決別
私は印章を手のひらに載せ、聖王に差し出した。
「もしも聖王国がダルガンを裏切るような真似をしたら、私はまた印章を輝かせます。二度と愚かな真似はなさらないでください」
聖王は煤で汚れた顔を今度は赤くしながら、ぎりぎりと歯を食いしばって小さく頷いた。余程悔しかったのだろう。
満天の星空のもと。
がっくりと項垂れた三人の人影が、トボトボと覇気のない足取りで馬車へと進んでいく。
私は離宮の正面玄関に立ち、聖王達が出ていくのを見つめていた。
ダルガン国王の気遣いのお陰で、聖王たちは煤だらけになった服を着替えていたものの、髪の毛はどうしようもなかった。
ミーユはカツラを所望したが、国王は「カツラは離宮にはないし、最近のダルガンには王太子妃の影響で茶髪を隠す者がいないので、髪を隠せるベールもない」と至極残念そうに答えたのだ。流石にベールくらいはあるはずなのだが。
「この嘘つき」と反論したそうな、ミーユの羞恥と怒りで真っ赤になった顔が忘れられない。
大きな布で代用できそうなところを、それすら国王が貸与しなかったのは、聖王への軽蔑心からだろう。
結果、聖王達は揃いのチリチリ頭で帰国する運びとなった。
「レオンス、待って」
護衛騎士達の最後尾を歩くレオンスに話しかけ、彼を止める。
「ねぇレオンス。貴方本当は新年祭の後に、聖都の川下りで私を逃がそうとした人を見ていたんじゃないの?」
「何をおっしゃいますか」
「生真面目な貴方が、護衛を怠るとは思えないわ。新年祭に行く時も、気づかれないように私を護衛していたんじゃないの?」
あの日、国境を越えた後にレオンスが王太子に「剣を置いて聖王国へ戻れ」と命じられた時。
レオンスは私に「ヴァリオ王太子殿下に一本取られた」と言った。あれは私がうまく丸め込められて護衛を手放さざるを得なくなったことを言ったのかと思っていたが、実際は聖都で私と出会った男性が王太子だとあの時気づいての台詞だったのではないか。
ずっとついてきてくれると言っていたのに、私を案じる様子を見せずにあっさり帰国したのは、私に指輪をくれた人物の正体に気づいたからに違いない。
「ミーユに私の指輪の話を教えたのは、あの子の本性を王太子殿下に知ってもらいたかったからなのでしょう?」
レオンスは答えなかった。それが今彼にできる、最大限の肯定の表現なのだろう。
「貴方、帰国したらミーユに絶対に怒られるわ。騎士の身分を剥奪されるかもしれない……。大丈夫なの?」
「構いません。お守りしたいと思うような方々ではないと、今日はっきりわかりましたので」
私はチリチリ頭のミーユを見た。
聖王宮で彼女を見る時、レオンスがどんな表情をしているのかも、私は気がついているつもりだった。あれは、恋焦がれる視線だったと思う。
「貴方はミーユのことが好きなんだと思っていたけれど。どうして裏切るような真似をしたの?」
「リーナ様。男女の恋愛だけが、人の持てる熱い思いや感情の全てではありません」
レオンスは私と五歳しか変わらないけれど、時々私が思いもよらないようなことを言う。私よりもずっと経験豊かな大人なのだ。私の隣に控えているフィリップが、護衛としてそれまで周囲に視線を巡らせていたのを中断し、ジッとレオンスを見つめている。同じ護衛として通じるものがあるのだろうか。
(レオンスに「お守りする価値がない」と思われないよう、私も精進しなければいけないんだわ)
子供時代にレオンスが私の護衛担当になってから、初めて彼に命令をする。
「レオンス、ダルガン王国に来なさい」
「は、はい?」
全く予想だにしていなかったことを言われたのか、レオンスは目も口も無防備に開き、返事に困っているようだった。
「去年の新年祭の後で、私に言ったでしょう? 私は貴方についてきなさいと命じることができるって」
「あ、あれは……」
「だから今度こそ命じるわ。ダルガンにいる私を護衛するために、ここに残りなさい。聖王国に戻らないで」
レオンスは気後れするようなやや弱気な表情で、前方を歩く聖王一家を見た。彼らも私の話を聞いていたらしく、憮然とした様子で私達を睨んでいる。
私は聖王に約束を取りつけるべく、彼の元まで歩いた。
威厳もへったくれもない滑稽なチリチリ頭をなるべく見ないようにして、正面に立つ。
「レオンスをダルガンにください、聖王陛下」
「だめよ! レオンスは聖王国の騎士なのよ」
聖王より先に返事をしたのは、今しも馬車に乗り込もうとしていたミーユだ。
「ミーユ、貴女には聞いていないわ。割り込んでこないで」
私が反論すると思っていなかったのか、ミーユが驚いたように口をパックリと開け、言葉を失う。
「聖王陛下。今も貴方は私の母が、貴方を裏切る行為をしていたと思いますか?」
私は持たざる者に生まれたが、聖女選定石を光らせることができたのだから、聖王の血を引いているはずなのだ。
聖王は答えにくそうに目を逸らし、口を真一文字に結んで少しの間逡巡してから言った。
「いや。今思えば、側妃は……余を裏切るような真似はしていなかったのだろう」
「私の母の名は『側妃』ではありません」
「そんなことは分かっておる。あれは……」
そこまで言いかけ、聖王は言葉を止めた。彼のいつも自信と威厳に満ちた瞳が、束の間焦点を失ったかのように見えた。
不貞を働いたと思い込み、冷遇した女性が実は側妃などというただの記号ではなく、何の落ち度もないどころか聖女という代々の聖王が欲してやまなかった存在を生んだ妃なのだと、ようやく事実を認識できた――けれども、事実を認めて言葉にすることに抵抗があるようだった。
だがうやむやにするのは許せない。最後まで聖王に言わせるために、続きを促す。
「私には永遠にかけがえのない存在でした。母を殺したことを、貴方達はこれからずっと後悔と懺悔し続けることになるでしょう」
「余は殺してなどおらぬ! 事故として処理させたが、むしろ……本当は事故ではなく、エレナは自害したと思っていたのだ!」
どうやら聖王は母の名を覚えていたようだ。
自害となると、教会から葬儀も埋葬も拒否されてしまう。だから最後の温情として、事故扱いにしてやった、と言いたいらしい。
自害と推測されてしまうほど追い詰めていたのは聖王自身だというのに、都合よく自分を善人にしようとしている。
「聖王陛下。母を追い込んで死なせたのは間違いなく貴方ですし、更に貴方は私に同じことをしようとしたではありませんか」
聖王は何か言おうとしたが反論も弁解も思いつかなかったのか、開きかけた口を閉じた。
「聖王陛下。私は私に親切にしてくれた人を、これ以上貴方がたが不当に扱うのを見たくありません。一度しかお尋ねしませんので、慎重にお答えください。――貴方は私が聖王国からダルガンに来る時に、レオンスを随行員として選んでくださいました。もう一度彼に命じて、彼をここに残していってください」
急に自分の名前が出されて驚いたのか、直立不動で私達の会話が終わるのを待っていたレオンスが、頭や手を微かに動かしたのが視界の隅に入る。
「そうは言っても、我が国の近衛騎士を……」と口籠る聖王の発言に割り込み、ミーユがわめく。
「そんなわがままが通るわけないでしょう! 今は私の護衛騎士なのよ? お姉様は身の程知らずだわ!
「ミーユ、余計なことを言うな!」
焦ったように聖王がミーユを止める。私はミーユにゆっくりと視線を移した。
「本当に身の程知らずなのは、貴女よミーユ。隣国の王太子妃である私に対して、取るべき態度があるんじゃないかしら。何より私は貴女の姉なのよ? 私を本当に姉だと思ったことはなかったんでしょうけれど」
何も反論する術がないのかミーユは悔しそうに眉根をひそめ、扇子が小刻みに震えるほど強く握りしめている。
「良かろう。レオンスはダルガンに残らせる」
吐き捨てるようにそう言うと、聖王はこれ以上少しでも長くダルガンに滞在したくはないのか、素早く馬車に乗り込んだ。ミーユはまだ不満そうにしていたが、王妃に腕を掴まれて半ば無理やり馬車に乗せられていく。
ドレスの裾を車内に引き摺り込みながら、ミーユが捨て台詞のように私に言う。
「こんな横暴が通ると思うの? お、覚えていなさいよ!」
「その言葉、そっくりそのまま貴女達にお返しします。聖王国は本当に聖女が必要な時に、それを失ったのよ。自分達のしてきた悪事としっかり向き合うのは、貴女達のほうよ」
バタン、と馬車の扉が閉まる直前に、私は彼らが絶望の縁に立ったような表情をしたのを確かに見た。
私は強力な魔術を持つ両親から生まれた、初めての「持たざる者」なのかもしれない。だが今後魔術が失われていく中で、魔術に頼り過ぎた国の未来はどうなっていくのか。
残念ながら聖王国は長い時間をかけて、これから衰退の一途を辿っていくと私は確信している。
私の母の名は時の流れの中に消えていくだろうが、聖王の名は聖王国の黄金期を維持できなかった不名誉な為政者として、後世まで名を残すに違いない。
次話が最終話になります。