王太子の双剣
「フィリップさん、でしたっけ? あの人も聖王国人を嫌っているように見えました」
王太子が肩を落として目を伏せる。
「フィリップは双子の兄がいたんだ……。二人一組でいつも俺の警護をしていて、俺の親友でもあった。だが、一昨年聖王国との戦いに行って……」
「その方は、――どうなったの?」
「……聖王国軍の火の玉に焼かれて、炭になって帰ってきた」
抑えた王太子の声が痛ましく、想像するにあまりある残酷な戦死の状況に、声を失う。
炭――。
人が炭になったら、しかもそれが自分の大切な人だったとしたら、一体どれほど苦しい気持ちになるのかなど、私には想像もつかない。武力衝突の場に実際にいたこことはない私は、友好や平和という言葉を、甘く考えていたのかもしれない。
聖王国は、精鋭の魔術使いを軍隊に集めている。おそらく風と火の両方の魔法で、ダルガン軍に対峙したのだろう。
王太子は双剣と呼ばれる双子の軍人の側近かいることで有名だったが、フィリップと双子の兄のことだったのだ。フィリップが私に対して向けていた、あの冷たい視線の意味が、よく分かった。
「貴方の大切な人を、ごめんなさい……」
掠れる小声でなんとか謝罪するが、王太子はすぐに顔を上げた。
「どうしてリーナが謝る? そんな必要はない」
「でも、私は聖王国の王女だから」
「もうすぐ、リーナは聖王国人ではなくなるだろう? ダルガンの王太子妃だ。今後、この国で誰が悪意を向けようとも、リーナは聖王国がやることや、やったことに対して、二度と謝る必要はない。たとえそれが誰に対しても、だ」
「殿下……」
王太子は腕を組んで考えこんでから、言った。
「待てよ。――ということは、君が逃げたいと言っていた結婚は、結局私との結婚だったのか……。なんてことだ。聖都であの時、私からリーナが逃げる手助けをしていたなんて。船には、あの後乗らなかったのか?」
「違うんです。乗ったんですが、見つかってしまって。でも、最初から貴方が王太子だと知っていたら、逃げたりしませんでした」
私達は無言で見つめ合った。
やがて王太子は微笑を浮かべた。
「正直言って、妃候補がアンヌ王女からミーユ王女になって、更にキャロリーナ王女になった時、聖王国に馬鹿にされたと腹が立ったよ」
「そ、そうですよね。何度も相手が変わること自体が失礼ですし」
馬車を降りた直後に王太子が王女達を非難していたことを思い出して、俯いてしまう。私が俯くと同時に、彼は呟いた。
「でも今は自分が、なんて幸運だろうと嬉しい」
聞こえたことが信じられず、顔を上げて王太子の目を見る。彼は新年祭を一緒に過ごした時のように、優しく微笑んでくれていた。
「リーナ。さっきは冷たくして、すまなかった。聖王国の和平が口先だけなんじゃないか、と疑う声もまだ大きいんだ」
「分かります。でも、聖王国とダルガンの友好の大きな第一歩になれるように、がんばります」
「正直に言うと、リーナを逃がそうとしていた時、君をさらって自分の妃にしてしまうことができたらどんなに良いだろうと思っていたんだ」
本当だろうか。嬉しすぎて胸の奥がキューンと疼く。
「私は貴方と結婚できる女性が羨ましくて、勝手に焼き餅を焼いていました」
ヴァリオ王太子がルーファスで、天にも舞い上がるような気持ちだ。
私達は必死に誤解を解き、讃えあう様がおかしくて、くすくすと笑ってしまった。
笑いを収めると王太子は改めて真面目な顔つきで私に言った。
「来てくれてありがとう、リーナ。私も良い夫となるよう、努力する」
ダルガン人らしい長い髪の毛と王子然とした豪華な服装に戸惑ってしまうけれど、王太子が私が新年祭で出会ったルーファスその人で、これ以上嬉しいことはない。いつの間にか立っていた黒豹が、何かを咥えていて、尻尾を振りながら自分の鼻先を王太子の方に向ける。まるで猫が捕まえたネズミを飼い主に披露するように。
「……って、ト、トッキー!」
黒豹が咥えているのは私の守護獣だった。王太子もようやく気がつき、急いで両手で黒豹の口もとに手をやる。
「なんてことをしてるんだ、ボーグ。トッキーを離せ!」
黒豹は任せてくれとばかりに、口をぱかっと開けて主人の指示に従った。口からトッキーが転がり落ち、王太子が両手で受け止める。
手のひらの上に腹を上にして落ちたトッキーは、石のように固まり、動かなかった。怪我をしているわけではなく、どうやら黒豹に恐れをなして死んだフリを決め込んでいるようだ。
動かないことを不審に思った黒豹が、トッキーを鼻先でつついている。遊んでやっているつもりなのか、顔まわりをペロペロと舐めている。
私が急いで抱き上げてやると、トッキーは固まっていたのが嘘のように素早く肩まで駆け上がった。
トッキーを覗こうと私の足もとで顔を上げる黒豹を、王太子が押さえこむ。
「ごめん、もう二度とこんなことは起こらないと約束するよ」
「大丈夫です、ボーグは一緒に遊んでいるつもりなだけだと、わかっています。犬や猫も、子どもを運ぶ時に口に咥えますから」
王太子がボーグの両頬に手を当て、目と目を合わせて言い聞かせる。
「ボーグ。トッキーのことも、リーナと同じように大事にしてくれ」
王太子を前に、私は正直な気持ちを言った。
「聖王国では、貴方は冷静沈着な軍人だと言われているんです。でもルーファスさんは……、実際の殿下はお茶目なあたたかい人で、だいぶ違いますね」
王太子は黒豹から手を離して照れくさそうに自分の後頭部をかいた。
「一応、将来国を背負う王太子だからね。皆が不安に思うことがないよう、頼りない姿や浮ついたところは見せないように、皆の前では王太子を演じているつもりだよ」
「頼りないなんてとんでもない。ルーファスさんは、凄く…… すごく……カッコ……」
凄く素敵で頼もしくて、たった一度の出会いで心奪われてしまったというのが本心だけれど、立場は大きく変わっても目の前にいる本人に直接伝えるのは恥ずかしい。
くちごもる私を、立ち上がったルーファスが急かすように覗き込む。
「凄く、何かな? その先をぜひ知りたい」
アクアマリンの瞳で真摯に射抜かれ、本心は覗かれたくないという私の矜持や羞恥心が、一瞬で溶けていってしまう。
「ルーファスさんは……凄く魅力的だったので、あのままでもきっと誰もが王太子殿下として慕うと思います」
「そうかな。それは嬉しいね。覚えておこう」
「殿下は王宮で、いつもは仮面を被っているということですか?」
「そうだね。家臣に囲まれて城の中にいると、世間が分からなくなるから、たまに変装して外に出るんだ。そういう時は、君と会った時のように、自然な自分が出せるんだけど」
「王太子様業って大変なんですね」
私のいい加減な相槌がおかしかったのか、王太子は小さく笑ってから、遠慮がちに私の手の甲に指先でそっと触れた。
「王太子様業か。王太子妃になるくせに、言ってくれるじゃないか。リーナもここで王太子妃業を始めに来たんだろう?」
私達は二人で噴き出した。
私は王太子が指先だけでなく、手を握ってくれたらどんなに素敵だろう、と思った。