聖王一家は動く
金銀をふんだんに用いて意匠を凝らして造られた聖王宮の長い廊下を、一人の騎士が駆ける。
聖王一家の私室が並ぶ南の棟は、初めて聖王宮に来た者なら誰もが一歩進むたびにその豪華さに息を呑み、足を止めてしまうほど贅を尽くした空間だったが、見慣れたレオンスは一瞥すらせず、ミーユの部屋の扉の前へ辿り着く。
「ミーユ様。レオンスが参りました。お呼びですか?」
カチャリと扉が開き、どこか物憂げに首を傾げるミーユが顔を出す。大きな窓からは白いレースのカーテン越しに赤い夕陽が差し、彼女の顔色を分からなくさせている。
「さっき、ダルガンから早馬が来たのよ。詳細は伏されていたけれど、リーナお姉様に何かあったみたいで、ダルガン南部の離宮にいらっしゃるらしいの。王太子殿下に呼ばれて、お父様とお母様は急いで明日、ダルガンの離宮に向かうのですって」
南部の離宮は、国境から遠くない。王女の嫁ぎ先とはいえ、数年前までは敵国だったダルガンの王宮に聖王が乗り込むわけにはいかない。場所が離宮に指定されたのは、聖王への配慮と思われた。
レオンスは目を伏せて絨毯を見下ろした。赤地に金色の花の模様が描かれていて、華やかかつ鮮やかなその模様と彩りは、まさに王女の部屋にふさわしく思える。
「存じております。聖王陛下は大変なショックを受けられたご様子でした。……もしやリーナ様は、ご病気か何かでしょうか?」
硬い声のレオンスに対し、ミーユが鷹揚に首を左右に振る。
「分からないわ。でも、聖王を呼ぶということはかなり危険な状態ということなのでしょうね」
ミーユは部屋の中をゆっくり歩き、クロゼットを開けた。布を巻いた大きな四角いものを両手で取り出し、部屋の真ん中にあるローテーブルの上に置く。
ローテーブルには華奢な磁器のティーカップや大きなポット、それに焼き菓子が山ほど盛られた大皿が載っている。
姉が危険な状態かもしれないこの時に、優雅にお茶を楽しんでいたのだろうか、とレオンスは微かに違和感を覚える。
ミーユが布を取り去ると、中から表れたのは一枚の肖像画だった。レオンスが動揺のあまり、両手で自分の黒髪をかき上げる。
肖像画に描かれている男には、見覚えがあった。霧のかかる山々の前に立つその男は、ダルガンの王太子だ。
「な、なぜヴァリオ王太子の絵がこちらに? それにご結婚前にリーナ様のお手元に届いたのは、全く別の絵のようでしたが……」
「お姉様が喜ぶところを見たくなかったからよ。それにこういうものは、美化して描くものでしょう? まさか野蛮な小国ダルガンの王太子が、本当にこんなに精悍な方だなんて、思わなかったんだもの」
平然と説明するミーユを前に、レオンスは言葉を失った。
ミーユが幼い頃から側妃の王女であるリーナを見下し、虐めてきたのは知っているが、今目の前にいる彼女は、やや常軌を逸しているように見えた。
ミーユは両手で肖像画を持ち上げ、ヴァリオ王子の顔に唇を押し付けた。
「私の王子様だったのよ。本当は私がこの方に嫁ぐはずだったのに、持たざる者でしかない、劣った血のお姉様に奪われてしまったの。こんな理不尽なことって、ある?」
ミーユは肖像画を再びテーブルの上に置くと、足音を立てずにレオンスの正面に立った。そのまま手を伸ばし、レオンスの黒髪を撫でる。
ミーユは先ほどの発言を忘れてしまいそうなほど、愛らしい笑みを披露して、硬直するレオンスを見上げた。
「わたくし、知っているのよ。貴方が子どもの頃から、わたくしのことをどう思っているのか。本当は、見習い騎士になった時に、第二王女付きになってしまったことが、凄く不本意だったらしいわね。近衛騎士になった時も、わたくしの警備に当たる任務を志望したんですって?」
事実を言い当てられたレオンスは、ぎこちなく目を逸らし、無言を貫く。近衛騎士の中で、第二王女リーナの担当というのは、最も出世から遠ざかってしまう配属だ。それどころか、他の騎士達から常に同情と嘲笑の的にされる。
第二王女に近しい者は出世の道が絶たれることが周知の事実だからこそ、彼も抜け出したいともがいた時期があった。
「可愛い子ね。今こそ、貴方がわたくしの役に立てる時なのよ」
動揺するレオンスの手に、ミーユがそっと手を重ねる。一歩更に近づくと、彼女はサファイアのように美しい瞳をパチパチと瞬き、その美貌から目を離せないレオンスを上目遣いに見上げた。こうして微笑んで「お願い」をすれば、大抵のものは自分の手の中に労せずして転がり込んでくることを、ミーユは経験上、知っていた。
「お前はリーナお姉様に誰よりも長く仕えているわ。……ねえ、なんでもいいの。何かお姉様の評判を下げるような、お前だけが知っているとっておきの話はない?」
「何を仰いますか! リーナ様には誠心誠意仕えておりましたから、そのようなことは致しかねます」
即座に抵抗を見せたレオンスに、静かにするようミーユが自分の薄紅色のぷっくりとした唇に人差し指を当てる。
「しぃーっ。分かっているわ。お前は生真面目で、だからこそわたくし一筋なのではないの? 今どうしてもお前の協力が不可欠なの。お願いだから力を貸して」
絶句するレオンスに、ミーユがどこまでも甘い声をかける。
「ね、レオンス。いい子にしてくれたら、ご褒美をあげるわよ。騎士団長に命じて、貴方の評価を上げさせることもできるわ。それに……、わたくしがお前の頬にキスをしてあげる」
「そ、そんなこと……」と口ごもりつつも、レオンスの顔が一瞬で真っ赤になる。
その初心な反応に、ミーユは心の中でほくそ笑んだ。
「可愛い方。わたくしに誠心誠意仕える、わたくしのレオンスになってくれるわよね?」
ミーユがレオンスの手を更に強く握りしめる。
レオンスはごくりと生唾を嚥下した後で、逡巡しているのかしばらく沈黙を貫いた。やがて頭の中のせめぎ合いに結着がついたのか、彼はゆっくりと、だが明確に頷いた。
「ありがとう、レオンス。貴方がそばにいてくれることは、私の誇りよ」
ミーユは「リーナのお付きの騎士は思った以上に手玉に取るのが簡単だわ」と心の中で高笑いした。
聖王の馬車が聖王宮を出たのは、ダルガンから早馬が着いた翌朝だった。
馬車を引く馬は見た目を重んじた白馬にこだわり、なおかつ豪華な六人乗りの大きな車体を選んだせいで、速度が遅い。
聖王が乗っているため、他国に入国するとはいえたくさんの護衛騎士を引き連れていて大所帯である。
車内で旅用のグラスセットを広げた王妃が、赤ワインの入ったグラスを聖王に差し出す。
「お前、飲み過ぎではないか? 何杯目だ?」
「まだたったの五杯目ですわ、陛下。義理の娘の悲しい報せに、ヤケ酒をしても不思議はないでしょう?」
実のところ、祝い酒だ。
リーナが既にこの世にいないことを、聖王はもう知っていた。リーナの侍女が、ダルガン王宮で何が起きたのかを伝える伝書鳩を寄越したからだ。
そもそもリーナが死ぬのは、計画のうちだった。
元々リーナは、捨て石だったのだから。
聖王国がダルガンのような小国に負けるわけにはいかない。長い歴史と神から原初の光を与えられし地に建国された、大陸随一の正統性を誇る聖王国は、威信と名誉が国を支える。ダルガンふぜいに譲歩するなど、あってはならない。
だからこそ、聖王はリーナを嫁がせて油断させ、態勢を整えた後にダルガンに攻め入るつもりだった。
そのために諜報員だったネリーを侍女として引き抜き、リーナに付けた。
聖王の筋書きはこうだった。
聖王から見れば、ダルガンの王太子と持たざる者である陰気なリーナは、どうせうまくいかない公算が高い。万一、うまくいきそうな時はネリーに二人の仲を邪魔させる予定だった。頼る者のいないリーナは、ネリーを容易く信じるだろう。
そうして頃合いを見てネリーにリーナのネックレスに仕込んだ猛毒を使って、彼女をこっそり殺させる。王女がいつも身につけているネックレスなら、ダルガンも入国の際に分解して調べたりしないだろうから、一番安全な毒の持ち込み方に思えた。
リーナの死後に誰かがネックレスを調べたとしても、単なるロケットにしか見えないはずだ。そのために、聖王はわざわざ思い出したくもない不出来な側妃の絵を、ロケットの内部に描かせたのだ。
リーナが死ねば、聖王国は「ダルガンがリーナを殺した」と騒ぎ、中立の立場をとっていたバスティアン王国を仲間に引き込み、両国でダルガンを攻めるつもりだった。流石にいかに軍事国家といえど、ダルガンも二カ国が相手ではすぐに白旗を上げるだろう。
シャルル王太子とビクトリア王女の婚約は、このためにもどうしても成就させたかったのだ。
正面に座るミーユが、ドレスの胸元のフリルを整えながら、王妃に話しかける。
「お母様、このドレスわたくしに似合っているかしら?」
王妃の紅い唇が弧を描き、大きく頷く。
「もちろんよ。ミーユは何を着ても、美しいもの。特にそのドレスは桃色で、若い貴女に似合っているわ」
「ヴァリオ王太子殿下も、お気に召すかしら?」
聖王の誤算は、ダルガンが予想以上に強い国だったことだ。長年魔術をろくすっぽ使えない国として舐め切っていたが、リーナの手紙によれば彼らは技術なる怪しげなものを使って、種々の産業に役立てようとしているらしい。
リーナだけでなく、ネリーに横流しさせた情報からも、ダルガンの新兵器が侮れないとよく分かった。
聖王はギリギリと歯を噛み締めた。
バスティアン王国でヴァリオ王太子が披露したガス灯と、花火にはしてやられた。
肝心のバスティアン国王まで、褒めちぎるものだから、ぶが悪い。
その上、ミーユがヴァリオ王太子を気に入ってしまった。ここで聖王は方針を転換せざるを得なくなったのだ。そう、むしろダルガンを取り込んでしまえば良い。ミーユを気に入らない男がいるはずもない。
ヴァリオ王太子に不出来なリーナの代わりに、ミーユを妃として与えるのだ。そうすればゆくゆくはミーユに骨抜きにされた王太子が、聖王国に技術とやらを横流ししてくれるようになるだろう。
ダルガンが諸外国を差し置いて、優位に立とうとしている技術とやらを、盗んでやればいい。
聖王は愛娘を見つめ、心から言った。
「お前は間違いなく、世界で一番高貴で美しい未婚の女性だ。自信を持つがいい」
ミーユは馬車と並走する護衛のレオンスを一瞥した。彼の反応を確かめたかったのだが、案の定彼は自分に視線を奪われていたようで、目が合うなり気まずそうに素早く視線を逸らした。
お硬く生真面目な騎士らしい仕草に、ミーユは満面の笑みを浮かべ、満足げに頷いた。
「分かっておりますわ。お父様」




