謙虚で尊いお方なのだ。
だからこそ、縁談を断りにくいのかしら?
でも、こんなやり方は可哀想すぎる。殿下も、私も。
だけど鬼上司は、今まで散々第二王子殿下を褒めたたえてきた私が、この作戦を本気で嫌がっているとは思っていないのだろう。
「なにひとつ問題はない。行けばわかる。実行は今夜だ。返事は?」
と、冷酷に言い放った。
こうなったら、私に拒否権はない。
「……今夜、第二王子テオバルト殿下に夜這いをし、ことをやり遂げ、朝を迎えます」
「よろしい」
「それでは失礼します」と、私は転移魔法の呪文を唱えた。
王宮のどこかにあるという諜報隊本部から、カルヴェ邸の自室に戻る。
そのままふらふらとベッドに倒れこんだ。
私がエッカルトの手下になったきっかけは、侯爵令息に婚約破棄されたことだった。
侯爵家からの申し出を受け、十三年も婚約していた。
それなのに、婚約者は『真実愛する人ができたから、お前はもういらない』と言って、婚約破棄を宣告したのだ。よりにもよって、王宮での夜会のときに、バルコニーで。
腹が立った私は、思わず魔法で彼を投げ飛ばした。
彼はきれいな放物線を描いてバルコニーの外に飛んでいき、庭に落下した。
問題は落下地点に隠密行動中のエッカルトがいたこと。気絶した婚約者はエッカルトと、彼が使用中の世界にひとつだけしかないという高価な魔導具を押しつぶしたのだ。
それ以来、公務執行妨害罪回避と、破壊した魔法具の費用弁済のために私はエッカルトの手下として働いている。
エッカルトは本当に悪魔のような鬼上司で、非常に厳しい。私への要求は難易度が高く、「できない」との答えは許さない。
だから必死に任務をこなさなければならず、おかげで私の社交性も会話術も魔法も格段にレベルが上がった。
一見良いことに思える。だけど、私が令嬢として生きていくには元々のレベルで十分だったのだから、不必要な成果だ。
それに彼の手下として働く限り、結婚どころか婚約もできない。私が諜報部に属していることは親にも秘密で、鬼上司の命令をなによりも最優先しなければならない。だから、死ぬまで未婚コースに乗ってしまっていたのだ。
これを悪魔の所業と言わずになんと言う。
悪いのは、浮気したあげくに私をポイ捨てした侯爵令息なのに。
もっとも、彼は報いを受けている。
真実の愛の相手に貢ぐために、不法行為に手を出したらしい。現在彼は刑罰として、国営の炭鉱で石炭の採掘に携わっている。
お父様によると、犯した罪の重さと刑罰が釣り合っていないらしい。もしかしたら、彼には公務執行妨害の罪も科されているのかもしれない。
鬼上司はとにかく非情だ。犯罪者には容赦がないし、犯罪者でなくても愚かな言動をとる人間にも情けをかけない。
当然手下の私にも辛辣で、口論になることはしょっちゅう。意見が合うことなんて、ほとんどない。
だからつい、私が理想とする男性がどのような人物かを口にしてしまい、第二王子テオバルト殿下が憧れであることまで伝えてしまったのだ。
だって鬼上司とは真逆のタイプだもの。
殿下とはまったく面識はないけれど、遠くから見たり、噂を聞く限りとても素敵な人なのよね。
だからうっかり憧れの人を暴露して以来、鬼上司への嫌味も兼ねて、殿下の名前をよくあげてきた。
それがまさか、こんな任務に繋がってしまうなんて……。
一応鬼上司も、ほんの少しはいいところがある。
私が成果をあげれば、ちゃんと褒めてくれるし、弁済に当てているお給料の代わりにと、時どき有名店のケーキをくれる。
それに私が諜報活動のせいで、うっかり誘拐されてしまったときのこと。あわや殺されるというところで、彼は助けに来てくれた。
失態を叱られると思ったけれど、彼は震えている私を抱きしめて、無言で背中を撫でてくれた。
多少は手駒を気遣う心があるのだ。
だから。
そんな姿を見せられたのだもの、恋に落ちてしまっても仕方ないわよね。
抱きしめられたときに自覚して、以来ずっと気持ちを変えることができないでいる。
涙が頬を伝う。
あんな男を好きになるなんて、愚かすぎる。
エッカルトは謎の多いひとだ。身分としては王家の血が入っている、辺境の子爵家の次男らしい。その才を見いだされて諜報部に入り、またたくまに隊長にまでのぼりつめたとか。
ときどき社交場にも現れて、女性人気をかっさらっている。そういうときの彼は、調子のいい遊び人という風情だ。
ただ、不思議なことに、彼のことを本当に知っている人は誰もいないようなのだ。
辺境の子爵家は存在するし、ご当主夫妻を知っている貴族もいる。
だけどエッカルトのことになると、『あそこの次男はあんな美青年だったかな』とか『次男がいたとは知らなかった』なんて反応になってしまう。
彼は身元を偽っているのではないかと思う。
名前だって、本名ではないのかもしれない。
私は彼にとって真実を明かすに足る人間ではなく、価値があるとしたら滅多に手に入らない女性部下ということくらい。
それに基本的に私への態度は、怒っているか嫌味を言っているか、挑発しているかのどれかだし。
それでも私は彼が好きだった。
でももちろん、不覚にも抱いてしまった恋心は、実らないものだと覚悟はしていた。
どう考えても、彼は私に興味がないもの。
でもまさか、彼から他の男性のもとに夜這いにいくことを命じられるなんて。
今まで、私がハニートラップを提案しても、不必要だといってきたのに。
ああ、そうね。いずれ必要になるかもしれない、重要なハニトラのための対策だったのだわ。
とめどなく涙が流れる。
泣いてはダメなのに。
夜這いするなら、泣きはらした顔なんかでは行けない。
やりたくないけれど、エッカルトが命じるなら、部下として誇り高く任務を遂行しなければ。
◇◇
そろそろ日をまたぐという頃合いに、第二王子テオバルト殿下の寝室に魔法で転移した。
普段なら厳重な防御がとられているだろうそこに、なんなく入れる。
鬼上司の仕業だろう。彼はいつだって完璧な状況をつくりあげてくれる。
カーテンの隙間から入る月の光で、部屋はほんのりと明るい。もっと暗いほうがよかったけれど、仕方ない。カーテンを引いたら音がしてしまいそうだ。
静かさの中に、かすかな寝息がきこえてくる。
中央の、立派な天蓋つきのベッドに静かに歩み寄った。
テオバルト殿下が眠っている。
呼びかけようとしたときにわかに殿下が飛び起きて、どこに隠していたのか剣を握って私の喉元につきつけた。
「誰だっ!」と叫んだ殿下は、すぐにいぶかしげに首をかしげた。「ナ……、ミュリエル・カルヴェか?」
「そうでございます、殿下。まさか私のようなものまでご存じとは。恐悦至極にございます」
声が震えてしまう中、なんとか噛まずに言い切って、カーテシーをした。
「どうぞ、一夜のお情けをかけてくださいませ」
「は……?」
普段は穏やかな殿下が、地を這うような低い声を出した。
頭を下げているから、殿下の顔は見えない。だけど不機嫌極まりないことがひしひしと伝わって来る。
「お前、なにを言っているんだ? そんなに俺を好きなのか?」
「事情がございます。意にそぐわぬことでございましょうが、どうぞお情けを」
剣が離れた。
殿下がベッドを降り、すばやく私の顎をつかむと顔を上に向けた。
急いで零れ落ちてしまった涙をぬぐう。
「醜態をお見せして申し訳ございません」
「声も体も震えているじゃないか」
殿下から目を反らし、
「気のせいでございましょう」と答える。
「……ていうか、なんだその格好は」
カッと顔が熱くなった。
私が着ているのは、鬼上司から送られてきたネグリジェ。やけに生地が薄く、胸元が下品なほどにあいている。
そのあいた部分の際どい辺りに、殿下が触れた。
反射的に、ビクリとしてしまう。
こんな失態、ダメなのに。
「自分の意志なのか? それとも誰かに強制されたのか?」と、殿下が問う。「いや、強制されたのだな? そうでなければ……」
殿下が黙り込む。
どうしたのだろうと視線を向けると、目が合った。
「私は私を殺すしかない」
「なにをおっしゃるのですか!」
「仕方ないだろう。今、猛烈に怒っているんだ。私に死なれたくないのなら、正直に言え。なぜ、ここに来た。誰が来させた。そうか、お前にはここの防御は破れない。やはり誰かの差し金だな?」
「……そうでございます」
殿下が、ふっと力を抜いたのが見て取れた。
ほっとしたように、柔らかく微笑む。
それから殿下は私にガウンを着せると、ベッドに座らせた。灯りをつけ、すぐとなりに自分も腰をおろす。
「で? お前に夜這いを命じたのは誰だ?」
殿下から、ものすごい圧を感じる。
明るくなったおかげで、彼の顔がはっきりと見える。
美しい顔は不機嫌そうに眉がよせられている。そして私を射貫くかのように鋭くみつめる、緑色の瞳。
……少しばかり、殿下のイメージと違う。
柔らかで、ひだまりのような人だと思っていたのだけど。
目の前の殿下は、まるで私を捕まえようとしている捕食者のよう。
でも、当然の態度よね。魔法で守られているはずの寝室に、女が侵入してきたのだもの。
「その前にひとつ確認をさせてください。殿下に縁談が来ているのは事実でしょうか」
「ああ」
「殿下はお望みではないというのは?」
「当然だ」
なぜ『当然』なのか、殿下は説明しなかった。そのまま、早く話せと促される。
テオバルト殿下は、国王直属の諜報部隊をご存じなのだろうか?
少しだけ迷ったけれど、どのみち無理やり夜這いを成功させるつもりはなかった。
正直に伝えることにする。
「私に命じたのは、上司です」
「は? 俺は命じてない!」
「え?」
殿下ははっとした表情で、口を手で抑えた。
「もしかして上司の上役なのでしょうか?」
鬼上司は隊長で、その上は国王陛下だとばかり思っていたけれど、間につなぎ役がいてもおかしくはない。陛下は多忙だもの。
「……まあ、そんなところだ。エッカルトのことはよく知っている。ヤツに命令されたということか?」
「そうです。殿下の婚約を破談にするために、と」
鬼上司にされた説明を、そのまま伝える。
テオバルト殿下は大きく息を吐くと、髪をかきあげた。ゆるく波打つ銀髪が、さらりと揺れる。
「……どうして断らなかったんだ。それとも私の妃になりたかったのか?」
「いいえ。破談が成功したら、大病を患ったことにして修道院に入るつもりです」
「は!?」
殿下が目を見開く。
「いくら不本意な婚約を回避しても、私と結婚しなければならないのはおイヤでしょう?」
鬼上司は普段なら、そういところまでフォローするのだけど。今回はしないようだった。
テオバルト殿下に憧れている私に褒美をくれるつもり――なんてことは、ないと思う。だけど彼にしては雑な作戦だ。
それだけ事態が逼迫しているのかもしれない。
「だから殿下がお困りになる事態にはなりません。どうぞ気にせず、私をご利用くださいな」
「自分がなにを言っているのか、わかっているのか?」
「もちろんです」膝をみつめる。ガウンをそっと握りしめ、胸の奥に感じる痛みをやり過ごす。「覚悟を決めて、参りましたから」
「いや、断れ!」
「上司は鬼のように厳しく冷淡ですが、王家と国民の益になることしかしません」
下っ腹に力を入れて、テオバルト殿下に笑顔を向けた。
「彼が命じるのなら、それは善なるもののために絶対に必要なことだからなのです」
殿下が不愉快そうに顔をしかめた。
「きっかけはひどいものでしたけど、今はエッカルト様の下で働いていることを誇りに思っています。彼に任務の失敗をさせたくもありません」
殿下は、じっと私の目をみつめている。
なにも言わない。
夜這いを受け入れるかどうか、悩んでいるに違いない。
鬼上司のことを知っているのなら、今私が伝えたこともわかっているはずだもの。
でも立派な方だから、逡巡しているのよね。初めて会話した令嬢と褥を共にするなんて抵抗があるだろうし、その相手が修道院行きを決意しているとなれば、なおさらのこと。
「ミュリエル」
「はい」
「私とエッカルト、どちらの言葉に従う」
「エッカルト様です」
殿下はまたも目をみはり、それからゆっくりと顔をほころばせた。
「そうか」
「もちろんテオバルト殿下は立派な王子殿下だと尊敬しております。ですが、どちらかを選ばねばならないのならば。申し訳ございません」
「いや、構わない」と、殿下が微笑む。「だが今夜は帰ってくれ」
「ですが!」
「目的は理解した。明日、三人で改めて話そう」
三人でということは、殿下、鬼上司、私ということ?
「そのうえで夜這いが必要ならば、日を改めて実行すればいい。いや、もう夜這いでなくていいか」殿下が極上の笑みを浮かべた。「次は私が君を責任を持ってここへ連れ込もう。たくさんの目撃者を用意して」
それならより良いだろうと殿下が笑う。
鬼上司の作戦とは異なってしまうけれど、結果は一緒になる。
せっかく決めた覚悟が後ろ倒しになるのは、少し辛いけど。殿下のお気持ちも汲む必要があるものね。
「上司がその方法をよしとするならば」と、譲歩する。
「よし、決まりだ。明日の朝、諜報部隊本部で会おう」
「承知いたしました」
立ち上がり、テオバルト殿下に頭を下げる。
「お休みのところをお邪魔して、申し訳ありませんでした。前向きにご検討いただけて、ありがとうございます」
「怒っているからな」
「え?」
顔をあげると言葉とは裏腹に、笑みを浮かべている殿下と目が合った。
「ミュリエルも。しっかり覚悟をしておけよ」
「はい……」
挨拶をして、カルヴェ邸の自室に転移する。
情けないことに、力が抜けてその場にうずくまってしまった。
思っていた以上に、怖かったのだと自覚する。
鬼上司は、今日は私の主張を受け流していた。
でももう一度、本当にテオバルト殿下のことは好きじゃないと伝えたら、どうなるだろう。
鬼上司もさすがに、本気の言葉だと気づいてくれるかもしれない。
だけど一度は承諾した任務。殿下もそのつもりでいる。
今更態度を覆すのは、よくないわよね。最後の最後に鬼上司の任務を失敗させてしまうのはイヤだし……。
◇◇
昨夜はほとんど眠れなかった。鏡に映る顔は、やや腫れぼったい。
泣いてしまった目は濡れタオルで冷やしたけど、ほとんど効果はなかった。
お化粧でごまかしているから、普通のひとならいつもどおりの顔に見えると思う。
だけど鬼上司は、ものすごく観察眼が鋭いのだ。私のわずかな変化にも気がつく。
こんな顔は鬼上司に見せられない。
だけど、行かないわけにもいかない。
諦めてため息をひとつつくと、呪文をとなえて諜報本部に転移した。
「え……?」
見慣れたそこには、鬼上司がいた。ふたり。
ひとりはいつもどおりの態度で椅子にすわり、もうひとりは机に腰を乗せている。
まさか双子?
机のほうの鬼上司が
「どちらが本物のエッカルトだかわかるか?」と尋ねた。
ならば片方は偽物ということ?
そうなるときっと、使える者は片手程度の人数しかいないと言われている、高難易度魔法・変化の術だ。
「なんだ、その酷い顔は」と、椅子に座っているほうの鬼上司が顔をしかめて立ち上がった。
私のそばまで来ると、あごに指をかけて上を向かせた。まじまじと私の顔を観察している。
「あなたが本物のエッカルト様ですね」
「なぜだ」
机のほうの鬼上司が尋ねる。
「これだけ離れた距離で、私の顔の変化に気づくのですもの。あなたはテオバルト殿下ですね」
「残念。ハズレだ」
そう言って彼は微笑むと、聞いたことのない呪文をとなえた。
それが終わったあとに現れたのは――
「王太子殿下!」
思わぬひとの登場に、思わず声を上げてしまう。
「正解」と、殿下はいたずらっこのような表情をする。驚いたことに、先ほどまでとは声まで違う。
テオバルト殿下と同じ年の兄であるコンラート第一王子殿下。私は彼もまた、きちんとお話したことはない。
慌ててカーテシーをする。
だけど、どういうこと?
テオバルト殿下ではなく、なぜ王太子殿下がいるの?
「彼女をこんなに悩ませて」と、私のとなりに立つ鬼上司が不機嫌な声を出す。「絶対に許さないからな」
「なにを言う。細やかな気遣いじゃないか」
楽し気に答える王太子殿下。ということは。
「昨日、ここで私が会ったのは王太子殿下なのでしょうか」
「またまた正解」と、殿下は微笑む。
鬼上司を見る。苦い表情をしている。
夜這い命令を出したのは王太子殿下。
ここにいるべきは、テオバルト殿下と、鬼上司と、私のはず。
でも実際にいるのは王太子殿下と、鬼上司と、私で。
そしてたった今、変化の術を見せられた。
そこから導き出される答えは――。
鬼上司が大きく息を吐いた。先ほど王太子殿下が唱えたのと同じ呪文を唱える。
待つことなく、鬼上司はテオバルト殿下に変化した。
不愉快そうな表情で私をにらんでいる。
「すみません。まさか偽物だとは思わなくて。睡眠も邪魔してしまって……」
いたたまれなくて、頭を下げたついでに、そのままにする。
鬼上司の見分けがつかなかったことが、情けない。
しかも好きな人だとも知らずに、あんな破廉恥なネグリジェでとんでもないことを強要しようとしただなんて。
顔から火が出そうなくらいに恥ずかしい。
「悪いのはコンラートだ」
やはり鬼上司も声が変わっている。当然だけど、昨晩聞いたテオバルト殿下の声だ。
「違うね、弱虫のテオバルトだ」と王太子殿下が笑う。「ま、真相は明かしたことだし、僕はこれで帰るよ」
そう言って、王太子殿下は姿を消した。
室内に鬼上司とふたりきりで残される。こんなのはいつものことなのに、恥ずかしすぎて逃げ出したい。
「おっ、王太子殿下は、なんであんなご命令を。そんなにご婚約にお困りなのですか」
「まさか。とっくに断った」
「そ、そうなのですね」
「お前に言いたいことがたんとある」
不機嫌丸出しの声。
相当に鬼上司はおかんむりなのだ。
「はい」と答えて縮こまる。
「なぜ見分けがつかない。俺があんな理不尽な命令をくだすはずがないだろうが。それに断れ。相手が俺じゃなかったら、どうなっていたかわからないんだぞ?」
「すみません」
「だが、そんなことはどうでもいい」
え?
顔を上げると、鬼上司は壮絶までに美しい微笑みを浮かべていた。
「昨日言ったはずだ。覚悟しろ、と。覚えているだろうな?」
「はい」ごくりとツバをのみこむ。想定していたのとは違う覚悟が必要みたいだ。「どんな懲罰でも、お受けします」
「違う、そうじゃない!」
鬼上司はため息をつくと、前髪をかきあげた。それから机に軽く腰を乗せた。
「いや、順番が悪かった。見てのとおり、俺はテオバルトだ。お前が憧れていた品行方正で穏やかで人徳のある姿は、父上とコンラートのための虚像だ。幻滅したか?」
「いいえ。虚像を作り上げたのがご家族のためならば、そして陛下直属の諜報部隊を率いているのならば、家族思いの優しい方ではありませんか」
テオバルト殿下の表情がゆるんだ。
「それよりも申し訳ございません」と、頭を下げる。「度々、エッカルト様と比較したりして」
「ああ、そうだ。我慢ならなかった」と、テオバルト殿下がせっかく柔らかくなった表情をまた、厳めしいものにしてしまった。
「すみません」
「まさか自分自身に嫉妬するとは思わなかった」
んん?
どういうこと?
「『テオバルト』を殺してしまおうかと何度考えたことか」
「はい!?」
そ、そういえば昨晩もそんなことを言っていたような。
自分で作り上げた虚像とはいえ、そちらのほうが優れているかのように褒められるのがイヤだったということ?
「まだ、わかっていないか」とテオバルト殿下。「兄上がアホな計画を立てたのは、俺がどちらの姿で申し込むか決めかねていたからだ」
「申し込む?」
「好きだ、ミュリエル。結婚してほしい」
え……。
今、好きと言ったの?
私に興味がない鬼上司が?
それに私の名前。呼んでくれたのは、初めてだわ……。
「もっとも拒否権はない」と、テオバルト殿下は極上の笑みを浮かべた。「父にもカルヴェ伯爵にも、とうに承諾をいただいている」
「ええ!? どういうことですか?」
「言葉のとおりだ。俺がミュリエルの好みじゃないのなら、外堀を埋めるしかないだろう?」
テオバルト殿下は立ち上がると、私の前にひざまずいた。
宝石のように美しい緑の瞳が、私を見上げている。
「生涯ミュリエルを愛し、大切にすると誓う。打算でも同情でも、諦念でも構わない。俺の妃になってくれ」
「……嬉しいです」
テオバルト殿下がパッと顔を輝かせる。
「でも、私はエッカルト様に恋していました。あなたの黒い髪も黒い瞳も低い声も好きでした。少し複雑な気分です」
殿下が高速でなにかを呟いた。
彼の姿が鬼上司になる。
「ナンバー6。俺と結婚をしよう!」
「そこは名前ではないのですか」
思わず苦笑してしまう。
鬼上司は立ち上がり、私を抱き寄せた。
黒曜石のような瞳が私の目をまっすぐに見つめている。
「ミュリエル、返事は?」
「あなたと結婚したいで――んむっ!」
最後まで、言葉を続けることはできなかった。
鬼上司に物理的に遮られてしまったから。
あまりに長くて甘美なキスに、意識が朦朧としてきたころ。
鬼上司は私を連れて、転移した。
第二王子テオバルト殿下の寝室の前の廊下へ。
昨晩の宣言通りに私を連れ込んで。
でも一睡もできていなかった私は、ベッドに降ろされたころには夢の世界に旅立っていたのだった。
《おしまい》
◇おまけのお話◇
(テオバルトのお話です)
「速攻で部屋に連れ込んでいるじゃん」と、コンラートが笑う。「ほら、僕にきちんと礼をしろ? なにがいいかな」
「誰がするか。俺は良くても、彼女は一晩中悩んでいたんだぞ」
腹違いの兄をにらみつける。
「僕の責任じゃないさ。さっさと正体を明かしてプロポーズしないテオバルトが悪い」
「段階ってものがあるだろうが」
「自分に嫉妬するって、どんな感じなんだい?」
ニヤニヤとするコンラートの脛を蹴る。
「可愛いよなあ。『女も恋も俺には不用』と言っていたのに、すっかりミュリエルのとりこになっちゃって。彼女に行くはずだった縁談、いくつ阻止したのかな?」
「そんなもの数えるか。腹立たしい」
「ミュリエルも、まずい男に惚れられちゃったね」
「いいんだ。素の俺を好きになってくれたんだから」
まさかテオバルトよりエッカルトのほうを好いてくれているとは思わなかった。
知ったときは天にも昇る心地だったし、今でも夢を見ている気分だ。
だけど、それならもっと早く正体を明かしておけばよかったとの後悔もある。
どれほどのガマンをしてきたことか……。
「でも彼女、気づいていないよね」と笑うコンラート。「お前がちょっと普通じゃないこと。気になった子を諜報活動にひっぱりこむとか、一緒にいたくて仕事を沢山与えるとかさ」
「ミュリエルは仕事好きだぞ? 誇りを持って励んでいる」
「うん。そういうことじゃないんだけどね……。まあ、変わり者同士で、ちょうどいいのかな。おめでとう、僕の可愛い弟よ」
コンラートが、柔らかな微笑みを浮かべた。
「これを機会に、僕に遠慮をするのはやめてくれ。彼女の妃の立場を守るためにもね」
俺は少しだけ逡巡してから、
「ありがとう」と、答えた。それから、
「彼女を連れ込みはしたが、なにもしていないからな」と伝える。
「えっ!」とコンラートは大袈裟に驚き、「テオバルトは彼女が絡むと、ほんとポンコツだよね」と笑いだしたのだった。
《おしまい》
面白かったら、☆をいれていただけると嬉しいです。
ご感想は、一言だけでも、 ヾ(*´∀`*)ノだけでも大歓迎です。
また、長編『婚約破棄なんてどうでもいいわ! 私のお目当てはラスボスだもの。』の連載を始めました。
合わせてお読みいただけたら、嬉しいです!