三題噺「柿・合言葉・見返り」
リハビリがてら三題噺始めました!
「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」
先生が板書したその言葉の意味を僕は理解できなかった。最近習った言葉でいうなら、想像性の欠如というやつだろう。
そもそも、柿を食えば鐘が鳴るというのが哲学の本で読んだパブロフの犬みたいなものかもわからないいし、法隆寺がどっから来たねんという関西なまりの突っ込みが頭の中で鳴り響いたりする。
「先生、こんなことを知って、僕になんの得があるんですか?」
勤勉な学生である僕は、ぴしっと背筋を伸ばして先生に問うた。
黒板にきれいに描かれた文字に満足していた先生は、にゅるりと振り返ると、僕の質問に笑いながら答えた。
「人生を損得で考えていたら、何もうまくいなかくなってしまうよ」
「何でですか、得なことだけやって生きていきたいんです」
この疑問はごく当たり前のことだと思うけれど。
「なぜかって?それは。君は得をしないと判断したことには、興味を抱けなくなってしまう。脳っていうのは不思議なもので、そう判断してしまったら、頭がフリーズしてしまうんだよ。頭が情報を入れなくなってしまうんだ。
そして君の中で得じゃないことが広がっていくと、どんどん脳が動かなくなってきて、、すると君の中の生存本能が働いて、得を求めるんだけど、認知のゆがんだ君の頭は、損することを怖がってしまう。そして最終的に、何もできない人間の完成だ」
中学生になったばかりの僕に笑いながらいう先生の言葉は、笑っているにも関わらずなぜだか怖く感じた。これは僕がまだおさないから理解できていないのかもしれないけれど、遠くかなたの世界のことを想像すると、なんだか怖くなってきてしまった。こころなしか、手が震えている気がする。
「じゃあ先生、僕はどうやって生きていけばいいんですか?」
「簡単なことだよ。見返りを求めないこと。ただ、それだけでいいんだ」
「見返りを、求めない?」
いいことをしても、お礼をもらったらダメってことなのだろうか。
僕の表情を見て先生は何かを察したらしい。僕の前まで歩いてくる先生を、みんなが注目している。
「君は君のしたいことをすればいい。その結果がどうなろうと、君には関係がない。だって、結果なんて思い出にしかならないんだから。君が生きているのは今、今なんだよ。見返りなんか求めていていちいち立ち止まっていたら、いつか本当に動けなくなってしまうよ」
頭の中に浮かんだのは、後ろ歩きしている自分の姿だった。確かに、後ろばかり見ていたら、歩くのが怖くなってしまう。
そして先生は最後に一言、こう付け加えた。
「君にとっておきの合言葉を授けよう。
『ラッキー』
だ。もし君が君のしたいことをして得だと思ったら、その言葉を口にするといい。それは運がよかったことだから。そうすると君は何が起こっても損だとは思わないし、逆にいいことが起きれば、ラッキーだと思えるから。そうして幸せが積み重なることで、君は人として成長して、健康的で活発的な大人に育っていくんだよ」
頑張りたまえ、少年。
そう言って先生は僕の頭を撫でてくれた。
見返りを求めない人生。自分のやりたいことをする人生。
それは思春期を迎えた僕の心の不安を、少しだけ明るく照らしてくれたような気がした。