逃亡の果てに
川の水面を渡る風はとても冷たかった。
聖都を流れるマイン川は水量が多く、川下りの船は大きく上下に揺れる。
ほとんどの乗客達はデッキに出て川から見られる聖都の景色を堪能していたが、私は長椅子の並ぶ広い船室の隅に座り、ひたすら緊張で震えていた。
(なんて大胆なことをしているのかしら。――本当にこのまま、聖都を出て結婚から逃げ出せる……?)
すごく怖いけれど、自分の人生を初めて自分で切り開いている気がする。
今晩は聖都近郊で宿を借り、明日朝一で人口の多い副都を目指そう。
いくつもの大きな橋を通り過ぎ、聖都を出た頃。
船は終点の桟橋へと横付けされ、ゾロゾロと乗客達が下船していく。船室を出て眩しい夕焼けに目をすがめ、陸に上がる。足元が長い間揺れていたせいで、地面に降りると今度は揺れがないことに一瞬、違和感を覚えてしまう。
同じ船に乗っていた他の客達は、それぞれの目的地に向かってバラバラの方向に動き出していた。
できる限り聖都から離れようと街道の方へ歩き出した時。
私はこちらに向かってくる人物に気がつき、ぎくりと立ち止まった。
見間違いだと信じたかった。でも下船した他の客達の動く流れに逆らうようにして、私の方へ近づいてくるその人物は、見覚えがありすぎた。
緊張で引き攣る胃が、キリキリと痛みだす。
(ああ、だめだ。終わった――ここまでだわ……!)
自分の逃亡劇が、ここで終わったことを悟る。
「お戻りが遅いので、お探ししました。広場の別宅にいらっしゃるのかと思いきやいらっしゃらず、心底心配いたしました」
剣呑な眼差しを私に向けて、大股で歩いてくるのは私専属の護衛騎士のレオンスだった。全てを捨てる勇気を出して挑んだ逃亡の、早すぎる結末に絶望しかない。
(なんて……なんて呆気ない幕切れなの。自分が情けない)
私を逃がすためにルーファスがくれたものを、全部台無しにしてしまった。彼が楽しむはずだった川下りも、彼のアクセサリーも、お金も何もかも。
私は川岸に生える木のように硬直して動けなかった。
「レオンス、どうやってここが分かったの?」
震える声で問うと、レオンスは黙ったまま顎先で少し離れた草むらを差した。草の陰に灰色の犬が一匹、座り込んでいる。あれは彼の守護獣だ。
「リーナ様の持ち物を嗅がせ、後を辿らせました。聖都の波止場で追跡が途絶えてしまったので、乗船されたのだとすぐにわかりました」
「私、どこか遠くへ……」
目の前まで来たレオンスが、私の二の腕を掴む。これ以上の発言を許さないかのように、強く掴まれて息が止まる。
「お一人でこんな大それたことを? まさか侍女の誰かがリーナ様に、逃亡の手助けを?」
射抜くような眼差しに、恐怖を覚える。力を貸してくれた人がいると知ったら、聖王は処罰を求めるだろう。
「ち、違うわ。親しい侍女なんていないって、レオンスもよく知っているでしょう」
「これはどうされたんです? 今までこんなものはお持ちではなかったでしょう?」
レオンスは私の左手首を掴み、瞬時に引き寄せた。バクバクと私の心臓が早鐘を打つ。彼は私が左手の親指にはめる、ルーファスからもらった指輪を睨んでいたのだ。
「屋台で買ったのよ。私だって、買い物くらいするわ。だって、みんなは別の方法で新年祭を満喫しているじゃないの。いけない?」
レオンスは何も言わなかった。いつもより饒舌になってしまったことが、かえって怪しまれただろうか。
息苦しい沈黙の後で、彼は少し疲れたように言った。
「屋台でそんな物が、本当に売られていたのですか? おいくらでしたか?」
「値段まで覚えていないけれど。でも、本当よ」
レオンスは私の手首を離して、短い溜め息をついた。そのまま心底呆れたように腰に手を当て、宙を睨む。
「お気づきでないなら教えて差し上げますが、それは白金の指輪ですよ。おまけにそれほど大きなダイヤモンドが載っているとなれば、その辺の屋台などで到底売っている代物ではありません」
「えっ……。でも、これは」
「世間知らずにも、ほどがあります。困ったお姫様ですね」
「ご、ごめんなさい。屋台ではなかったかも」と謝るが、レオンスが再び鋭い眼光を私に向ける。
「今後はお一人には致しませんので、そのおつもりで」
レオンスは言い聞かせるように私に言った。
「今日、リーナ様はいつもより念入りに広場の別宅の掃除をされた。だからお帰りが遅くなったのです。よろしいですね?」
船に乗って聖都を出ようとしたことは、お互いのために口外するな。レオンスはそう言いたいのだろう。
「王太子様と結婚する王女殿下がいらっしゃらなくなれば、聖王国とダルガンは再び戦争を始めてしまいますよ。その現実が、お分かりですか?」
「でも、私がいなくてもまだ……ミーユがいるわ」
無意識に後ずさってしまうが、私がまだ逃げるつもりだと思ったのか、レオンスが瞬時に距離を詰める。彼は私の腕を掴んで、険しい表情で私を見下ろした。
たしかに、ミーユに酷いことを言っているとは、思う。レオンスの至近距離からの非難がましい視線と、刺すような胃の痛みに耐えきれず、歯を食いしばってうつむく。
レオンスは今や、私の腕を握りつぶすほどの力で掴んでいた。
「お顔に病の痕のある王女を、嫁がせられると?」
「そうは言っても、私より王太子様に気に入ってもらえるかもしれないわ」
「リーナ様は領土や兵達の命より、大切なお方なのですよ。高貴なお立場を、よくご自覚ください」
結婚は嫌だ、となおも主張したかった。けれど、レオンスは私が一番言われたくない言葉を、腰を落として私の目を真っ直ぐに見ながら、言った。
「聖王国の民を、これ以上失望させないでください」
この日を境に、私は結婚のために聖王国を出る日まで、どこに行くにもレオンスに張り付かれることになった。
ダルガンの王太子に嫁ぐという道から、私が逃れる術はなかった。