朝の悲劇
ベルタに言わせれば、全くの想定外だった。
(あの聖王国の王女様だもの。どれほど高慢で居丈高な王女様がいらっしゃるのだろうと、身構えていたのに)
ところがどうだろう。ダルガン王城にやってきた王女は、思っていたより随分謙虚で、いっそ気弱過ぎるくらいだった。
ヴァリオ王太子はその恵まれた容貌からは想像がつきにくいが、長年仕えるベルタは知っていた。――彼は、意外と奥手なのだと。
今まで彼の周囲で色恋沙汰が全くないわけではなかった。
ただ、文字通り「彼の周りだけで」起きていたのだ。
未来の王妃の座を巡るバトルは、たしかに存在した。
たとえば己に自信のある、美と家柄を備えた上流貴族の令嬢が。
親族に唆され、のし上がろうと目論んだ中流貴族の令嬢が。
ワンチャンありかも、と見目麗しい王太子に心奪われ、果敢にも彼の隣に立つ座を狙ったうら若い女官が。
王太子に愛を告白した女達は、ベルタが知るだけで、これまで十人は下らなかった。
だがそんな究極の賭けに出た女達に対し、王太子はいつも真摯に同じ返事をした。
「あの手強い聖王国との戦争を終わらせるまで、自分の結婚は考えられない。血のついた手で妃を迎えたくはない」
おまけに昨年の年明けから、やたら物思いにふける姿を見せるようになり、国内の令嬢達は王太子との結婚に後ろ向きになってしまった。
率直なところ、ベルタは王太子には自国民を王妃に迎えてほしかった。
長年の敵国で、幾度も衝突をした聖王国に対する感情は、すぐには切り替えられない。
でも。それでも。
侍女一人を従えてやってきて、蜂蜜を垂らしたメロンを頬張り、「美味しい」と微笑んだ純粋な、何の打算もあざとさもない、聖王国の王女の姿に、ベルタの心は揺らいだ。
王城の中を銀色のカートを押して歩きながら、ベルタは苦笑した。
(王太子妃様は、思っていた方とだいぶ違ったわ)
ベルタは王太子妃のいる書斎の廊下の前に、背の高い男が立っていることに気がついた。
誰だろう、と不思議に思って両手でカートを押したまま、近づいていく。
書斎の扉にまるで耳を押し当てるようにして立っているのは、王太子の側近フィリップだった。近くに王太子はいない。
ベルタは眉根を寄せて、尋ねた。
「こんな所で何をなさっているんですか? 王太子妃様にご用事が?」
振り向いたフィリップはサッと人差し指を口元に立て、静かにするよう求める。
「起きてくるのがいつもより遅いから、気になっている。――王太子殿下から護衛として妃殿下のおそばにいるよう、命じられているからな」
「扉に張り付いて、護衛というより中の王太子妃様のご様子を探っているようにしか見えませんでしたけれど?」
女性の寝室に耳をそばだてるなんて、とベルタは血色ばむが、フィリップはいつもの涼しい顔で、まるで表情を変えなかった。相変わらずとらえどころがない。
腕も立ち、実家が侯爵家で国王からも覚えのめでたいフィリップは、城で働く女達から密かに人気がある。だが毎日顔を合わせていても一切打ち解けないフィリップが、ベルタは苦手だった。
「君こそ、なぜ王太子妃をそんなに簡単に信用する? 妃殿下は聖王に密書をしたためているだろう。あの野心の塊のような聖王に、いつも我が国のどんな情報を流していることやら」
「密書だなんて。ご実家に、お手紙を書いてらっしゃるだけでしょう?」
「ものは言いようだな」
フィリップの鼻で笑う仕草が、ベルタの癇に障る。
「お言葉ですが、護衛でしたら、妃殿下をはなから疑う姿勢は、いかがなものでしょう」
だがフィリップは首を傾け、酷薄そうな灰色の瞳をベルタに向けた。
「護衛である前に、私は殿下の侍従だ。聖王が何か魂胆があって王女を送り込んできたのなら……」
「魂胆も何も。両国の友好のために、嫁ぎにいらしたのです」
「表面的には、な。――妃殿下に目覚めの紅茶を運んできたんだろう? そろそろ入らないと、冷めるぞ」
話は終わりだ、とでも言いたげにフィリップがカートを顎で指した。カートにはポットやティーカップが載っている。
フィリップの姿勢には納得いかないものの、たしかに立ち話で紅茶が冷めてはいけない。せっかくの特級茶葉の香りが弱くなってしまう。
書斎のドアの前に立ち、不満そうな顔を改め、口角を上げて王太子妃に披露するための微笑を作ってから、ベルタはドアをノックした。
ところがいつもなら「はい、どうぞ」という少し気弱さの滲む声が中から返ってくるのに、今朝は反応がない。
ベルタは扉を開ける前に、チラリとフィリップを見た。彼は冷めた表情で、微かに首を傾げる。
王太子妃に声をかけながら、そっと扉を開けて書斎に足を踏み入れる。
「おはようございます、妃殿下。お目覚めの紅茶をお持ちしました」
リーナはいつもならこの時間にはもう、寝室を出てくつろいでいるものだったが、今朝は違うようだ。まだ寝室にいるらしい。
羽ペンが一本だけ転がっているテーブルの上にとりあえず紅茶を準備し、ベルタはリーナが起きてくるのをしばらくの間、ソファの後ろに立って待った。
やがて痺れを切らし、寝室に繋がるドアをノックする。
「おはようございます。妃殿下、そろそろお時間でございますので、寝室のカーテンを開けさせていただきますね」
ガチャリと扉を開け、奥にある窓際に向かい、分厚いタフタ生地のカーテンを開く。残念ながら外は曇天のため、あまり日が差し込んでこない。
王太子妃の寝台を振り返ると、ベルタは気持ちよく起きてほしいと願って、優しく微笑みながら寝台に近づいた。
そしてリーナにもう一度呼びかけようと口を開き、そのまま彼女は絶句した。
リーナは寝具を被ってはおらず、寝台の中ほどに仰向けで横たわっていたのだ。両手は首元にあり、首には引っ掻き傷があった。しかも口は半開きで、口には乾いた血痕がこびりつき、枕元には血溜まりができていた。
「そんな、妃殿下ぁぁっ‼︎」
ベルタがリーナに駆け寄り、体を強く左右に揺するが全く反応はない。
叫び声を聞いたのか、外で警戒していたフィリップが駆け込んできて、リーナに縋りつくベルタを押し退ける。
「フィリップ、妃殿下がっ! 血を、血を吐かれてっ……」
フィリップはその白い顔をさらに白くさせ、急いでリーナの首元に指先を当てた。数秒後に、リーナの左手を取り、手首にも指を押し当て、脈を確認しようと試みる。
フィリップはリーナの手を寝台にそっと戻し、怯えるベルタを振り返った。
「亡くなっている……」
どすん、とベルタが床に尻餅をついた。唇を震わせてフィリップを見上げる。
「そんな、どういうこと? だって昨夜まではお元気に馬車でお出かけされていたのに!」
「私に聞くな」
さまよえるベルタの視線が、寝台脇の小さなテーブルに止まる。天板には見覚えのあるネックレスが置かれていた。リーナが聖王国から持ってきて、毎日身につけていたものだ。
奇妙なことに、ネックレスは赤い石の部分が外側に開き、中から転がり出たのか小さな錠剤が一つ、テーブルの隅に落ちていた。
「このネックレスが容れ物になっていたなんて、知らなかったわ。これは、何?」
混乱しつつも這うようにしてテーブルに近寄り、その青と黄色の二色の錠剤を摘み上げ、ベルタが見つめる。
ようやく身支度を終えたネリーが寝室にやってきたのは、その時だった。彼女は一歩寝室に入るなり、リーナの無惨な姿を見て目を極限まで見開きフィリップを、次いでベルタを見た。
フィリップがなんの感情もこもらない、いつもの冷淡な声で言う。
「妃殿下は何やら持参された怪しげな薬を飲まれたようだ。……残念だが、亡くなっている」
ネリーはフラフラと数歩進み、その場に崩れた。




