23 残虐さの極みは権力に宿る
わたしがその方と出会ったのは、わたしの意志ではなかった。
わたしの意志とは別のところで決定され、わたしの意志とは別のところで実行された出会い。そこにわたしの意志など一片もなかった。
いや、わたしの意志を捻じ曲げて実現された出会いだったのだから、むしろわたしの意志を奪った出会いと言うべきだろうか。
慰問要請を受け、モンスターパレードに襲われた惨状を聞く覚悟で訪問したコーラ枢機卿領のケインの街は、なぜか活気に満ちた声で溢れていた。
そして慰問を要請したはずの代官の姿はなぜかどこにもなかった。代官の屋敷には人一人おらず、様子を見てきたティピカに訊けば、まるでそこだけ盗賊に襲われたかのように荒れ果てていたらしい。
それだけ聞くと反乱でも起きたのかと疑いたくなるが、ならばなぜわたし達は歓迎されたのか。これで歓迎されたのがわたしだけなら、人質にでもするつもりなのだろうと思うが、ティピカやカペラ、付き人達のみならず、護衛としてついてきた寺院兵団の方達まで歓迎されたのは理解に苦しむ。
しかし、数々の疑問は情報を求めて訪ねた冒険者ギルドケイン支部で氷解した。
「――逃げた……? ケインの代官はモンスターパレードに立ち向かわず、住民を見捨てて逃げたのですか?」
「ああ、そうさ。屋敷が荒れ果ててんのは、住民達が怒りをぶつけた結果だよ」
ケイン支部のギルドマスターであるブラックは、何も包み隠さず教えてくれた。
結局、モンスターパレードは冒険者だけで対処しきったことも。その場には第一明王――天道のヒバリ・マニ様もいたことも。
活気に満ちているのは、大量のモンスターが討伐されたことで、一時的に好景気になっているからだということも。
道理で、領都リブレで会った留守居役の代官が不思議そうな顔をしていたわけだ。ちなみに、残念ながら枢機卿はおられなかった。どうやら行き違いになったらしい。
それはともかく、つまり、ここケインに慰問すべき対象はいないということになる。
いや、それは別にいい。とても喜ばしいことだ。
問題は、逃げたはずのケインの代官からなぜ慰問要請が来たのかだ。見捨てて逃げたことに対するせめてもの罪滅ぼしなのか? ではなぜ本人がいないのか。いやまあ居づらいのは確かだろうが、接触くらいあっても良さそうなものだ。
「……慰問っていうなら、カリモーチョ村に行っちゃあくんねえか、聖女様」
「カリモーチョ村、ですか……?」
ブラックが言うには、カリモーチョ村とはモンスターパレードが来た南西にある村で、壊滅的な被害を受けた場所とのことだった。
そういうことならば否やはない。わたし達はケインの街をあとにし、カリモーチョ村へと向かった。
道中の馬車の中は悲痛な沈黙で満ちていた。理由は当然、カリモーチョ村だ。
「…………一人も生き残らなかったなんて……!」
沈黙に耐えかねたティピカが痛切な声を上げた。
そう、ブラックは、カリモーチョ村の被害は壊滅的なものだったと言ったが、それは比喩ではなく、文字通りの意味だった。モンスターパレードに蹂躙された結果、カリモーチョ村の人々は誰一人として生き残らなかったのだ。
すでに発生から一か月以上が経っている。それでも生存者が見つからない以上、そう判断せざるを得ないだろう。
慰問の旅のはずが、鎮魂の旅になってしまった。
村の中を歩いているはずなのに、人の声は全くせず、馬のいななきだけがかすかに聞こえる。
わずかな助けも、些細な救いも、与えられる人はもういないのだ。わたしにできることは、もはや墓の前で祈ることだけだった。
…………いや、待て……おかしい。
「――カリモーチョ村の人々は誰一人生き残らなかったはずですよね?」
「……? は、はい、そのように聞いております、聖女様」
誰ともなしに発した問いに、たまたま近くにいた付き人の一人が答えた。
「住民が一人もいない以上、カリモーチョ村は廃村になるはずですよね?」
「はい、そのようになるはずです、聖女様」
「ではなぜ、馬のいななきが聞こえるのですか?」
「……??? 馬車を牽いていた馬ではないでしょうか?」
「いいえ、それとは別の場所から聞こえています」
「「「っ!?」」」
困惑が周囲に広がっていく。
たまたま生き残った馬がいた? あり得ない。
馬とは財産だ。置いていくことはあり得ない。そして、人すら全て喰われた状況で、より肉の多い馬が生き残ることはあり得ない。
あり得ないこと尽くしだ。
つまり、結論は一つ。
モンスターパレードに襲われ、廃村となることが確定したこの村に、わたし達以外の誰かがいるということだ。
賊か? ……いや、寺院兵団も一緒にいるのだ、賊ならばとっくに逃げ出している。
ではカリモーチョ村を故郷とする人か? ならばなぜわたし達に声をかけないのか。わたしや付き人達は明らかに聖職者だとわかる格好をしているはずだ。隠れる必要がない。
あるいはようやく見つかった生存者か? ……その可能性を信じたいが、となるとここを故郷とする人と同じ疑問が生じる。わたしは仮にも聖女と呼ばれる者だ、助けを求められれば必ず応える。
……動けない状況にあるのかもしれない。相手が誰であれ、こちらから接触するべきか。
そう判断し、村の中を捜索するよう付き人達にお願いした。
お互いの立場上、命令とほとんど変わらないかもしれないが、付き人達とは良好な関係でいたいのだ。だからあくまでこれは「お願い」だ。
――しかし、その願いは叶わなかった。
「……何のつもりですか、寺院兵団の方々」
「申し訳ありませんが、勝手に動かれては困ります」
付き人のこわばった声で、良くないことが起きたとわかった。
魔力の流れを目に集中させて状況を確認したいところだが、そんなことをすればもっと良くない状況に陥ることは想像に難くない。
「……まずは武器を預からせていただきましょうか」
その言葉の少しあとに、甲高い音が二つ響いた。ティピカとカペラが武器を捨てたのだろう。
「聖女様もお願いします」
素直に従い、音楽呪法を使うための横笛を差し出す。杖も差し出したが、それは持っていても良いと言われた。
間違いなく配慮されている。
言葉からも声の響きからも、本当に申し訳なく思っていることは伝わってきていた。良くない状況ではあるが、どうやら最悪の状況ではないらしい。
「……あなた方の目的は何ですか?」
ならば質問くらい許されるだろうと問いを発したが、寺院兵団からの返答はなかった。
連れて行かれた先は、杖から伝わってくる質感からして、木造の建物のようだった。日射しの暖かさも風の心地良さも途絶えたことから、密閉された空間だということがわかる。おそらくはモンスターパレードに壊されなかった建物だろう。もしかしたら元は誰かの家だったのかもしれない。
そんな建物の中で、わたしは同じく木製の椅子に座らされた。杖に何かが当たり、手を伸ばして目の前を探れば、やはり木製の机らしき感触があった。
そして、正面に人の気配が一つ。
彼か彼女かはわからないが、間違いなくこの人物こそがこの状況を作り上げた張本人だろう。
さて、この人物はいったいどこの誰なのか。
寺院兵団に命令できるのは法王と三人の枢機卿のみ。しかし、法王はあり得ない。法王ならば、望めばわたしと会うことなど容易だからだ。
となると、密かに寺院兵団を掌握した枢機卿の誰かか? そうでなければ、寺院兵団総長スコッチ・チャンクか? あるいは軍師の誰かということも考えられる。
「……意外と動揺しておらんな」
声の太さから彼と思われる人物は、わたしをここに連れてきた寺院兵団の者がいなくなると、ようやく言葉を発した。
……他に人の気配はない。これでこの建物の中はわたしと彼の二人きりになった。
「……配慮されていることは感じましたから」
「なるほど、害されることはないと判断したか」
「少なくとも寺院兵団の方々には、ですが」
「……俺に関しては別と?」
「はい」
だから杖はしっかりと握ったままだ。間に机があるとはいえ、それは気を緩める理由にはならない。
「……まあ、妥当な判断だな。好きにしろ」
「言われずともそうするつもりです」
警戒をあらわにして少し挑発もしてみたが、彼はため息一つこぼさなかった。……むしろ、どうにも先ほどから感心されているような気がする。いったい、何が目的なのか……。
「では、自己紹介から始めようか」
まるで心を読まれたかのようなタイミングでの情報開示に、少しだけドキリとした。
「名はザインザード・ブラッドハイド。冒険者だ」
「……え……???」
発せられた思いがけない単語に、一瞬、思考が停滞した。
……今、彼は何と言った……? 冒険者……? 冒険者と言ったのか!?
「……冒険者、なのですか……?」
「くははは、ようやく動揺を見られたな、聖女様」
名すら聞いたことのない冒険者が寺院兵団を動かしている……? 果たしてそんなことがあり得るのだろうか。
魔力の流れを目に集中させ、同じ質問を口にする。
「あなたは本当に冒険者なのですか?」
「ん……? ああ……噂に名高い心眼か。そうだ、俺は冒険者だ」
……人型に揺らぎは――ない。つまり、彼は嘘をついていないということ。
本当に冒険者なのか……。
「……ランクは?」
「B級だが……それがどうかしたか?」
「いえ……ただの確認です」
法国では聞いたことのない名だとしても、他国では有名な高ランク冒険者だということはあり得る。ヒバリ・マニ様と同じS級冒険者であれば、あるいは寺院兵団を力で従えることも可能なのではと思ったが、その予想は外れた。
「……ふむ……ああ、そうか。どうやら聖女様は誤解しているようだが、寺院兵団を動かしているのは俺ではない」
……? 確かに今、一瞬だけ人型が揺らいだ。しかし、そこは嘘をつく余地の無い部分のはず……見間違いだろうか?
「では、どなたが動かしているのですか?」
「スコッチ・チャンク総長だ」
……やはり嘘ではない。ずいぶんあっさりと明かしたものだが、彼が嘘をついていない以上、黒幕はスコッチ・チャンクで確定か……。
「つまり、あなたはただの伝言役というわけですね?」
「くっはははっ――いや、間違いなく俺が首謀者だ」
確信を持って言ったにもかかわらず、返ってきたのは嘲笑混じりの言葉だった。
ただのB級冒険者が――首謀者……?
「どういう……?」
「無論、総長の協力を得ているだけだ」
「……意味が分かりません。ただのB級冒険者に、なぜ寺院兵団総長が協力するのですか?」
このB級冒険者が自身を首謀者だと思い込んでいるだけで、真の首謀者は総長だというならば、まだわかるが。
問いに対する最初の答えはため息だった。
「……目的が一緒だからだとは思わんのか?」
「それならば首謀者が総長で協力者があなたになるはずです」
「…………まさか、聖女様は俺のことをバカだと思っているのか?」
まただ……人型が一瞬だけ揺らいだ。
「……??? 何を当たり前のことをおっしゃっているのですか。バカだと思っているに決まっているでしょう」
「……そこまで断言されるとさすがに傷つくな……。一応、理由を聞こうか」
「それを尋ねる時点であなたの評価は『愚か者』一択です。わたしが法王の孫娘だと知らないのですか? わたしを傷つければ法王が黙っていません。いくら寺院兵団と言えども、単独で他全ての法国軍に勝つことは不可能です」
「その場合、俺に協力している以上、総長も『愚か者』ということになるが?」
「ええ、そうなりますね。ですが、わたしの知る総長はこのようなことをする『愚か者』ではありません。これで『愚か者』は、自らをトカゲの尻尾と知らないあなただけになります」
「……つまり、切り捨てられる側だから首謀者なのはあり得んと?」
「その通りです」
「まあ、寺院兵団だけでは法王に勝てんのは同意するが……」
「……? わかっているならなぜ……」
「目的が法王の首だからな」
「え――――?」
わずかなためらいもなく明かされたあり得ない目的に、思考が停止する。
「それで、聖女様をここに誘導した理由だが――ぜひ協力してほしくてな。基本的には寺院兵団によるクーデターで取るつもりだが、聖女様も指摘した通り、法王の首を取れたとしても、それだけでは他全ての法国軍に包囲殲滅されて終わりだ」
わずかに思考が戻っても、立て板に水の如く明かされ続ける計画に、戻ったはずのわずかな思考が奪われていく。
「クーデターを成功させるには、とにかく民意がいる。クーデターを支持する圧倒的な民意が、な。ではどうやって民意を得る? 民衆にとって身近な冒険者に説得させるか? 法王とは別の権力者を味方につけ、演説してもらうか?」
「……身近な冒険者の言葉より、法王の言葉を信じる人々の方が多いはずです。……味方につけられるだけ権力者を味方につけたとしても、法王を支持する権力者の方が多いはずです」
「道理だな。相手は法都リスティングの民衆――支持を一割も得られればいい方だろう。所詮は焼け石に水というわけだ」
「……失敗する未来しか見えませんね」
そこでようやく思考が戻り、彼に皮肉をぶつけることができた。
しかし、彼は口を閉じようとはしなかった。
「――そこで聖女様に尋ねたい。なぜ、人々は法王の言葉を信じる? なぜ、権力者は法王を支持する?」
「……それは……――」
問うたにもかかわらず、わたしの答えを待つことなく、彼は断言した。
「権威があるからだ」
「――…………」
「民衆は権威というものに弱い。専門家として認められている者が、専門分野について語っただけで、その言葉の全てを信じる。有名人が言っただけで、その言葉が正しいと思い込む。身近な冒険者の説得より、よく知らん権力者の演説より、法王のたった一言を尊ぶ。――なぜだ?」
「……法国で最も権威ある者が、法王だからです……」
「そう、法王が法国の頂点だからだ。少なくとも民衆にとっては」
「「――なぜなら、法王はメビウス神の代弁者だから――」」
奇しくも。
その言葉は二人の声が重なったものになった。
「――ならば答えは一つだ。法王の権威を上回るしかない」
「……だからわたしに協力しろとおっしゃるのですか?」
「そうだ。聖女様が首を縦に振れば、クーデターは盤石なものとなる」
再び、一瞬だけ人型が揺らぐ。
今の言葉のどこに嘘が……? いや、それより先に確かめなければならないことがある。
「…………そこまでして何がしたいのですか?」
勝てる見込みがあると踏んで動いていることはわかった。しかし、それだけで協力するほどこの身は安くない。
そんな思いを込めて言葉を発する。
「クーデターを起こして法王の首をすげ替えたい、そのためにわたしの協力がほしい、という今回の目的はわかりました。ですが、それはあくまで手段のはず。クーデターそのものの目的をまだお聞きしていません」
「法王の座だとは思わんのか?」
「それならばもっと強行的な手段を執るはずです」
わたしを人質にするとか、あるいはわたしを殺してその死を利用するとか。少なくとも、協力を求めるのはおかしい。
ならばその最終目的は、そんな俗物的なものではないはずだ。
「しかし、あなたの計画は、基本がクーデターでありながら、圧倒的多数の民意を背景にした、言わば革命的な要素が強いクーデターです。そうである以上、その目的も民意に沿ったものなのではないですか?」
再び確信を持って放った言葉――先ほどは嘲笑混じりの言葉が返ってきただけだったが、今回は果たして――
「…………ふむ……正直、ここで首を縦に振ってほしかったな……」
それはため息混じりの言葉だった。
嘲笑混じりの言葉よりはマシだが、意外な返しであることに変わりはない。
「……? それはどういう……?」
「いや……何、俺の個人的な心情の問題だ」
煙に巻くような言葉を更に誤魔化すように、彼はクーデターの目的について嘘偽りなく明かした。
その内容は、決して難解なものではなかった。誰もが理解できるものであり、誰もが回避を願うものだった。
だからこそ、わたしにはクーデターを起こしてまで訴える内容とは思えなかった。
「モンスターパレードの頻発……ですか……」
冒険者への依頼達成報酬の低さと、それがもたらす様々な悪循環、そして引き起こされる災害の同時多発――
「最大の問題点は、モンスターパレードが起きるのが、ある程度発展した場所からであることだ。発展し尽くした場所は、元々の数が少なすぎて氾濫するまで長期間かかる。発展途上の場所は、元々の数は多いが、その分、許容量も多い」
「……! もしかして……このカリモーチョ村を襲ったモンスターパレードは……」
「その一例だろうな」
カリモーチョ村はコーラ枢機卿領とコフィー大司教領の間にあった村だ。コーラ枢機卿領が食文化で発展した領地であるように、コフィー大司教領は鉱物産業で発展した領地。その二つに挟まれたカリモーチョ村も、当然、それなりに賑わっていたはずだ。
つまり、彼が言うところの「ある程度発展した場所」にあたる。
「……お話はわかりました」
「…………」
「やはりクーデターに協力することはできません。……ですが、今のお話は必ず法王に直接お伝えします。今から手を打てば、最悪の事態は回避できるはずです」
「……聖女様の話を聞けば、法王が対策を講じると?」
「当然です。あなたは会ったことがないでしょうからわからないかもしれませんが、法王は血も涙もない暴君では決してありません。民の声にきちんと耳を傾けてくださる方です。理をもって話せば、きっとわかってくださいます。いえ、たとえ渋ってもわたしがわからせます!」
力強く断言すれば、彼は黙ったまま何も返さなかった。
最後の一言が効いたのだろう。クーデターなど起こさずとも、わたしに任せればもっと上手くいくのではないかと、彼の心が揺れているのだ。
「そうと決まれば、すぐに動かなければなりませんね」
動くなら今だ――そう判断し、椅子から勢いよく立ち上がる。
「ご心配なく。法都リスティングに戻り次第、法王に謁見の申し出を――」
言いながら、外に向かって一歩踏み出す。
あとはこの勢いのまま、軟禁状態を打破するだけだ。
――静止の声はなかった。
「――縛」
代わりに響いたのは、絶望を予感させる言葉。致命的な失敗を悟らずにはいられない、鋭く刺さるような一言だった。
つまり、わたしが二歩目を踏み出すことは叶わなかったのだ。
「……こうなると予想していたから、あそこで首を縦に振ってほしかったんだがな……」
動けない。腕や足、首、手首に至るまで、わずかたりとも動かせない……!
突然の異状に困惑していると、
「座れ」
後方から命令口調の言葉が飛んできた。
勝手に足が後ろに下がる。
痛い――、痛い痛い痛い痛い!
「――わ、わかりました座ります座りますから無理矢理動かすのはやめてください!!」
「断る」
意図しない動きがもたらす激痛に音を上げたが、返ってきたのは無慈悲な一言だった。
結局、椅子に座り直すまでの十数秒間、わたしの体は激痛にさいなまれ続けた。
ようやく痛みが治まると、荒れた呼吸を整え、わたしは再び彼と対峙した。
「…………痛みでわたしの首を縦に振らせる気なら……どれほどの痛みを与えても無駄だと先に言っておきましょう」
「聖女様が痛みに屈するなどとは微塵も思っておらん。今のは単に体の自由はないと聖女様の心に刷り込んだだけだ」
単なる強がりへの淡々とした返答にゾッとする。
確かに今の二十秒ほどで、わたしの内から抵抗しようなどという考えは消え去っていた。
椅子に座り直してなお、腕も足も動かせないままなのだ。いや、わずかでも動かしたらまたあの激痛にさいなまれるのではないかという恐怖が、腕や足を動かすことを拒んでいる。
物理的な拘束で、精神的にも拘束された。これほど寒気がする一石二鳥はない。
次はいったい何をされるのかと怯えていると、ペラリという乾いた音が聞こえた。
その数秒後に、再びペラリという乾いた音。
紙だ。紙をめくる音だ。ただ紙をめくる音が、なぜこれほどまでに怖いのか。
「――実験体№三。三十一歳、男。右腕肩部切断。十二分後死亡。焼却処分。――実験体№四。三十五歳、男。左腕肩部切断。九分後死亡。焼却処分。――――実験体№十一。四十二歳、男。両腕肩部切断。止血処置。八時間後死亡。焼却処分。――――実験体№十八。二十九歳、男。両脚凍傷反復。一:回復。二:回復。三:半壊死。四:壊死。五:崩壊。三分後死亡。焼却処分。――――実験体№二十六。二十歳、男。黒死毒(百倍希釈)、1グラム注入。三秒後死亡。滅却処分。――実験体№二十七。二十一歳、男。黒死毒(千倍希釈)、1グラム注入。五十二秒後死亡。滅却処分。――実験体№二十八。二十五歳、男。黒死毒(五百倍希釈)、1グラム注入。八秒後死亡。滅却処分。――――実験体№三十五。二十一歳――」
「――何、ですか……それは……?」
わたしが呆然と呟くと、ようやく紙をめくる音が止まった。
最初は何を羅列しているのかわからなかった。それが段々とわかっていき――そして心がその先を理解することを拒絶しても、耳を塞ぐことすらできないわたしにその権利はなかった。
同時に理解した。嫌というほど刻まれた。
彼は、わたしの心を完全にへし折る気だ、と。
きっと次の言葉はこうだ。
――拷問を受けるならどれがいい?――
「――聖女様は、法国が行った最も最近の大規模な戦争が何か、知っているか?」
「……はい?」
しかし、返ってきたのは悪辣さの欠片もない平淡なものだった。
戦争……? 獣帝国との小競り合いはついこの間もあったが、「大規模な」と言った以上、そういったものは除外してということだろう。
となると……、
「……十五年前のノースレー防衛戦争でしょうか……」
「その戦争はどういうものだ?」
「え!? ええっと、確か……」
必死に記憶を掘り起こす。昔、確かに教わったはずだ。
ノースレー防衛戦争。
当時、破竹の勢いで領土を拡大していた獣帝国と、大陸南部に位置する法国が初めてぶつかった戦争。法国は現在のサイダー大司教領領都ノースレーを要塞として守り、獣帝国はこれを攻めた。結果は法国側の大勝利で、法国が逆侵攻を行った結果、現在の国境が確立された。
「――というものだったはずです……」
最後に小さく「たぶん」と付けた。
「聖女様は今、『法国は現在のサイダー大司教領領都ノースレーを要塞として守った』と言ったが、なぜ『現在の』とわざわざ注釈がついている?」
「それは……ノースレーは当時、オベリスク都市国家連合に所属する都市国家の一つだったからです」
「なぜ法国が都市国家連合所属の都市国家を要塞として戦ったんだ?」
「ノースレーから――正確には、ノースレーを始めとする複数の都市国家から、獣帝国の脅威からの保護を求められたからです」
そう、わたしは確かにそう教わった。
「……ところが実際は、法国が保護を名目に都市国家を無理矢理併合したんだ」
「っ!?」
「都市国家連合は当時、一致団結して獣帝国と戦うべきだと主張する王ばかりだった。実際、当時の獣帝国は皇国と同盟を結んでおらず、あくまで急成長中の新興国でしかなかった。都市国家連合が一致団結していれば、充分対抗できただろう」
「で、ですが……そんな話は一度も……!」
「当然だろう。獣帝国に備えて北部に兵を派遣しているところに、突然、法国軍が侵略してきたんだ。ろくな抵抗もせずに唯々諾々と明け渡すしかない。法国が『法国に保護を求めたと言え』と言えば、王達はそれに従う他なく、王達が言えば民はそれを信じる。あとは王達の口を封じれば、表向きは穏便な併合のでき上がりだ」
「そん、な……」
「とはいえ、ノースレーではそれは通らん。兵が集結している都市国家の一つだからな。当然、戦争になるが――まあ、ノースレー単独で勝てるわけがない。その後は聖女様もご存じの通りだ。……で、これだが――」
パタッパタッという音がする。おそらく、彼が紙束を持って揺らしている音だろう。
「――これは、当時、ノースレーに集結していた兵達の末路だ」
「…………ぇ……?」
「兵達には『お前達は捕虜だ』と言い、人目につかない場所に連れていく。王達を始末したあと、民には『ほとんどが戦死した。捕虜はいたが、事故や病気で死んだ』と言う。そして実際には、おぞましい人体実験で使い潰す」
真っ白な思考の中を、彼の言葉が通り過ぎていく。
いったい誰がそんなおぞましいことをしたというのか!?
そう問うべきなのに、唇は震えるばかりで言葉を紡いでくれない。
「本当に恐ろしいことを考えるな――聖女様の叔父は」
「ぁ……ぁぁ――――――――――――――――!!」
声にならない叫びをあげる。
……わかっていた。
もしも彼の言うことが真実なら、そんなことができるのは、当時、国境があった領地を治めているコフィー大司教――つまり、わたしの叔父だけだと。
「……ぅ……そ……」
「ほう、嘘だと言うか。では、確かめてみるがいい――本人に、な」
藁にもすがる思いで魔力の流れを目に集中させたのに、目の前の人型はわずかに揺らぎもしない。
「――影法師」
何もなかった、誰もいなかったはずの空間に、人型が現れていく。
……彼が確信をもって言った以上、何かしらの証拠をつかんでいるとは思っていた。
「……うん……? おや、ここは……? ……おお、そこにいるのは聖女様じゃあないか! 久しぶりだねえ」
だが、その証拠がこんな――こんな――
その優しい声は、間違いなく叔父の声だった。
口調も全く同じだった。
「おっと、ブラッドハイド卿もおられたとは。これはこれはご挨拶が遅れて申し訳ない。して……吾輩はなぜここにいるのかな?」
「聖女様が貴様の実験記録を聞きたいそうだ。ぜひ話してやるといい」
「うん……? ああ、これか! ずいぶんと前の実験だけど……そうかそうか、聖女様は吾輩の偉大なる実験を聞きたいのか! いやあ、面倒だからずっと秘密にしているつもりだったけど、そういうことなら喜んで話そうじゃあないか!」
――なぜ……なぜ、こんなにも残酷な証拠を突きつけるのか。
叔父がおぞましい人体実験をしていた。それを家族が誰も知らないはずがない。
少なくとも祖父は知っていたはずだ。父も知っていただろう。もしかしたら、母も、兄達も。
そして――ティピカ・コフィー。叔父の娘、つまり従妹であるあの護衛役も。
ああ…………わたしは間違っていた。
彼はわたしの心をへし折る気などなかった。
それよりももっと無残に――粉々に砕いてすり潰すつもりだったのだ。
彼ですら飛ばし飛ばしで淡々と読み上げた、おぞましい人体実験の記録。実の叔父の喜々とした声が、それを一人目から解説し始めた。
地獄が耳の中でこだまする。
それでもわたしに、耳を塞ぐ自由はない。
「時間はまだまだある。満足するまでじっくりと聞くがいい――聖女様」
地獄の中で、わたしは悪魔の声を聞いた。
――嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!
嘘だっ!!
心の内でどれほど否定を叫ぼうとも、目の前の人型は、わずかたりとも揺らいでくれない。
――夢を見ていた。
腕を切り落とされる夢。脚を切り落とされる夢。腕を焼かれる夢。脚を焼かれる夢。腹を焼かれる夢。腕を凍らされる夢。脚を凍らされる夢。腹を凍らされる夢。腕が腐り落ちる夢。脚が腐り落ちる夢。鏡に映った自分の体が内側から腐り落ちる夢――
夢の中で、わたしは何度も何度も死に続けた。
孤独に。
「――つまりだね、聖女様。人肉を人肉として認識して食した者よりも、人肉を人肉として認識せずに食し、後に食したのは人肉だったと教えられた者の方が、発狂する確率は高いということなのだよ」
ついに自分で自分の死肉を食う夢を見た時、わたしの中の何かが砕けた。
最初に聞こえたのはバキッという音。
次いで何かが倒れた音。それが三つ。
そして木と木がこすれる音と、右腕の痛み。
空を切る音、空を切る鋭い音――また、バキッという音。
「――それどぇっ、次の実験体だぐわっ……ああ、№九十八くわっ。これはなかなくわっ興味深うぃっ結果だったのどぇっよく覚えているよ」
空を切る音と空を切る鋭い音、そしてバキッという音が繰り返される。
「どうして――」
「妊婦をつくわっった実験だったにゅぉっだけど、総論を言うぇっば、母体が死んどぇっも胎児ふわっある程度生きとぇっいるということどぅぇっ」
何かが折れる音が聞こえ、空を切る音が鈍く小さくなる。
「――どうして――」
「この№九十八の場合、№三と同じく右腕を肩から切断したのだけど、母体は七分後に死亡したのに、生命探知の魔法を使ったら、胎児は何と十二分後まで生存していたのだよ! 当然、左腕を切断した№九十九も同様の結果だった。……が、両脚を切断した№百は実験中に流産したから、ちゃんとしたデータが取れなかったのだよねえ」
「――どうして――どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――どうしてっ!! 何度も殴ったのに死なないの――何で叔父様の声が止まらないのおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
誰かの泣き叫ぶ声が聞こえる。
ああ……助けないと。救わないと。
わたしは聖女様だから。
皆の笑顔を守る聖女様だから。
だから――だから?
……自分の心を、どう助ければいい?
誰か助けて。
誰か――誰か――救いを――
あれ?
――聖女様の心は――誰も救ってくれないのか?
「――まあ、所詮は偽物だしな」
背後から聞こえた言葉が、砕けた心をすり潰す。
「死んだ者を生きているように見せかけているだけ。完全に破壊しなければ止まらん。どれだけ殴ろうと、聖女様の細腕では無理だろうな」
「……と…………さい……」
「ん……? 何か言ったか? 聖女さ――」
「聖女様と呼ばないでくださいっ!! ……あなたが……わたしを『聖女様』だと微塵も思っていないことは、とっくに気付いていました……! あなたがわたしを『聖女様』と呼ぶたびに、それが嘘だとわかって――」
まるで、お前は偽物だと突きつけられているようで。
「――非常に、不愉快です」
「――――。では、パンドラと呼ぼうか」
……これが悪魔の策略なら、わたしはまんまとはまってしまったことになる。
パンドラ。
もはや誰も呼んでくれなくなった、わたしの名前。
嘘を見抜けると家族に明かしたあの日から、消えてしまった懐かしい響き。
パンドラ――彼がその名を口にしたのは、きっとただの気紛れだ。
「……もう一度……」
「ん?」
「もう一度、わたしを名前で呼んでください……」
「……? パンドラ。これでいいか?」
その名で呼ばれた時、少しだけ何かが救われた気がした。
……おかしな話だ。
わたしをここまで追い込んだのは彼で、わたしの心が砕けたのも、すり潰されたのも彼のせいなのに。
「もう一度お願いします……」
「??? ……パンドラ」
彼がその名を呼んでくれるだけで、今も喜々として実験記録を語る叔父の声が、どこか遠くなっていく。
ああ、そうか……彼の前でだけは、わたしは聖女様でなくてもいいのか……。
……これが悪魔の策略なら、何て残酷な悪魔なのか。
気付かぬ間に体の拘束は解けていて――なのに、心だけは、こんなにも強く締めつけて放さないのだ。
「……あなたのお名前を、もう一度教えてください」
「……ザインザード・ブラッドハイド」
「では、ザイン様とお呼びしても?」
「構わんが……何だ、急に」
「心変わりしただけです。……わたしはザイン様に協力します」
ザイン様は本当に酷い人だ。
聖女様と呼ばれる可憐な乙女に、家族も親戚も売れと言うのだから。
「わたしはパンドラ――」
それでも、ザイン様はわたしを名前で呼んでくれる。
誰もが聖女様と呼ぶわたしを、わたしだけの名前で呼んでくれる。
わたしをただのパンドラとして、初めて呼んでくれた――悪魔。
「――パンドラ・ココアです。……どうかわたしの名前を呼んでください、ザイン様」
あなたに全てを捧げよう。
あなたがわたしの名を呼ぶ限り――ただのパンドラとして呼ぶ限り。