逃亡の勧め
二十歳の新年祭は、私が聖王国で迎える最後の誕生日だ。
聖王や王妃、そしてミーユとシャルルは朝から大忙しだった。
今年も大バルコニーに出る予定などない私には、何の予定もなく一年で最も自由気ままに過ごせる日でもある。
(去年の新年祭は、楽しかったな……。もう一度、あの日に戻れたらいいのに)
あと一月で、私は隣国の王太子に嫁ぐ。その日が近づくにつれ、押し殺してきた恐怖や心配が日々溢れ出てきて、毎日を淡々と送るのに精一杯だ。
新年を祝う民でごった返す広場を見下ろせる公園で、いつものベンチの上に腰を下ろす。
「ルーファスさん。今頃どうしてるのかしら?」
懐かしい名前を、つい呟いてしまう。
今日は去年のことを思い出して、もらった指輪をはめてきた。女性の指には大きいので、上手くはまったのは、左手の親指だ。
今年も持参したクッキーの袋を開き、漂う濃厚なバターと香ばしい小麦粉の香りに、ささやかな幸せを感じる。
(お誕生日おめでとう、私)
袋の中に手を入れたその時。前触れもなく声をかけられた。
「なんだ、今年もまたクッキーなのか?」
ギョッとして振り返った背後には、私を覗き込んで微笑むルーファスが立っていた。
去年と同じ無地の外套を着ていて、無造作に顔の周りに落ちる金髪の短い髪型まで、まるで変わっていない。
「ルーファスさん! どうしてここに?」
「嬉しいな。俺の名前を覚えていてくれたんだ。一年ぶりだね」
ルーファスは目を輝かせて爽やかに笑い、私の隣に座った。マントがふわりと広がり、風を含んでゆっくり地面に落ちる。
公園のベンチにルーファスと二人で座っていることが、信じられない。
もう会えないと思っていたのに、二度目の邂逅が夢のようで信じられず、お互い笑顔で見つめ合ってしまう。
「去年は別れ際に指輪をあげたのに。ケーキを買わなかったの?」
少し戯けるように問われ、ブンブンと首を左右に振る。
「せっかくいただいたのに、売ったりなんてできません。だ、大事にとっておいてあります」
正直に話し、どうだとばかりに指輪のはまる左手の親指を見せつける。するとルーファスは照れたのか頭をガリガリ掻きながら、目を彷徨わせた。
「そ、そうか。それはそれで嬉しいな。ちょっと予定が変わって、今年も聖都の新年祭に遊びに来られたんだ。もしやと思って、公園に来てみたんだけど」
ルーファスは片手に持っていた紙袋を広げ、中を私に見せた。
「買ってきてよかった。スコーンだよ。一緒に食べようと思ってね」
紙袋には干し葡萄の混ざったスコーンが二つ入っていた。アイシングで上に花や猫の形の飾りがついていて、手が込んでいる。鼻腔をくすぐる甘い香りに、思わず頬が緩む。
「ありがとうございます! 食べるのがもったいないくらい、かわいいですね」
「目抜き通りを歩いていたら、見つけたんだ。やはり聖都は、お洒落なものがたくさんあるな。リーナ、お誕生日おめでとう」
私達はアイシングを割らないように、慎重にスコーンを食べ進めた。
「これって喉が渇くな」と苦笑しながら、ルーファスが何度も自分の水筒から水分補給をする。何が面白いのか自分でもよくわからないけれど、私達は彼が水筒を開けるたびに声を立てて笑った。
食べ終わるころに、自分の失態に気がつく。
「しまったわ。投げ矢の回数券を持ってくるのを、忘れてしまったの。会えると知っていたら、持ってきたのに」
ルーファスは楽しそうにハハハと声を立てて笑った。
「いいんだよ、急に俺が来たんだから」
「あの……、今年も私の空き家にご案内しましょうか? 大バルコニーをまた観ませんか?」
乳母からもらった家で、また二人で聖王一家のお出ましを観覧しようかと提案してみるが、ルーファスは意外にも力なく微笑み、首を左右に振った。残念ながら、今年は大バルコニーに興味がないようだ。
「ありがとう。でも、大バルコニーはもういいんだ。今年は見ても仕方がないからね」
今年は見ても仕方がないとは、どういう意味だろう。
不思議に思って反応に困っていると、ルーファスが慌てて言い足す。
「今年は純粋に聖都を見て回りたくて、来たんだ。この国を、少しでも好きになりたくてね。落ち込む気持ちを前向きに変えたくて、新年祭に来たんだよ。リーナはこの一年、元気にしてた?」
「そうですねぇ。正直に言ってしまいますと、あまりいい一年ではありませんでした」
「なんだ。俺達、似た者同士だな!」
二人でやさぐれたように笑ってしまう。
ルーファスと二人で話していると、なぜか些細な会話が楽しくて仕方ない。他愛ない話なのに、ケーキを前にした子どものようにウキウキするのだ。
私達はそうして公園で、クッキーと水筒だけで延々と何でもないことを語らった。
やがてクッキーも底をついた頃。遠くから、三時を知らせる教会の鐘の音が響く。ルーファスは鐘が鳴り終えると、寂しげに言った。
「二時間も話し込んでしまったな。そろそろ宿に一旦帰らないといけないんだ」
公園を歩きながら、チラチラとルーファスを見上げる。
聖王城にこのまま歩いて帰るわけにはいかないので、乳母の残した家に一度寄る私を、ルーファスが送ってくれる。
大バルコニーのお出ましは終わっていたが、聖都の中心部はまだ人でごった返している。
歩きながら私達は話した。
「――ルーファスさん。来年も聖都に来られそうですか?」
ルーファスは歩調を少し緩めて、空を仰いだ。やるせなさそうな溜め息をつき、言いにくそうに話し始める。
「難しいかもしれない。実は、もうすぐ結婚することになったんだ」
「そ、それは……おめでとうございます」
言葉では祝福しているのに、急な知らせに胸がズンと重くなる。
私と同じで結婚を控えているなんて。
けれどルーファスがあまり嬉しそうにしていないのは、なぜだろう。
私が黙って見ているので、ルーファスは少しずつ話し出した。
「めでたい、のかな……? 自分でもよく分からないんだ。親の命令で、会ったこともない女性と結婚することになったからね。聖都に住む女性だから、もう一度ここに来れば少しは彼女のことが分かるかと思ったんだ」
どうやらルーファスも私と同じで、結婚相手を自由に選べなかったらしい。
けれど、ルーファスのような男性と結婚できる女性は、なんて幸運なんだろう。私の結婚とどうしても比べてしまう。
モヤモヤと胸の中にわだかまりが溜まり、すぐにそれは見知らぬルーファスの結婚相手に対する苛立ちに変わる。
今、ルーファスと会いたくなかったかもしれない。
多分、私は彼の妻となる幸運に恵まれた女性に、嫉妬していた。
(よりによって、今気づきたくなかった。私は……この人のことが、好きなんだ……)
生まれて初めて自覚した恋だった。恋を知った直後に、好きでもない人と結婚しなければならないなんて。
胸のズキズキとした傷みを我慢して、彼に告げる。
「実は、私ももうすぐ結婚するんです」
私の告白にルーファスが目を丸くする。何度か大きく呼吸をしながら、こちらをアクアマリンの瞳で凝視してくる。
「なんと。お互いそういう年齢とはいえ、偶然だな。……おめでとう、リーナ」
ヴァリオ王太子との結婚が決まってから、何百回も色んな人から言われた「おめでとう」だけれど、ルーファスから言われるのが一番、辛い。
「私、でも……怖いんです」
「結婚が? なぜ?」
「私も、自由恋愛で結婚するんじゃないんです。相手は親に決められた男性で……冷徹な人で、長年我が家と仲が悪かった一族の人なんです」
「嫌なら、親にちゃんと言うべきだ。今時結婚を強要するなんて、おかしい」
「嫌かどうかは関係ないんです。義務だと思っていますし、父は特殊な商売をしているので、私も結婚相手を自分で自由に選べないんです。でも、相手は私のことが嫌いみたいで……、私どうしたらいいか」
ルーファスにそこまで言ってから、自分が嫁ぐ日の具体的な段取りを思い浮かべる。
私は、聖王国からダルガンに向かう時、馬車で国境を越えることになっている。このような国際結婚の場合、新婦を乗せた馬車の一行が相手国に入国する際、慣例にのっとれば本来ダルガンがわは、新郎であるヴァリオ王太子の馬車列を組み、私を出迎えるべきなのだ。だがつい先日、ダルガンから伝達があり、なんとヴァリオ王太子は私を迎えに来る気はなく、王都と国境の中間地点にある離宮で私を待つとのことだった。
あくまでも戦争はダルガンが優位で終わったのだと強調し、そのやり方に聖王国の王女を従わせることで、実質上聖王国に不利な立場であることを認めさせる狙いだろう。
この知らせに、ミーユは大袈裟に騒いだ。
「酷いわ。リーナを国境でほったらかして、挙げ句に離宮に来いだなんて。きっと、王城には入れないつもりなのよ! 離宮に閉じ込めておくつもりなんだわ」
私は一生懸命架けようとしている両国の橋を、ヴァリオ王太子からポキポキと折られていく気がした。彼の父であるダルガン国王からは山ほどの宝石や絹織物が送られてきて、誠意を感じたのだが。
ルーファスが私の両腕を掴む。彼は目を見開き、眉根を寄せて物凄く真剣な表情をしていた。
「結婚が嫌なら、君の意思は尊重すべきだ」
思わずクスッと笑ってしまう。
「でも、ルーファスさんも同じ状況なんですよね? 見たこともない人との結婚で」
「俺は、家を継ぐから仕方がないし、君みたいに恐怖を覚えたりはしない。あくまでも迎える立場だしね。……ねぇリーナ、結婚の話になった途端、自分が凄く震えていることに、気づいている? 顔色も真っ青だ」
「抑えようとはしてるんです。でも、自分では震えを止められなくて」
力を入れると余計に震えてしまい、手に持つクッキーの空の袋がカサカサと揺れる。ルーファスが立ち止まり、私の両手を包み込むように手を当てて手の甲をそっと押さえてくれた。
「落ち着いて、リーナ。お相手と会ってみれば、聞いていた話とは違うかもしれない。それに、君を嫌う男なんているはずがない」
こんなに優しい言葉をかけてくれた人が、周りにいただろうか。目頭が熱くなって涙目が溢れてしまい、慌てて指先で拭う。
すぐに泣くような、情けない女だと思われたくない。
「嫌われているのはもう、わかっているんです。私が持たざる者だし――、その……私の顔が気に入らなかったみたいで」
「その男は馬鹿だな。凄く馬鹿だ。信じられない」
「私の結婚相手は、家にも私を入れてくれる気がないみたいで」
「家に入れないとは、どういうこと? リーナにどこに住めと?」
ルーファスが驚いて目を見開く。
流石に離宮とは言えない。そもそも一般の民は、家を複数持ったりはしない。
「家から少し離れた所にある、な、納屋に当分は暮らせと」
「なんて薄情な男なんだ! 許せない。リーナ、君はそんなに嫌なのに、なぜ逃げないんだ?」
「――逃げる?」
そんなことは未だかつて、考えたこともない。
どんなに家族が冷たくても、使用人達に蔑まれても、私のいるべき所は聖王城であり、唯一の親の元だった。私にはこれでも王女としての矜持があり、それは私の心の支えでもあったのだ。
それに聖王は私に期待を寄せ、戦争終結という大仕事を私に任せてくれた。
「家庭内暴力をするような夫だったら、どうする? 結婚が成立してしまえば、逃げることもできない」
「娘としての、務めだと思っているので……。一方的に破談してしまうと、家族も困りますし」
「そもそも震えて顔色が変わるほど怯えている結婚を強いるような親を、立てることはない。たしかに女性一人が家を出て、つてもなく暮らせるほど世の中は甘くないけれど……」
「私は逃げだせる強さを持ち合わせていないんです」
再び歩き始めた私達は、まもなく乳母の家に着いてしまった。
玄関扉の前で、名残惜しくて立ち止まってしまう。
「ルーファスさん、今日は来てくれてありがとうございました。お互い、色々とありますけど頑張りましょう」
「リーナも元気で……」
ルーファスの綺麗な瞳を目に焼き付けたくて、彼の瞳をじっと見つめる。その形や色を忘れてしまわないように。
「それじゃあ、さようなら」
小さく右手を振って、彼に背を向けて玄関の扉の真正面前に立つ。
これで、本当の最後だ。もう二度と、ルーファスとは会えないだろう。
瞬間、私は別離がたまらなくなった。果たしてこのまま何もかも忘れて、聖王城に戻って嫁いで、全て忘れることができるだろうか。
(もう一度だけ。もう少しだけ、ルーファスさんの顔が見たい)
再び後ろを振り返り、ルーファスを見上げる。彼は彼で、なぜかぶつかってしまいそうなほど私のすぐ後ろにいた。思わず本音が口から飛び出る。
「わ、私……。本当は結婚したくないの」
ルーファスが私の手を取る。
「分かっているよ。当たり前だ」
そこまで言うと、ルーファスは思いついたように目を見開き、自分の首に手を回してネックレスを外し出した。
「これを上げるよ。それと、これも。こっちも」
ルーファスが指輪も、マントを留めるピンも、ありとあらゆる装身具を外していく。
斜めにかけていた革の鞄から財布を取り出すに至り、慌てて彼を止める。
「そ、そんなにいただけません!」
ルーファスはあろうことか、財布ごと私の手の中に押しつけてきたのだ。長財布はとても分厚く、お札が相当な枚数収められていることが分かる。
「これだけあれば、なんとかなるはずだ。今からすぐに、逃げるんだ」
逃げるなんていう選択肢は、彼に提案されるまで考えたこともなかった。だが実行可能な選択肢として突然目の前に差し出されると、非常に魅力的な道のように思え、今までなぜ黙って王女としての役割に従おうとしていたのか、決意が根底から覆される。
「でも、私……。そんなに簡単には決められません。逃げるなんて思い切ったこと」
「リーナ。君だけは、幸せになってほしい」
ルーファスの懇願に近い言葉に、ハッとする。
私を間近に見るアクアマリンの瞳はとても悲しげに揺れ、今にも泣き出しそうなほど悲痛だった。
「俺は兄弟がいない上に継がないといけない家業があって、逃げることができない。でもリーナが不幸になるのは、耐えられない。今日また会えたことに意味があるなら、きっと君を逃してやれる気がする」
たしかに、逃げるなら今しかない。新年祭で聖王一家が忙しく、最も私に自由がある日で、皆が浮かれている今日という今日。
「でも、今日は新年祭でどこも宿は予約でいっぱいだし、駅馬車のチケットも半年以上前から満席なんです。逃げようにも……」
するとルーファスがポケットから一枚の券を取り出した。
「チケットなら俺のをあげるよ。川下りの観光船だけど、これなら聖都から出られる」
育った家を捨てて逃げるなんて、無理だ。そう思っていたのに、急にその考えに大きな穴が開けられる。
果たして本当に、運命から逃げることができるのだろうか。
私は差し出されたチケットを、震える手で受け取った。