大教会
大教会は、大陸随一の歴史を誇る。
祈りを捧げるのに最も適した場所は、ここより他にない。
世界のどこよりも神聖で由緒正しく、そして人々の信仰を集める教会だ。
灰色の石を積み上げて建てられたファサードは圧巻で、上部の外壁には歴史上有名な聖人達の像が並べられている。
正面入り口へと繋がる階段は石造りなのに、表面に大きな凹凸があった。私は誇らしさを胸に、隣を歩くルーファスに説明した。
「階段がデコボコなのがわかりますか? これは、二千年以上もの間、多くの人々に踏まれたからなんです。信仰は石をも穿つ、と聖都ではよく言われます」
「なるほど。凹めば凹むほど歴史的な価値が出て、改修できなくなりそうだな。しかも同調心理なのか、凹んでいる場所を無意識に踏んでしまうから、余計に凹みそうだ」
「言われてみれば……、そうかもしれません!」
「よし。これ以上凹ますとお年寄りが転ばないか心配になるから、俺はあえて凹んでいない部分を踏むぞ」
「ルーファスさんは、お優しいですね……」
話しながら笑ってしまう。二人で階段を上るだけで楽しいなんて、不思議だ。
私は大教会までの道案内を頼まれただけなのだが、流れでそのまま大教会の中に一緒に入っていき、内部の案内を進めてしまう。
「天井の高さは教会としては世界一、と言われています。高すぎて、せっかく描かれている天井の絵が、全然見えないのが勿体無いんです」
「望遠鏡がいるな」
ルーファスの反応がおかしくて、ついまた笑ってしまう。笑い声が広い教会内に響き、慌てて自分の口元を押さえる。
新年祭のために遠方から来た人々が、やはり私達のように大教会の観光をしていくからか、いつもより人が多い。
ただ、信仰の場であることは皆忘れておらず、誰もが静かに参拝している。
「大教会で必見なのは、ステンドグラスです。中ほどにありますので、見に行きましょう」
教会の壁にはたくさんの窓が設けられていて、内部は柔らかな光で満ちている。その一角に大きなステンドグラスがあり、色鮮やかで神秘的な光を内部に落としていた。
ガラスで表現されているのは、聖女発見の歴史的な場面だ。初代の聖王が神から与えられたという、聖王国の印章は黒い石でできているのだが、聖女はそれを発光させることができる。
聖女は初代聖王の子孫にしか現れず、聖王家が神から授けられた地の支配者としての正当性がある証拠なのだ。聖女がいる土地はよく栄え、発展するのだという。
聖王が差し伸べる左手にはまった印章から黄金の光が放たれ、隣にいる赤い髪の、今しも聖女であることが選定された女性が立っている。
一番奥には祭壇があり、その上部に黄金に煌めく長い一本の棒状のものが飾られていた。
「原初の祝福」である。
大陸のどこに行こうとも、どの教会にも置かれる、最も大切な信仰の象徴だ。
無に等しかった世界に、神は「原初の光」を差し込ませ、それが現在の水風火の魔力の源になったのだから。
顔を上げればステンドグラスには、青や赤、黄色などの鮮やかな色彩を用いて、ストーリー性のある場面が表現されていた。
天から降って来た光は地上に落ちて二つにわれた。それが対となる主人と守護獣の始まりである。
強い魔力を持つ人々が指導者として民を率いて国を作り、大陸の向こうの島にも広がっていった。
こうして支配者階級である王族や貴族には連綿と、より強い魔力が受け継がれてきたのだ。
ステンドグラスの下には、腰ほどの高さの水盤が置かれていて、その前に参拝客達が並んでいる。皆水盤の中に手を入れるために、順番を待っているのだ。
水盤の中には燃える水が渦となり、ゆっくりと回っている。三つの魔術・水風火の力の象徴だ。
「あれは……もしかして『三位の分配』か?」
ルーファスが興奮したのか、少し掠れた声を出す。
「そうです。創造神が天から人々に分け与えた一番最初の水風火の力の、名残りだと言われています。記録によればこの三位の分配は、二千五百年前から燃えているそうです」
「初めて見るが、意外と小さいんだな。もっと噴水のように大きな水盤の中にあるのかと思っていた」
私達は列の最後尾に並び、小声で話を続けた。
「昔は各国に三位の分配があったらしいですが、現存するのはこの聖都の大教会だけなんです」
水盤の渦に手を入れることで、神のご意志に触れられると言われ、信仰心の厚い人々は一生に一度は訪れたがるという。二人で手を一緒に入れる若い男女や、幼児を抱き上げてその小さな手を入れるのを手伝う祖父らしき高齢の男性など、実に様々な世代の人々が水盤の前に立つ。
私達の前に並んでいた高齢の婦人は、手を入れ終えると感極まったのか涙を流した。
私も何度か手を入れたことがあるが、毎度不思議なことに、三位の分配は燃える水なのに熱くも冷たくもない。見た目に反して、風が起こしている渦の力すら感じられないのだ。
私達の順番がきたのでルーファスが水盤の前に進むが、彼はなぜか両手を持ち上げたきり、動かなかった。ゆっくりと巻く渦を見つめ、手を入れることを何やら躊躇している。
「ルーファスさん? 大丈夫ですよ。熱くありませんから」
どうしたのかとルーファスの顔を見つめる。彼は自分の両手は視線を落としたまま言った。
「神聖な三位の分配に触れていいんだろうか。俺は……俺の手はいつも血で汚れている気がするんだ」
何を言っているのかとギョッとしてルーファスの手を覗き込んでしまう。特段汚れのない、普通の手にしか見えない。日頃は血がつきやすい仕事をしているのだろうか。屠殺とか、漁師とか。それとも、医師だろうか。
「そんなことないです。血なんてついていないですよ」
なんの気はなしに事実を伝えるが、ルーファスは渦の上にかざしていた手を引っ込め、水盤の縁に置いて拳を作った。
「目では見えなくても、たくさんの血で汚れている。今や世界で唯一の三位の分配を、この水風火の渦を万が一俺のせいで止めてしまったら、大変だ」
「ルーファスさんの手は汚れてなんていませんよ。私にケーキを差し出してくれた、お優しい手です」
ルーファスが驚いたようにアクアマリンの瞳を上げ、私を見つめる。
「リーナ……」
「どう見ても綺麗な手ですから。安心して水盤に手を入れてみてください」
「ああ……ありがとう。そこまで言ってくれるなら、やってみよう」
ルーファスがおそるおそる手を入れる。渦の中にゆっくり差し込んでいきながら、彼は意識を手に集中させているかのように、炎と水が立てる飛沫を見つめていた。
不思議そうに瞬きをした後で、声を絞り出す。
「聞いていた通りだ。たしかに、熱くも冷たくもないな」
「そうでしょう? 凄く不思議なんです! 風も感じられないんですよ」
私達は水盤を挟んで、目が合うなりどちらからともなく笑い始めた。
ルーファスは笑うと目尻が下がり、凛々しい目つきが崩れ、優しげで少し甘い瞳に変わる。
(ああ、よかった。聖都に来たことを、喜んでくれて)
「リーナも入れてみて。二人で手を入れたら、渦の回り方が二重になったりするんだろうか?」
「私達の手くらいで、神聖な力の流れを変えられたりはしませんよ。そんなにヤワなものじゃありませんから」
ルーファスの発想がおかしくて、笑いながら私も右手を水盤に入れる。
渦は私の手を避けるように流れるものの、速さや流れ自体はまるで変わることがない。
熱さも冷たさも感じられない炎と水の渦の中で、私達の指先がふと触れ合う。
途端に私の指先から、全身に緊張と熱が駆け巡る。
触れ合ったのは一瞬だったけれど、恥ずかしくて顔が上げられない。
(あっ。しまったわ。言い伝えをすっかり忘れていた)
手を入れてしまってから、思い出す。
「あの……、じ、実は三位の分配には伝説があって。男女が一緒に手を入れると……、将来を共にするといわれているんです……。気づかなくてすみません!」
ルーファスはなぜか黙っていた。
聞こえなかったはずはない。だが返事もなく、かといって彼は手を水盤から抜くこともしない。
むしろ手首まで渦の中に差し込み、一層深く三位の分配に触れている。
ドキドキと胸が高鳴るのを、抑えられない。
私達はお互い何も言わなかった。ただ黙って水盤の中に手を入れていた。
まるで言い伝えに運命を委ねようとするかのように。私達がそうして手を入れていたのは、実際には一分にも満たない間の出来事だった。けれど、私にはとても意味ある、大事な時間に感じられた。
水盤から引き上げた手が一切濡れていないことを疑問に思ったのか、列から離れてもルーファスは何度も自分の手をじっくり眺めた。
教会から出た私達は、壮麗なファサードを見上げながら、立ち止まった。
「今日は色々と聖都の案内をしてくれて、ありがとう」
「こちらこそ、楽しい誕生日になりました。聖都を満喫してもらえて、満足です」
「聖王国に来られて……」
ルーファスは言いかけてから言葉を切り、少し逡巡してから再び口を開いた。
「新年祭を見に来て良かったよ。珍しいものがたくさんあって」
「私も……」
公園に行って良かった。お陰でルーファスに会えたのだから。公園でケーキを食べてからの、彼との出来事を振りかえる。
一緒にパイを食べたり、的当てゲームをしたり、街中の観光をしたり。
(みんなと同じように、友達とお祭りを回ったみたいで凄く楽しかった!)
ルーファスに会えて良かった――、そう伝えたい。でもそれと同じくらい、彼にも同じことを言ってもらいたい。
私達は少しの間、言葉なく二人で向かいあっていた。
新年祭の日の聖王城は朝から忙しく、誰も私がいないことを気に留めたりはしない。とは言え私も長く外出するわけにはいかない。流石に私の護衛騎士を務めるレオンスも、帰りが遅いことに気がついて、ヤキモキしているだろう。
ルーファスも連れが宿で待っているはずだ。お互いそろそろ別れなければならないと分かっているのだが、最後の一言に踏み出せない。
そうこうしているうち、ルーファスが長い溜息をつく。
「そろそろ宿に戻るよ。もし良かったら、家まで送ろうか?」
首が千切れそうなほどの勢いで、首を左右に振る。
今更私は王女でした、なんて言えるはずがない。
「近いので、大丈夫です。お気遣いありがとうございます!」
これで本当のお別れになってしまう。同じ聖都にいるのと違い、偶然にでもまた会える機会はない。
でも、新年祭を楽しんでくれたのなら、また来年来てくれるつもりがあるかも知れない。
私は勇気を出して、手から提げている袋に触れた。
「あの……来年もぜひいらしててください。投げ矢のお試し券は、全部ルーファスさんがとったようなものですし」
景品だった投げ矢の券を袋から取り出し、ルーファスに差し出す。
投げ矢だけでは魅力が少ないかもしれない。もうひと声かけるべきだろうと、言い足す。
「その……来年も公園にいますので、もしばったり会えたりしたら、今度は私がケーキをご馳走します」
言った。伝えたいことを、ちゃんと言い切った。
心臓は痛いほどバクバクと鼓動していたけれど。
(すごいわ。私も勇気を出せば、本気になればできるんじゃない)
よく言えた、と自画自賛する。
だがルーファスの表情を見るうちに、高揚した気持ちがみるみる萎んでいく。
彼は微笑み返してはくれなかった。それどころか硬い表情で、私が差し出す投げ矢の券をそっと押し返した。
ズキンと胸が痛み、私の提案が拒絶されたことを察する。
「ごめんね。俺は来年、ここに来られないんだ」
「そ、そうですよね。遠い所から来ているのに。今のは、忘れてください」
ショックなのと同時に、図々しいことを提案してしまった自分が、恥ずかしい。魔術が使えない私には、価値なんてないというのに。
相当な勇気を出して言ったことを、あっさり拒絶されたからか、目頭が熱くなってしまうのを、なんとか堪える。
これで泣いてしまうような鬱陶しい女になりたくないし、笑顔でお別れしたい。二人で楽しんだ思い出を、台無しにしたくない。
あわよくばまた誕生日を祝ってもらえるかもしれないなんて、私の都合の良い願望だったのだ。
ルーファスが俯く私の右手を取った。
「でもその代わり、これを受け取って欲しい」
ルーファスはそう言いながら、指にはめている透明な石の指輪を抜き、私の掌に押しつけてきた。
ズッシリと重く、ルーファスの温もりが残っている。
「そんな、もらってばかりで申し訳ないです」
「今日は本当にお世話になったから、遠慮しないでくれ。――来年はケーキをプレゼントできないから、その指輪を売って好きなケーキを買って」
返さないといけない、と分かっている。けれど、ルーファスが身につけていた指輪を貰いたいという切実な気持ちが、遠慮を遥かに上回る。
「使い古したもので申し訳ない」
「いいえ。ルーファスさん愛用の指輪をいただけるなんて、嬉しいです」
どうしても遠慮ができず、結局お礼を言ってしまう。
見下ろせば指輪の土台は銀色で、何でできているのかは分からない。上に載るやたら大きい透明な石は、水晶だろうか。たしかに細かな傷があり、ある程度長年使っていたものだと分かる。でもむしろ、だからこそ私にはこの指輪に価値を感じたのだ。
何より、来年の私のために何かを残そうとしてくれたのが、嬉しい。
私は指輪を大事に握りしめ、そのままルーファスと別れた。