ヴァリオ王太子
レオンスが振り返りもせずに隊列を抜けると、王太子が私の前まで歩いてきた。
「キャロリーナ王女。よくいらした。――だがはじめに言っておこう。私は聖王国との友好には懐疑的だ」
城門は私を迎えるために花々で美しく飾られていたが、私の目には一瞬にして色を失って見えた。
「殿下にお辞儀を!」と後ろから私に助言するネリーの言葉に我に返り、片膝を引いて改めて王太子に頭を下げる。
「王太子殿下、お目にかかれて光栄です。キャロリーナです」
王族には苗字がない。他の貴族のように長ったらしい氏名とはならず、私が名乗れるのは名前だけなのだ。
王太子は手を差し伸べて言った。
「貴女の夫となるヴァリオだ」
手を重ねるのを躊躇する私に苛立ったのか、王太子は硬直した私の手を乱雑に強く握り、地を這うような冷たく低い声で続けた。
「貴女の姉妹は、余程私の妃になるのがお嫌だったらしいな」
咄嗟に何を言われたのか、わからなかった。まさかアンヌとミーユの話を出会い頭にされるとは、予想もしなかったから。
王太子は二人に対して悪い印象を抱いているらしい。なんとか事実を伝えてなだめようと、答える。
「姉は、神のご意思で母となりましたので……」
「キャロリーナ王女は、子が神の意思でできると思っているのか? その認識は結婚式の前に改めてくれ。さもなければ当日、私達は悲惨な夜を迎えることになる」
またしても一瞬、何の話なのか分からなかった。理解した後で、猛烈に羞恥心が膨らむ。
王太子は女がとうやって妊娠するかを、私が知らないのかと勘ぐっている。
(なんてことを、皆の前で言うのかしら。恥ずかしい……)
「も、もちろん、正しく理解しているつもりです。神のご意思というのは、ただの比喩です。殿下にご迷惑をかけるほど無知ではないつもりです」
「では分かるはずだ。貴女の姉君は計画的に妊娠したのだろう」
「計画的だなど……。聖王国では結婚前の妊娠は不名誉だとされていますので、あり得ません」
「私との結婚よりは、その不名誉の方がマシだったのだろうな」
もう、返す言葉もない。
せめてミーユに対する誤解を解きたい。
「い、妹は善行の結果、不運にも病を得たのです。同行した侍女は、気の毒にも亡くなりました」
王太子は乾いた笑い声を立てた。
(どうして今、笑うの? なんて失礼なのかしら)
怒りと混乱で頭の中が白くなっていく。
「その孤児院では、確かに孤児が同時期に亡くなっているな。だが職員には被害がなく、肝心のその亡くなった侍女の遺体には、病の痕跡もなく綺麗だったそうだが。不思議なことだ」
「えっ?」
それは本当だろうか。と言うより、王太子は聖王国に人をやってそんなことまで調べさせたのだろうか。
「――ミーユ王女は本当に流行病に罹ったのか?」
「本当です。そんな嘘をつくはずがないではありませんか」
なんとか反論したものの、私の声は盛大に震えていた。
王太子の発言内容の信憑性は不明だ。だが一つはっきりしているのは、彼は私をまるで気に入っていないと言うことだった。
(ああ、お父様。やっぱり相手を私に替えてまで、この縁談を進めるべきじゃなかったのかもしれません。たとえ不履行を訴えられて巨額の賠償金を支払う羽目になったとしても。私では、お姉様やミーユの代わりは務まらないもの)
離宮に入った私は、応接間に案内された。
紫色のビロード張りのソファがローテーブルを挟んで向かい合って並んでいて、私と王太子が座るなり、侍女が紅茶を待ってきてくれた。
カップから立ち上る暖かそうな湯気を見て、自分が震えていることに気づく。緊張だけでなく、寒さからの震えだ。
聖王国の北に位置するダルガンは、やはり気温が低い。
意思とは関係なく震えてしまう自分の両手をどうにか抑えようと、こぶしを膝の上でギュッと握りしめる。ずっと震えている王女だと思われるのは情けない。
ローテーブルに置かれたランプは、芯もないのに明るく灯っている。魔術で灯されている火なのだろう。
この国には魔術を使える者が聖王国ほど多くない、と聞いていたけれど、流石に離宮には火の使い手がいるようだ。
ネリーも私の荷物を運び込む手伝いをするため、応接間には私と王太子の二人が残された。
しばらくの間、猛烈に気まずい沈黙が室内に垂れ込める。
「――ベールをしたままでは、茶も飲めないだろう。皆作業を手伝いに出て行ったぞ。外したらどうだ?」
提案してきてはいるが、ほとんど命令のようなものだ。
顔の前に垂れるベールの裾に手を掛け、ゆっくりと頭の後ろへと払う。
(きっとがっかりされる。でも、ずっと被っているわけにはいかないもの。それに、いつも以上に念入りにお化粧をしてきたから、きっと大丈夫……)
顔が露わになり、まるで服を脱いだかのように恥ずかしい。茶色の瞳で王太子を不快にさせないよう、ティーカップを見つめる。
王太子は不自然なほど、言葉を発しなかった。
気まずさに耐えきれず、緊張で硬直する喉を潤そうとティーカップに手を伸ばす。
左手でソーサーを持ち、右手でカップを持ち上げるが、手が震えているせいで紅茶が揺れる。小さく波打つ紅茶を溢さないよう、慎重に口に含む。
ガタン! と突然、王太子が立ち上がった。驚いてビクリと縮み上がってしまい、紅茶をむせそうになるのを、必死に堪える。
「キャロ……リーナ?」
声が掠れるほど驚いているようなので、私もうろたえてしまう。気になって視線を上げ、そのまま吸い込まれるように正面に立つ王太子と、初めて目が合う。
王太子は目を見開いて私を覗き込んでいた。
見覚えのある顔だ、と思った。
肖像画と似ていたからではない。むしろ、あの絵とはまるで似ていない。
(肖像画と似ているんじゃなくて、この人は……)
見覚えのある姿とは、髪型はおろか髪の長さまで違う。それにこんなに豪奢な服は着ていなかった。
でも輝きを放つようなアクアマリンの瞳は、見間違いがない。何より目が合うなり、私達の間にあった互いの警戒心が一気に崩れるのか分かった。
「まさか、ルーファスさん……? 貴方なの?」
声をかけた直後、王太子がローテーブル越しに手を伸ばし、私の膝上のティーカップを片手で押さえる。驚き過ぎて傾いたティーカップからは、紅茶が溢れる寸前だった。
慌ててティーカップをソーサーごとローテーブルに戻す。
再び目を上げると、王太子は目を瞬いて側頭部を押さえていた。
「リーナなのか? これは……何が起きてるんだ?」
「ルーファスさんこそ、なぜそんな格好を? どうしてここに?」
「俺……、私は聖王国から来るキャロリーナ王女を自分の妃に迎えるために、ここにいる」
「私は、ダルガンのヴァリオ王太子殿下に嫁ぎに、ここに来ました」
「――私がそのヴァリオなんだが」
(うそ、そんなはずない! 王太子が一人で祭りに来るはずないもの)
待てよ、と思い出す。あの時ルーファスは連れと来たと言っていたし、度々男性二人組と出会した。彼らはもしや、護衛だったのではないか。さしづめフィリップは容姿が目立ち過ぎるから、同行させなかったのだろう。
とはいえ、今目の前にいる王太子が偽者である可能性もある。
ダルガンは持たざる者の私が気に入らなくて、本物の王太子を隠して、私を騙しているのではないか?
「ルーファスさんは髪が短かったのに、どうやって?」
「あれはカツラだったんだよ。ダルガンの男達は、他の国々と違って髪を伸ばすから。名前も、ヴァリオじゃ聖王国では珍しい名前だから、君に名乗るのに聖王国らしい名前にしたんだ」
こんなに都合の良い話があるだろうか。
王太子は目まぐるしい考え方に追われるかのように、視線をあちこちにさまよわせて言った。
「そうか。キャロリーナ王女の誕生日は、新年祭その日だったな。だからあのリーナは、聖王一家に興味もなくて、けれど一等地に空き家を所有していたのか」
私は驚きすぎて脱力したように隣に腰を下ろす王太子を見た。
「ほ、本当にルーファスさんが王太子殿下なのですか? こんなことって……!」
「ルーファスが王太子なのではなくて、王太子がルーファスになっていたんだよ」
「でも、事前に送られた肖像画とはまるで別人です。丸々とされて、親指を立ててらして……」
「親指なんて立てるものか。山を背景に、馬にまたがる姿を描いてもらったぞ。私も仕上がりを確認したが、よく似ていて肖像画として申し分ない出来だった」
そんな。では私が手渡されたあの絵は、なんだったのか。
(まさかミーユが嫌がらせのつもりで、絵をすり替えたのかしら?)
それしか考えられない。思えばあの時、ミーユは私の反応をつぶさに観察していて、ずいぶん愉快そうにしていた。
でも、本当にここにいるルーファスがヴァリオ王太子なのだろうか?
「それなら王太子殿下。殿下の守護獣を見せていただけますか? 本当にヴァリオ王太子なら、黒豹の守護獣を呼べるはずです」
これなら、ごまかしがきかない。黒豹の守護獣は珍しく、同じ者は滅多にいない。
だが王太子は大きく頷いた。