最終話
聖王の馬車を守るために近衛騎士達が騎乗しても、レオンスは馬に乗らなかった。
彼は戸惑った視線を私の後ろにいる王太子に向けた。
「殿下、本当に私がここに残っても、よろしいのでしょうか?」
王太子が戯けたように言う。
「もちろん。今後はもう、お前から剣を取り上げるような真似はしない。約束しよう」
王太子の笑顔に吊られそうになったレオンスが口角を上げかけ、けれどその反応は不敬だと思ったのか、彼は咳払い共に唇を一度引き結んだ。
聖王の車列が前進を始め、レオンスを置いていく近衛騎士達の馬達が蹴り上げる砂埃が、緩やかに辺りに舞う。
私は確かめるようにレオンスに言った。
「このままダルガンに残ってくれるでしょう?」
再度尋ねる私に対し、レオンスは片膝をついて首を垂れた。右手で拳を作り、自分の胸の前に当てて彼は言った。
「仰せのままに。王太子妃殿下。……長年貴女様にお仕えしてきたことを、今日ほど誇りに思えたことはありません」
「ありがとう、レオンス」
顔を上げれば、聖王の馬車列の最後尾にいる騎士の後ろ姿が夜の闇に消えていくところだった。馬車に取り付けられた魔術による明かりも、木々の陰に隠れてもはやここからは見えない。
無言で聖王を見送る私に声をかけてきたのは王太子だ。
「リーナ、大丈夫か? これで本当によかったのか?」
優しく問いかけながら、王太子が後ろから私を抱きしめる。
彼はこの結果に私が傷ついていると思ったのかもしれない。私は腕の中で振り返りながら、同じように両腕を伸ばして抱きついた。
「もちろんです。ダルガンの皆様には、私を受け入れてくれて感謝しかありません。この国で魔術の有無に左右されない国を目指して、私と同じ立場の人々の模範となれるよう、王太子妃として凛と生きていきたいです」
王太子は私を抱き寄せる手に力を入れ、ぎゅっと抱きしめた。
「君は初めて会った時から、凛としていた。目を伏せて俯いてはいても、心は誰にも屈していないのが、私には分かっていたよ」
「そうだったかしら……。自分ではよくわからないわ」
もしも七歳のあの日に戻れたのなら。
私は家族が誰も誕生日会に来てくれないことに涙する自分を、慰めてやりたい。
公園で自分の誕生日を祝うことが、こんなに素敵な男性との出会いに繋がるのだから。
ゴホンと咳払いをしつつ、私と王太子の前に仁王立ちになったのは国王だった。
「さて。二人にはこれがどういうことなのかじっくり説明してもらおうか。特にそなた達はいつの間にそれほど仲良くなっていたのだ?」
「あら、陛下。二年連続で聖王国の新年祭に合わせたかのように、王太子が体調不良で執務を休んだことを、まさか今まで単なる偶然だと思われていたので?」
広げた扇子で口元を隠しながら、王妃が驚きの発言をする。
「は、母上? ま、まさか……。私が密かに聖王国に出かけていたことを、ご存じで?」
国王は王太子の発言が信じられなかったのか、目を極限まで見開き、王太子と王妃を交互に見ている。
「お前がお供に連れて行った護衛が、きちんと事前に私に報告してくれていましたよ。大事な世継ぎを守るために、私が裏で護衛を更に手厚くしていたことに、気づいていなかったようね」
「で、ではご存じだったのなら、なおさら――母上はなぜ……私とリーナに白い結婚など命じられたのです?」
するとホホホホ、と白い喉を鳴らして王妃が笑った。
「私が慎重になるよう釘を刺さなければ、浮かれ切った王太子が聖王国とダルガン両国の世の趨勢も見極めずに、王太子妃を溺愛してしまうのが目に見えていたではありませんか」
王太子は最早返す言葉を失ったのか、黙ってしまった。王妃に何か言う代わりに、私の後頭部にそっと唇を押し付け、清々しく笑う。
「なるほど。ご指摘の通りです」
国王が側頭部を押さえながら、もう片方の手を微かに震わせて王妃を指す。
「つ、つまりそなたは……、二人が結婚式の前から親密だと知っていたということか?」
王妃は腕組みをすると、胸を張って答えた。
「親密どころか、二人はとうに愛し合っていましたよ。そうでしょう、リーナ?」
突然王妃に答えを求められ、しどろもどろになりながら私は口を開いた。
「は、はい。おっしゃる通りです。聖王国の新年祭を見学に来られた殿下と、聖王宮に隣接する公園で偶然出会しまして……」
王太子が代わりに続きを引きつぎ、王妃に言った。
「今までは人目を忍んでリーナと愛を確認し合っておりましたが、これからは堂々と愛を伝えることができそうです」
「お前の妃なのだから、勝手にしなさい」
話は以上だと言わんばかりに、王妃がクルリと踵を返し、離宮の中へ戻っていく。
(これはつまり、王妃様に私を王太子妃として認めてもらえたということ?)
戸惑う私の前を、国王が早足で通り過ぎていく。
「離宮に長居は無用だ。早いところ王宮に戻ろう」
少し進んだところで国王は思いついたように足を止め、ニッと笑って私を振り返った。
「守護獣は間違っても馬車に乗せるんじゃないぞ。壊しかねん」
「も、もちろんです。心得ております」
はははは、という国王の豪快な笑い声が夜の静けさによく響いた。
「――びっくりしたわ。あれを母親の勘と言うのかしら」
「もしくは王妃の勘かな。いずれにせよ、これからは堂々と自分の妃にキスができるな」
そう言うなり、王太子は私の肩をグッと引き、次の瞬間には視界いっばいに彼の顔が近づき、温かな唇が私の唇に押し当てられる。
唐突なキスに驚き、どう反応したらいいのかも分からないうちに、王太子は私の肩を離して離宮を見上げ、手を取り道なりに私を誘導し始めた。こちらにも心の準備が必要なのにと小言を言おうかと思ったものの、彼は私と目を合わせず、妙に真顔で離宮を見ている。
(あっ、もしかして……)
王太子を隣で見上げながら、気がつく。暗くて分からないだけで、きっと彼は今、顔を真っ赤にさせている。
多分彼もとても照れていて、お互い様なのだ。そう思うと彼を今まで以上に、とても近い存在に思える。
私はダルガンで王太子と上手くやっていける――そんな予感じみた自信が胸いっぱいに広がり、気分を高揚させていく。
「ほら、行くぞ。これから忙しくなるからな。覚悟しておけよ」
フィリップの声がして振り返ると、彼は立ち呆けていたレオンスの背をバンと軽く叩き、そのまま背を押して一緒に歩かせ始めた。
私と目が合ったレオンスが、生真面目な彼にしては珍しく、小さく笑顔を見せる。
不思議なことに、夜の闇の中を四人で歩きながら、私は安心感に似た居心地の良さを感じていた。居心地の良さは自分で作るものなのだろう。近くにいてくれる皆にとっても、同じように感じられる空間であってほしい。
今まで長い間自分はずっと一人だと思っていたけれど、そうじゃない。私はダルガンという大きな家族の中に飛び込んだのだ。
前を向いて背を伸ばし、堂々と胸を張って歩こう。
顔を下げている時間がもったいない。
私にできることは、きっとたくさんある。
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ハイマーの教会で一人の王女が祭壇の前に膝をつき、祈りを捧げていた。
隣国バスティアン王国に嫁ぐことになったその王女は、かつてこの教会を訪れた自分の曽祖母に思いを馳せつつ、祈りを終えた。
伏せていた目を上げ静かに息を吐く王女の隣に、大司教が並ぶ。
「王女殿下。いよいよ来週には、ご出国ですね」
「はい。緊張して仕方がありませんけれど、――かつて敵国だったこの国に嫁いでこられたひいお祖母様のことを思えば、大したことはないのですよね」
大司教は教会の入り口に視線を投げ、少し誇らしさを含んだ声色で言った。
「聖王国からいらした王女様は、我が国の王太子殿下と共に新婚旅行でこちらをご訪問され、思い入れがおありだったのか、その後も何度もいらしてくださったそうです」
入り口から祭壇の上に取り付けられた原初の光のレリーフまでを、大司教が目で辿る。おそらくその時に王女が王太子と歩いたであろう道のりを。きっと、当時の教会内部は緊張につつまれていたに違いない。多くの関係者が詰めかけ、二人の来訪を静かに見守ったのだろう。
王女が思い出すかのように自分の顎に細い手を当て、愛らしく小首を傾げる。
「その頃、たしかバスティアン王国の王女と聖王国の王太子の婚約も成立していたんですよね?」
「はい、左様にございます。当時のビクトリア王女とシャルル王太子ですね。……ですが聖王の悪事が世に広く知られて威信が失墜したために、婚約は破談になったのです」
「きっとその頃は、将来ダルガン王国の王女がバスティアン王国の王太子に嫁ぐことになるなんて、誰も想像していなかったでしょうね」
王女が戯けて言うと、大司教は失礼かと思いながらも小さく笑いながら大きく頷く。
二人は揃って顔を上げた。教会の壁には一枚の大きな肖像画が掲げられている。
慈悲深い王妃として民に愛された、ダルガン王国の王妃・リーナの肖像だ。敵対する国から来た王女だったけれど、周囲の心配をよそに、王太子とは仲睦まじかったという。
技術の発展に力を入れるというダルガン国王の舵取りに、王妃は深い理解を示し、国民の教育と啓蒙に尽力した。彼女は現在のダルガンの国際的地位を高める大事な一翼を担ったと言われている。
王女は自分と同じ、その茶色の髪と瞳の曽祖母の絵を見上げた。
もしも聖王国からこの王女が嫁いで来なければ、誇りを胸にバスティアン王国へと出発する今の自分も、いろんな意味で存在しなかっただろう。
「ひいお祖母様。私に勇気をありがとう」
王女は曽祖母の優しい茶色の目に見守られているような温かな気持ちになりながら、教会を後にした。