section 2 「クラス替え」 - 3
section 2 「クラス替え」
三
明日香に声を掛けてきた、眼鏡をかけたお下げで背の高い女子は、桐谷聡美と言った。「きりや」と読むのか「きりたに」と読むのかわからなかったが、彼女は自ら「きりや」と読むことを教えてくれた。初対面の人に十中八九聞かれるので、最初から言ってしまうことにしているそうだ。控えめな感じもするが、かと言って臆して物を言うのを止めたりするようなタイプには見えない。大人し過ぎもしなければ決してうるさくもない、裏表もなさそうだ。どちらかと言えば、明日香が男子と対峙する時のように、女子らしい相手の裏を探りつつという所作は不要な、付き合いやすそうな人間に見えた。
席も近いし、これからよろしく、というような挨拶をしてから、明日香は第一印象がそれほど間違っていなさそうだと思う質問を受けた。
「大沢さんでしょ?一年の時海老島に楯突いたのって。」
桐谷は、それが特別なことではなく、まるで昨日昇降口の前で転んでたよね?のように、ちょっとした出来事でも聞くような感じで聞いてきた。そう桐谷が聞いてきた後、明日香と桐谷の席の周りが一瞬静かになったのを明日香は感じ取った。それは明日香が海老島に髪の毛を鷲掴みにされた時に上げた変な悲鳴に反応した、明日香以外の女子全員や、翌日、末原に廊下へ呼び出された時、通り過ぎるクラスメイトみんながそうであったように、何か言い様のない一つの色へ染まって行く、自分以外の全員が一致団結して行くような、置いていかれる感覚、自分だけが取り残されるような焦燥、それと同じものが漂い始めている。
ただ今回は、どこか混沌とした、逃げ場のない煙が一面に籠るような停滞感、大きな木にたくさん止まっている鳥の群れが何処へ行こうかと決めあぐねている、そんな風に明日香からは見えた。
「は?たてつ…。あー。あれね、あれかぁ…。」
明日香はそんな風に桐谷以外のクラスメイトたちを感じながらも、一瞬桐谷の質問の意味がわからなかったが、直ぐにあの事件のことだとわかった。そう、潤子を除けば、誰もこの件には触れてこなかったのだ。まるで腫れ物のように。それを、桐谷は何でもないことのように、本当に、こないだ商店街の八百屋で店主のおじさんと談笑していたよね、くらいの、普通のことのように聞くので、明日香にはそれが何だか可笑しくて、最後は笑ってしまい、机に腕を伸ばし、横に体を倒して、頬を伸ばした腕の上に載せた。明日香は力が抜けたというか、本当にあれは可笑しな出来事だったんじゃないか、そんな気すらしてきた。
「怖くなかったの?」
観た映画の感想でも聞くような言い方の桐谷だったが、その言葉に続けて、いつの間にか明日香の席の近くに来ていた小林が言った。
「そう!それ俺も聞きたかったんだけど、聞いていいのかどうかわかんなくて!」
それに続けて、一年時から同じクラスの男子や、小林とおそらくは小学校時代からの友達なのか、部活での友達なのかわからない連中も、ばらばらと集まってきて、何、それ、俺も聞きたい、とか言っている。桐谷とおそらくは同じクラスだった、あるいは元々友達だったのであろう女子も数名集まってきた。どうも、それくらい有名な事件となっていたようだ。
「潤子ー、たすけてー。」
明日香は大体声が大きいので、ちょっと声を上げれば、相手まで声が通る。緊張感のない助けを求める声に、ちゃんと数列向こうの潤子は立ち上がって、明日香が数人のクラスメイトに周りを囲まれた中、かなりふざけた顔で助けを求めているのを見ると、楽しそうに笑っていた。潤子の笑顔は明日香の気持ちを嬉しくさせたし、安堵もさせた。何で安堵したのだろう。明日香は、初対面の人が多い中に囲まれて、わいわい言われたところでたじろぐような人間ではなかったし、不良少女たちに囲まれて因縁をつけられたり、何か明日香が粗相をしでかして、それをクラスメイトに責められているわけでもない。でも、潤子が明日香の席の後ろに来て、腰をかがめて明日香の肩に後ろから抱きついてくれると、すごく嬉しかった。潤子は、まるでそういう明日香のちょっとした心の揺らぎを見抜いているかのようだ。
「いや、そりゃ怖かったよ、怖かったさ。第一、海老島怖くない人なんかいるの?いないでしょ?」
そもそも桐谷に聞かれた質問なのだから、桐谷だけに答えるように言えばよいのだが、何故か集まったクラスメイトたち全員に話すように、面白い話でも聞かせるような可笑しな調子で言った。その言い方が面白かったのか、純粋に可笑しいということが表れた笑い声が、集まったクラスメイトたちから起こった。桐谷は何となく無表情な感じに思えてしまっていたのだが、笑うと可愛らしい笑顔だった。仲良くなれると良いな、と明日香は思った。
「なのにさあ、あたしバカだから、髪の毛ふん掴まれてぶん投げられたら、このやろてめー、ってなっちゃってさ、そしたら、ぼーん、ばーん、びー、って。」
明日香はジェスチャーを交えながら、海老島に向かっていったが、張り倒され、平手打ちをくらい、泣き出したことを、最後は指で両目から涙が落ちる仕草をしながら言った。おもしろおかしく、まるで武勇伝でも語るように。雄弁と言って良いくらいだったかもしれない。しかし明日香には、力で全く敵わなかった、所詮女だからなのか、という悔しさが腹の底から吐瀉物のように上がってくる。今はその苦い味と一緒に飲み込むしかない。回りのクラスメイトたちは、うそぉ、とか、すごいね、こわーい、とかちょっとした騒ぎになっていて、明日香は後ろから潤子が抱きしめていてくれなければ、自分の気持ちを整理する方向性を見つけられなかっただろう。あれほどの力負けが、笑いのネタとして使えてしまうなんて、複雑なことこの上なかった。
ふと、教室の端の方へ目をやった。それは気分を変えようと思ったというよりは、視線を感じたからだ。すると、あの美しい鷲鼻の女子と、明日香の二つ前の席になった小さな不良少女、そしてもう一人、明日香はそいつにも見覚えがあったが、色が白く、目つきの悪い、あれは何というのだろう、マッシュルームカットなのかもしれないが、マッチ棒の先のようにも見える、その髪型の中に収まる、そんなに大きくない目は、どこか人を人とも思っていないんじゃないかという冷たさがあって、能面の小面ような、どこか不安を感じさせるような顔の構造の女子もいた。その三人が、明らかに、明日香に対して、あの女調子に乗ってやがる、とでも言っているような、明日香を悪く言っているのがありありとわかる様子で、開いている教室の扉の辺りで、明日香の方を見ながらたむろしている。いや、わかるようにやっているのだ。
あの白い魔女、そんなあだ名を明日香は思いついた、も同じクラスのようだ。これはめんどくさいのが三人集まった。最初から敵が三人もいるのだ。喧嘩なら三人まとめてだって、やっつけてやる自信が明日香にはあったが、女子の戦いというのは、陰湿になるものだ。そういうものとあと二年付き合っていかないといけないのかと思うと、絶望的な気持ちにもなるが、後ろから明日香を抱きしめながら、クラスメイトと明るく話している潤子の体温は、何よりも愛おしくて、そんな明日香のささくれを癒してくれるような気がした。