19 誰しもどこかで嘘をついて生きている
朝、目が覚めても、わたしの世界は暗いままだ。
それでも朝だとわかるのは、誰かが「朝だ」と教えてくれるからに他ならない。
「朝ですよー、聖女様。お目覚めですかー?」
今日もまた、ノックの音と共に女性の声が朝を告げた。
この間延びした独特の声は……側付きの一人、ルイザだ。
「はい、起きていますよ、ルイザ」
返事をすると、ルイザから「失礼します」と定型の断りが発せられ、扉が開く音がした。
部屋に入ってきたのだろう。
そして互いに挨拶を交わす。
数瞬の後に、今度はカーテンを開ける音がした。
足音がしなかったのは絨毯のせいだ。
体の左正面がじんわりと温かくなる。
周りの人が言う「朝」は、わたしにはわからない。「朝」だけでなく、「昼」も「夜」もわたしにはわからない。
だからわたしにとっての「朝」とは、誰かが教えてくれるものであり――そしてこのじんわりと温かくなる心地良さのことなのだ。
「今日は確か、孤児院に行く日でしたね?」
「はいー、カペラもティピカももう来てますよー」
「そうですか、では急いで支度をしましょう。あまり待たせては申し訳ありませんので」
「待つのも二人の仕事だと思いますけどねー?」
ルイザを急かしたが、結局、身支度を整えるのにかなりかかってしまった。
こういう時だけは、自分でできないことをもどかしく感じる。
とはいえ、普段はもっと時間がかかっているので、カペラもティピカもお礼を言ってくれた。
「あれー、ルイザへのお礼は無しですかー?」
「はいはい、ルイザもありがとうね」
「ん、ありがと」
「えっへん! もっと褒めるがよいですー」
「こら、調子に乗るな」
ルイザをたしなめたのがティピカで、言葉少なにお礼を言ったのがカペラだ。
二人は祖父が護衛のために付けてくれている。
わたしの側付きは何人かいるが、孤児院に行く日は決まってルイザが担当になる。側付き達で話し合って決めたことらしい。他の側付きは、何というか、きっちりかっちりしていて、子ども達が緊張してしまうからだそうだ。
ルイザがきっちりしていないかというと、そういうわけでもないのだが、人柄というか雰囲気というか、とにかくルイザにだけは子ども達も緊張せずに接せられるのだとか。
だからかもしれないが、カペラもティピカも、特にルイザとは仲が良い。
それに、どことなく雰囲気も柔らかくなる。
やっぱり、きっちりかっちりした人間と一緒にいると、頭が仕事のみに集中してしまうのだろうか。
思えば、ルイザが担当の日だけは、わたしも疲労が少ないかもしれない。
「はいー、聖女様、お口を開けてくださいねー」
ルイザ手ずから朝食を食べさせてもらいながら、ぼんやりと考えごとをする。
まるで親鳥から餌をもらっている雛鳥のようだ、とよく言われるが、わたしだって好きでこんなことをしているわけではない。
かといって、自分で食べられるかと問われると、首を横に振らざるを得ないのだが。
そういえば、ルイザはわたしをよく見ている。いや、確かにそれが側付きの仕事なのだが、ルイザに対してだけは、あれをやってこれをやってと、指示をしたことが少ない気がする。
今もそうだ。ルイザはわたしの口が空になったタイミングで次を差し出してくれる。
他の側付きの時は、何回か差し出されたまま待たせることがあるのに。
となると、ルイザと一緒の時だけ二人の雰囲気が柔らかくなるのは、ルイザに余裕が感じられるからなのかもしれない。
わたしの疲労が少ないのも、ルイザに余裕があるから、とっさの時にすぐに対処してくれているからか。
「あれー? 聖女様、もうお腹いっぱいですかー?」
「……ルイザ」
「はいー、何ですかー? 嫌いなものは入ってないはずですよー?」
「いつもありがとうございます。あなたのおかげでとても助かっています。でもどうか、無理だけはしないでくださいね?」
「――――あは、あはは……不意打ちですねー……。照れちゃいますー。でも、無理はしてないので大丈夫ですよー」
間延びした声が特徴の側付きが、思っていたよりも優秀だったことに気付けたことを喜びながら、わたしは彼女が差し出した一口を受け入れた。
朝食を終えてすぐに外出着に着替え、杖を持ち、ルイザにサポートしてもらい、屋敷前に停められているはずの馬車に乗る。
馬車には当然、護衛の二人も乗る。ティピカは一緒に馬車の中へ。カペラは御者の隣だ。
全員が乗り込むと馬車はすぐに動き出した。
「ルイザ、今日渡すお土産は何ですか?」
「今日はですねー、な、な、な、何と!」
「「何と?」」
ルイザのいつものノリにティピカと二人で乗っかる。
「コーラ枢機卿猊下から、砂糖とバロンチュラをいただいておりますー!!」
「「わー、パチパチパチ――」」
ティピカと二人でひとしきり感動したフリをし、
「「――で、バロンチュラって何?」」
同時に最も気になっていたことを尋ねる。
砂糖はまだわかる。それなりに貴重品だが、コーラ枢機卿領には広大な砂糖の生産地があるため、ちょくちょくおすそ分けしてくれるのだ。
しかし、バロンチュラはわからない。そもそも何なのかすらわからない。
あのコーラ枢機卿が送ってくれたものなのだから、美味しく食べられるものだとは思うのだが……。
「ふっふっふー……バロンチュラとはですねー――」
ティピカと二人、ルイザの次の言葉に集中する。
「――ルイザもわかりませーん!」
「「えぇ!?」」
そして同時に脱力した。
「ん、バロンチュラ――」
と、そこで前方からカペラの声が聞こえた。
「――でっかい蜘蛛。密林の奥にいる」
……聞こえない方が良かったかもしれない。
「蜘蛛!? 蜘蛛を食うのか!?」
ティピカの声が驚愕に震えている。
わたしは恐怖に震えている。
蜘蛛。
知らぬ間に巣をひっかけてしまい、服を汚してしまったこと、数知れず。
巣があると気付かず、顔から突っ込んでしまったこと、数知れず。
顔から突っ込んだ際、服の中に蜘蛛が入ってきたこと、十回以上。
……つまり。
端的に言って。
奴らは敵だ。
「ん、バロンチュラは巣、つくらない」
「……本当ですか……?」
「餌は直接襲って獲る」
「では、敵ではありませんね」
巣をつくらない蜘蛛もいるのか……。
蜘蛛だからと全てを敵視するのは今後やめよう。
一人頷いていると、ルイザの方から紙を広げる音がした。
「ちなみに枢機卿猊下からはですねー――珍しさに負けて買いすぎちゃったから送るね。甘酢あんかけ揚げはめちゃんこ不味かったけど、甘露煮は美味しかったから、いつもの砂糖もつけとくよ――という手紙をもらってますー」
「やっぱり食うのか、蜘蛛……」
「無理に食べなくてもいいんですよー?」
「ぐぅ……い、いや! 社交界で話題になるだろうから食べる! ……食べるからな!」
ティピカは一瞬迷っていたが、結局、社交界で置いてきぼりにならないことを選んだ。
コーラ枢機卿が「買いすぎたから送る」と言ってきたものは、大抵他のところにも送っているので、近日中に社交界でバロンチュラの甘露煮が話題になるだろう。
果たして、淑女としてその話題に混ざれることが良いことなのか否かは、その時になってみなければわからない。
……良いことであることを祈ろう。
ちなみにわたしは絶対に食べる。
子ども達にお土産として渡しておいて、気持ち悪いから自分は食べないなどというのは許されない。
そして、わたしが食べるものは側付きも食べる。
まあ、ルイザなら好奇心の赴くままに喜々として食べるだろう。
あとはカペラだが、
「カペラは食べますか?」
「食べる」
即答だった。
さすがは元冒険者、食べられるものなら食べるという選択肢に躊躇がない。
その後は、ルイザから甘露煮の作り方を教えてもらったり、一応先に見ておこうと言いだしたティピカが現物を見て再び日和ったり、「食べる……食べる……!」と泣きながら自己暗示をかけたりしているのを聞いているうちに、孤児院に到着した。
ルイザのサポートで馬車を降りると、早速子ども達の声が近づいてきた。
聖女様だ、と言うたくさんの幼い声が聞こえる。
何度か聞いた覚えのある声がすぐ近くまでやって来て、待ちきれないとばかりに両手を複数の小さな手が引いた。
子ども達と他愛もない話をする。
その間に、ルイザがお土産を院長に渡し、どこからともなく甘い匂いがし始めたら、子ども達に連れられて孤児院の中に入る。
バロンチュラの甘露煮に子ども達が怯えないか不安だったが、お披露目された時の嬉しそうな声を聞くに、ルイザや院長がパッと見ではわからないようにしてくれたらしい。
これならティピカも平気だろう。
子ども達の一人に手渡された皿に入ったそれを、同じく手渡された木のフォークで探りながら刺し、ゆっくりと口に運ぶ。
「まあ……! 甘くて美味しいですね」
元は大きな蜘蛛だと知っているだけに恐る恐る食べたのだが、確かにあのコーラ枢機卿が「美味しかった」と評しただけのことはあった。
子ども達と口々に「美味しい」と言い合いながらバロンチュラの甘露煮を楽しんだ後、子ども達の相手をルイザとカペラに任せ、わたしとティピカは院長と向き合った。
「二週間ぶりですが、みんな元気そうでしたね」
「聖女様のおかげです。いつもありがとうございます」
「わたしが何かお役に立てているなら幸いです」
「役に立つどころか、とても助かっています。子ども達も聖女様にお会いできるのをとても楽しみにしていますよ」
「そうですか、それは良かったです。……それで、何かお困りのことはありますか?」
「いえ……特にはありません」
特にはない。
彼女は確かにそう言った。
しかし、そこには妙な間があった。
些細なことかもしれない。
それでも、一瞬でも言葉に詰まったのなら確認すべきだ。
なるべく柔らかく、再度問いかける。
「……本当に何もありませんか?」
「……! それは……その……」
彼女はわたしのことを知っている。
だから、再度問われたことで動揺を見せた。
とはいえ、それは後ろめたさではなく、申し訳なさから来るものだった。
「……まずは謝罪を。嘘をついたつもりはないのです」
「そのようですね」
「本当に些細なことなのです。ただの些細な不安なのです。こんなこと、聖女様に言うほどのことではないと……」
「それでも構いません。こうして孤児院を訪れているのも、充分なお金を渡せないことに対するほんのお詫びなのですから。少しでもお役に立ちたいのです」
「聖女様……。わかりました、お話します」
それから院長が語ったことは、些細な不安と言ってしまえば確かに些細な不安だった。
魂喰らいの殺人鬼。
傷を付けず、毒も使わず、人を死に至らしめる謎の殺人鬼。
姿を見た者はいない。
殺しの瞬間を見た者もいない。
だが、死体だけは出続ける。
法国最大の謎であり、闇。
その存在は、もはや半ば都市伝説と化している。
それが最近、活動を活発化させているのだという。
死体が出たのは、ここ法都リスティングからは遠く離れた場所らしいが、いつ法都にも出没するかわからない。
それが院長の些細な不安だった。
「……なるほど、お話はよくわかりました」
「やはりこんなこと、ただの考えすぎですよね……」
「いいえ、子ども達を思えばこそ、不安になる気持ちはよくわかります。リスティングの兵団に、巡回を増やせないか訊いてみましょう」
「聖女様、そんなわざわざ……!」
「民の不安を取り除くのも兵団の務めです。それに、彼らは心優しい方達ばかりですから、子ども達のためだと言えば協力してくれるでしょう」
「……! ありがとうございます」
……院長はお礼を言っていたが、正直に言えば、わたしが言ったところで兵団が巡回を増やすとは限らない。
彼らだって彼らなりの論理で仕事をしている。何も知らない「聖女様」が何か言ったところで、困ったような声を出させるだけかもしれない。
それでも言わなければならない。
民が不安がっていると伝えなければならない。
それがわたしの決意であり、わたしに寄せられる期待の重さだ。
院長との話を終え、時間の許す限り子ども達と話した。
次に訪れるのは、また二週間後になる。
屋敷へと帰る馬車の中で、近日中に兵団を訪ねなければならない理由ができたことをルイザに伝えた。
屋敷に着くと、側付きの一人が声をかけてきた。
「聖女様、慰問の要請が来ております」
「慰問の要請ですか……」
慰問。
何かしら不幸な出来事があった場所へ赴き、人々から話を聞いたり、炊き出しを行ったりすることだ。
少なくとも一週間ほどはそこに滞在することになる。
つまり、場所によっては、二週間後に孤児院を再訪することを諦めなければならない。
「場所はどこでしょうか?」
「コーラ枢機卿領のケインです。モンスターパレードに襲われたそうです」
「ケイン……! コーラ枢機卿ご自慢の砂糖の一大生産地ですね……」
法都からコーラ枢機卿領の領都リブレまでは馬車で五日ほどかかる。
そこからさらに移動することを考えると、少なくとも三週間は身動きが取れない。
……二週間後に孤児院を再訪することは諦めなければならなくなった。
致し方のないことだ。
モンスターパレードに襲われた街は、大抵悲惨な状況だ。
わたしに期待を寄せる民は、法都だけにいるわけではない。
まして、いつも砂糖をおすそ分けしてくれるコーラ枢機卿のお膝元ともなれば、恩を返すという面でも重要だ。
だからわたしが決断するのに、さほど時間は必要なかった。
「……わかりました、行きましょう。慰問の準備をしてください」
「かしこまりました」
慰問の旅へ出る前に、兵団の詰め所へ赴かなくては。
明日すべきことを思い浮かべながら、ルイザと共に自室へ向かい、わたしは慰問の準備を始めるのだった。
聖女様は生まれつき目が見えない。
――これは嘘だ。
正確には、本当のことだがある時を境に嘘になった。
確かにわたしの目は光を写さないが、見えないわけではない。
……ただし、わたしが見ているものは他の人とは違う。
あれはわたしが聖女様と呼ばれるようになる前、まだただの高位聖職者の孫娘だった頃のことだった。
わたしには魔法の才能があった。
幼少期に受けた測定で、高い魔力数値を示したのだ。
しかし、祖父や両親の反応はかんばしくなかった。口から出た言葉は一様に「何ともったいない……」だった。
理由はやっぱり、わたしの目が見えないことだった。
魔法には数多くの種類があるが、その大半は自然の力を操るものだ。しかし、目が見えないわたしはその自然がわからない。
音はわかる。臭いもわかる。味もわかる。感触もわかる。
しかし、見えない。
ただそれだけで、魔法は本来の力を発揮してくれなかった。
高名な魔法師曰く、「イメージが鮮明でないために、魔力が何をなせばいいのかわからなくなってしまっているのではないか」とのことだった。
魔法の才能があるのに、わたしは魔法が全く使えなかった。
……それでも希望はあった。
見えないが故に、鮮明にイメージできない。
それが魔法を使えない理由であるならば、見えなくても鮮明にイメージできるものなら、魔法も応えてくれるのではないか。
――音楽。
音楽なら――
――しかし、音楽魔法は存在しなかった。
祖父がわたしの願いを聞き、連れてきたのは――呪法師だった。
呪法。
魔法と並ぶ、もう一つの力。
身近な魔法とは違い、どこか恐ろしく感じるよくわからない力。
素晴らしい音楽とは、精神を揺さぶるものである。
しかし、人が音によって感じることは、良きものよりも悪しきものの方が多い。
そして、モンスターが音を発する場合――それは大抵、威嚇や警戒のためのものなのだ。
良くも悪くも精神を揺さぶるもの。
だから音楽は――呪法である。
呪法と聞いて怯えるわたしに、呪法師は淡々とそう言った。
そしてこう続けた。
――しかし、この力を何のために使うかは、君次第だよ――
……わたしは学んだ。
目が見えないわたしを、才能がありながら魔法が使えないわたしを、それでも愛してくれた祖父や両親のために。
誰よりも遅い速度で。
必死に。
唯一の挫折は、楽譜を点字にできる人がいなかったこと。
そしてそれを学ぶ途中に、魔力を循環させる部位を限定する訓練があった。
そこでわたしは、自分に隠された力を知った。
一言で言えば「もや」だ。
循環する魔力を肺から頭にかけての部位に限定することに初めて成功した時、光を写さないはずのわたしの目に「人型のもや」が見えた。
最初は何なのかわからなかった。
次に同じことをしても見えたことで、幻覚の類ではないとわかった。
それからはとにかく、その「もや」をもっとよく見えるようにすることを目標にした。
そして循環する魔力を目に集中した時、その「もや」はハッキリとした人型になった。
同時にわたしの目に写ったのは――部屋の中の物の形だった。
初めて白杖を手放した。
そのまま部屋の中を歩き回った。
部屋付きのメイドが慌てて止めるまで、わたしは確かに彼女と同じ世界に立っていた。
鼻と耳しか見えない人型の彼女と。
同じ世界に立った。しかし、違うように見えている。
それを家族に説明するのに、いくばくかの時間が必要だった。
わたしの話に何とか納得した祖父や両親は、「人とは違うものが見えることは、家族以外には言わないように」と厳命した。
家族への説明で、説明するのは面倒だと懲りたわたしは、その言葉に従った。
しばらくして、わたしは人型が揺らぐことがあることに気付いた。
やっぱり最初はよくわからなかったが、一人のメイドが明らかに嘘だとわかる言い訳をしているところに出くわしたことで、その揺らぎの意味を知った。
――嘘をついている人型には揺らぎが生じる。
またしてもいくばくかの時間をかけて家族に説明し、家族を実験台に嘘がわかることを証明した。
そしてわたしは――聖女に祀り上げられた。
どんな嘘でも見破る――心眼の聖女として。
……わたしは、わたしが聖女様などではないことを、誰よりも知っている。
こんな肩書きは、家族に与えられた役割にすぎない。
それでも、聖女様と呼ばれる者として、聖女様がするように行動する。
しなければならない。
民が望む聖女様を、必死に演じ続けるのだ。
人とは違うものが見える――ただの嘘つきとして。