王太子の待つ離宮へ
外は強い風が吹いていた。
馬車の窓に絶え間なく吹きつける風の音が、私の不安を煽る。
心細さに、押しつぶされそうだ。
私を乗せる馬車は見劣りしないよう特注をしたもので、金銀玉石で豪華に飾り立てられていた。馬車が華美すぎて、この中に乗っていることに気後れしてしまう。
(ヴァリオ王太子が、凡庸でつまらない私を見て、どうか怒りませんように)
不安からくる胃の痛みをなんとか我慢し、胸元のネックレスに触れる。父である聖王が別れ際に、私にくれたものだ。
聖王は聖王城の前に停められた馬車に私が乗り込む前に、とても優しい声で言った。
「リーナ、お前が聖王国の誇りを忘れることがないよう、これを贈ろう」
聖王は私の手を取り、小さな箱を持たせたのだ。
掌にのる大きさのその箱はビロード張りで、開けると大きな真紅の貴石が取り付けられたネックレスが入っていた。
「このルビーを見るたび、今日の旅立ちの日に聖王城から馬車までの道のりを、皆に祝ってもらったことを思い出しなさい。そうすれば、大きな使命を守り続けられるはずだ」
聖王から何かを贈られるのは初めてだったから、感激して震える私の手を、彼が両手で包み込む。
「さぁ、行きなさい。聖王国の王女ではなく、ダルガンの王太子妃となるために」
持たずの者である私が、初めて聖王から期待されているのだ。
(しっかりしなくちゃ。ここまで来てしまったからには、愛されることがないとしても、せめてこれ以上ヴァリオ王太子のご不興を買わないように、気をつけなければ)
聖王城を出てから、どのくらい時間が経っただろう。
滅多に国境付近に行かない私にとって、この旅で目にしたものは衝撃的だった。
私達は多くの町や村を通った。
いくつもの村が破壊されており、戦争の跡は生々しく、聖都では実感できなかった被害の大きさを見せつけられる。
静まり返って人っこ一人いない無人の村の崩れた花壇に、小さな花が蔓を伸ばして咲いていた。ささやかなその黄色い花の咲く光景が、瞼の裏から離れない。困難の中にあっても、小さな希望があるものだと教えられた気がしたのだ。
ダルガンは列強に囲まれた国だったが、代々国王は戦術に長け、少ない兵力で常に周辺国家に勝利し、その侵略を退けてきた。
経済政策も成功し、長年聖王国との戦争が続いていたとはいえ、財政は建国来健全だという。
向かいの席に座るのは侍女のネリーで、四十代の彼女は私の侍女となってから長くないので、あまり話が盛り上がらない。聖王が私の妃教育係として選任した、家庭教師のような立場の侍女でもあるため、日頃から注意や小言も多く、一緒にいると緊張してしまうのだ。
事前の情報の通り、国境には王太子が来ていなかった。
聖王城から同行した騎士達は、国境を越えることができない。護衛のレオンスを除いて彼らとは国境で別れを告げ、以後はダルガン側の兵士達が私の馬車を護衛した。
聖王国の赤い軍服を着た近衛騎士と違い、ダルガンの騎士達は紺色の軍服を着ている。紺色の軍服は見慣れず、囲まれるとソワソワしてしまう。
やがて日没近くになって、私達はようやく目的地の離宮に着いた。
馬車が止まり、ネリーが向かいから手を伸ばして私のベールに手をかける。
「さあ、きちんと顔までベールで覆いましょう。沿道に民衆どもが集まってしまっていますから。神聖な新婦が、夫となる殿方の前に人々に顔を見られるのははしたないことなのです」
かつての聖王国の風習では、同じ領内に住んでいる男女は結婚することができなかった。基本的には女性が別の領地に住む男性のもとに嫁ぐのが一般的で、移動の最中に他の男性に見染められて間違いが起こらないよう、定着したのが新婦が被るベールの起源と言われている。
今では領内の結婚も認められていて、自由恋愛が主流となっているものの、ベールの習慣だけは神聖さを象徴するものとして、残っているのだ。
ベールは白いレースでできていたが、銀糸の刺繍が全面に施されているため、被せられると前がよく見えない。
窓の外の離宮をよく見たかったので、歯がゆい思いをする。
代わりにネリーが窓に寄り、私に知らせる。
「思ったよりこじんまりとした離宮ですね。少し大きめの教会くらいの大きさしかありませんよ。こんな質素な所に聖王国の王女様をお迎えするとは。なんて無礼な者達なのでしょう……」
離宮の正面入り口から、ゾロゾロと人々が歩いてくる。王太子達が中から出てきたのだろう。心臓がうるさく鼓動し、私の緊張が頂点に達する。
窓から彼らを見たネリーが、驚きのあまり口元を押さえながら言う。
「えっ? あの方? まぁ、なんてこと。ヴァリオ王太子殿下は、なんと美丈夫なかたなのでしょう!」
ベールを脱いで見てみたいが、はしたない真似はできない。
「以前もらった肖像画と、あまりに違いませんこと? こ、これはどういうことなのでしょう。ミーユ様が持ってこられた絵とは、まるで別人ですわ」
ネリーが混乱した様子で騒ぐが、緊張のあまり私はそれどころじゃない。
いよいよ馬車の扉が外から開かれた。ここから降りて、ついに王太子と対面しなければならない。ネリーの手を借りて、ドレスの裾を踏まないよう慎重に下車して顔を上げると、王太子が堂々たる歩みでこちらへやってくるのが見えた。先頭になり、後ろに十人ほどの家臣や騎士を従えている。
煌めく黄金の髪をなびかせるその姿に、急いで俯き加減になってその場で待つ。
(ネリーの言う通り、私が見た肖像画では風船みたいな体型をなさっていたのに。まるで違うわ。おかしいわね)
王太子は私の所に来る前に、ピタリと立ち止まった。なんだろうと周囲が騒つく中、低く冷たい声が響く。
「なぜ聖王国の騎士が、ここまで来ている? 国境を越える許可を与えた覚えはない」
王太子の隣にいた若い黒髪の男性が駆け出し、私のそばにいたレオンスの前に仁王立ちになる。
「お前、何者だ⁉︎ 何のつもりでここまで王女についてきた?」
声をかけられたレオンスが、すぐさまその場で膝をつく。彼の周りで突然風が起こり、囲むように吹く旋風が辺りの砂埃を巻き上げる。正面に立った王太子の側近らしき武官が、魔術でレオンスを威嚇しているのだ。
風の半径は徐々に縮まり、膝をつくレオンスのマントをバタバタと巻き上げる。追い詰められたレオンスがたまりかねて、右手を軽く動かしたのが見えた。
(いけない、レオンス!)
レオンスも風の使い手だ。だが対抗して魔術を相手の領土で、しかも王太子の面前で使って敵対姿勢を取るのは、賢明ではない。
「そこまでだ! フィリップ、風を収めろ」
王太子の鋭い声が響き、レオンスに立ちはだかっていた男は渋々のように右手の指を鳴らし、風を止めた。
「殿下の温情に感謝しろ、レオンスとやら。で、お前はなぜここにいる?」
頭の上に被さってしまったマントを直してから、レオンスがフィリップとその後方に立つ王太子に答える。
「私はキャロリーナ王女殿下がお小さい頃から、護衛騎士を務めております。故に、聖王陛下から随行員の栄誉を賜りました」
「携剣した聖王国人には、何者であれ我が国の領土を踏ませぬ。ここをどこだと思っている? 聖王の許可など、持ち出すな」
フィリップの怒りのこもる声色に、その場の空気が再び張り詰める。渦中のレオンスは腰から下げた剣を外し始めた。そこへ王太子の冷めた声が降ってくる。
「何をしている?」
「剣をこちらに置いて参ります。ここより先は騎士ではなく、一介の随行員として……」
「同行は認めない。道中、ご苦労だったな。ここで聖王国に引き返せ」
驚いたネリーが私の耳元で「なんて横暴な!」と文句を言う。
王太子の声は、私が知っている誰かに似ている気がした。
(ああ、そうだわ。ルーファスの声に少し似ている。なんて切ない偶然なのかしら)
もっとも、ルーファスの声はもっと優しいし、ここまで重低音ではない。それに彼の話し方はもっとずっと穏やかだ。
「聖王陛下は異国に嫁がれるキャロリーナ様を、心からご心配されています。お側でお支えするよう、仰せつかっておりますので、どうか寛大なご処置をお願い申し上げます」
丸腰になったレオンスが、深々と頭を下げて懇願する。
「キャロリーナ王女は、どうお考えだ?」
突然王太子から名を呼ばれ、心臓が縮み上がるほど驚く。
(かんがえ? 私の考えを聞かれるなんて、思いもしなかったのに)
うろたえる私に、ネリーが耳打ちしてくる。
「リーナ様、レオンスが来てくれないと完全に敵陣に丸腰で放り込まれるようなものです! どうか王太子殿下をご説得ください」
そんなことを言われても。
「せ、僭越ながら……、レオンスは父からの信頼も厚く、彼がいてくれれば、私も心強いです」
「そうか。なら決まりだな」
決まり……ということは、一緒にダルガン王城へ行くことを認めてくれるのだろうか。
安堵の空気が聖王国がわに流れた矢先、王太子は言った。
「レオンスとやらは、ここで引き返せ」
私とネリーが聞き間違いかと困惑しているうちに、フィリップが王太子に言う。
「ですから申し上げたではありませんか。聖王は婚礼の随行員の中に、必ず刺客を潜ませてくると。終戦に見せかけて、隙さえあれば陛下や殿下を害して、また戦争を始めるに決まっています」
一言一句聞こえてしまった私とネリーは、あまりの言われように、震え上がった。
(そんな……。聖王国はこの国で、ここまで嫌われているのね)
歓迎とはほど遠い雰囲気に、足元から冷えていく。
王太子が大きな声で宣言する。
「キャロリーナ王女に聖王国からの護衛は不要だ。ここより先の警護は、我が国の者達に任せよ」
ネリーが私の腕をギュッと掴む。
「そんな。小国の王太子が、聖王陛下のお言葉を蔑ろにするなんて! リーナ様はこれでよろしいのですか?」
ネリーの発言は、聖王国は大陸で最も格上の国家であると自負する、いかにも聖王国人らしい発想に基づいている。
(でも、今この状況でその自負を主張するのは、賢明だとは思えないわ……)
これからダルガンに嫁ぐのに、聖王国を私が立てるのは間違っている気がする。
信頼できる護衛はたしかに欲しい。けれど、ここはダルガン国王の支配する地なのだから、聖王の要求も無理筋なのだ。初っ端から我を通して、ただでさえ悪そうな聖王国への印象を、これ以上下げたくない。
それに王太子は軍人としても名を馳せている。側近ばかりでなく彼自身を怒らせ、剣を振るわせてしまったら、私達の顔合わせが最悪の展開になってしまう。
私はネリーの手をそっと払った。そのまま数歩前に進み出ようとして、すぐにネリーに二の腕を掴まれる。
今度は先ほどよりも強い力で掴まれ、明らかな制止の意図を感じるが、それを振り払うために強引に前に大きく一歩を踏み出す。
流石にネリーもそれ以上は食い下がってこなかった。
私は王太子に向かって、頭を深々と下げた。
「王太子殿下のお考えの通りにお願いいたします。……レオンス、申し訳ないけれど帰国してお父様に状況をお話しして」
「そんな!」とネリーが背後から非難がましく呟く。
レオンスはゆっくりと頭を下げ、「仰せの通りに」と応える。
すぐに立ち上がったレオンスは私のそばまで来て、小さな声で言った。
「肖像画とは全くの別人ですし、思ったより手強そうではありませんか。我が国はヴァリオ王太子殿下に、一本取られましたね」
「そ、そうね……。同感だわ」
レオンスは私やダルガンの面々に深々と頭を下げ、隊列を離れていった。
ネリーは全く納得いってないようだったが、レオンスにまで食い下がられなかったことにホッとすると同時に、一抹の寂しさも感じてしまう。
(私のそばを離れないから安心してくれと、言っていたのに。別れる時はあっさり去っていくのね……。ちょっと寂しいわ)
帰国しろと言ったのは私だけれど、長年護衛として仕えてくれたレオンスとは絆があると思っていたのは、残念ながら私だけだったのかもしれない。