18 理不尽は気付かぬ間に襲い来る(後)
よお、久しぶりだな!
元気にしてたか?
……あ゙? 誰だかわかんねえって?
おいおい、悲しいこと言うんじゃねえよ。思わず噛みつきたくなっちまうだろ?
まあ、てめえが忘れたってんならしゃーねえ。
思い出させてやんよ。
いいか、よく聞け? てめえは俺っちのことを確実に認識してるはずだ。
場所はボルト獣帝国とメビウス法国の国境、その関所。
時間は獣帝国の皇帝が現れるその直前だ。
思い出したか?
あ゙あ゙? まだ思い出せねえって?
ちっ、さすがに前すぎたか……?
まあいい、なら答えを言ってやる。
正解は、寺院兵団筆頭軍師アルデバラン・バートルが話してた相手、だ。
そお、俺っちはちぃと前までサイダー大司教の小間使いをしてたのさ。
っはっはー、意外だろ? 意外だろお?
小間使いだから女に違いない、女だからこんな喋り方するわけない、って思い込んでたんだもんなあ?
ところがどっこい、その小間使いは俺っちだったのさ。
いやあ、大変だったぜ? 獣帝国の人間だと思わせようとしてる大司教の小間使いを演じるのはよお……。
あ゙? じゃあホントは誰なのかって?
……勘違いしちゃいけねえ。いけねえよ。
俺っちは俺っちでしかねえ。が、大司教の小間使いだったのもホントだ。
今はしがない宿屋の娘だが、昨夜まではケイン兵団の雑兵だった。
それが俺っちだ。
全部俺っちだ。
俺っちはここにしかいねえが、どこにでもいるのさ。
もお覚えちゃいねえが、てめえもどっかで俺っちとすれ違ってるかもしれねえぜ?
冒険者ギルドの受付嬢? ガラの悪い冒険者? それとも違法奴隷か? あるいは盗賊かも? いやいや伯爵令嬢かもしれねえ。
が、今はしがない宿屋の娘だ。
……よし、俺っちのことはわかったな?
そんじゃあ、本題に入るとするか。
それはほんの四半日前、俺っちがケイン兵団の雑兵から場末の娼婦になった翌日のことだった。
俺っちは、ケイン兵団の雑兵として、無事にコーラ枢機卿領の領都リブレへと入った。
宵闇の街はすでに多くの店が閉まってて、まだ人が出歩いてるのは繁華街くれえだった。
だから俺っちは、そこにいた娼婦になることにしたのさ。
よその街の兵団なんて目立ってしゃーねえからな。
娼婦になった時、俺っちが真っ先に思ったことは、「この女、くせえ……」だった。
いやいや不潔だったわけじゃねえよ? ただ、安っぽい香水の臭いがきつかったっつうだけのことさ。
ホントは臭いを落とすために水浴びでもしてえ気分だったんだが、さすがに宵時にんなことすんのは目立ちすぎる。なぜって、これから稼ぎ時って娼婦が化粧やら何やら落とすのはおかしいだろ? だから諦めるしかなかった。
まあ、俺っちは娼婦の仕事なんざする気ねえし、いくら化粧が崩れよおが気にしねえが、無意味に目立つことはねえ。そおいうもんだろ?
周囲に人の目がねえことを確認し、俺っちはその場を後にした。
とはいえ、特に目的はねえんだよな、これが。
強いて言うなら、誰にも邪魔されねえ寝床が欲しかっただけだ。
その点、よその街の雑兵よりは場末の娼婦の方がマシってだけのことだった。
時折、金を見せながら誘ってくる男共を適当にあしらいながら、俺っちは夜の街を歩き続けた。
「あら、ローゼじゃない。こんなとこで何してるの? あなた、いつもはもっと人の多いとこで売ってなかったっけ?」
繁華街から住宅街に入ろうっつうとこで、娼婦らしき女に声をかけられた。
ちっ……顔見知りかよ。
当然といやあ当然だが、こおも早く出会うとは思ってなかったぜ。
さて、何と答えたもんか……。
「……ちょっと調子悪いから今日は止めにしたのよ」
「またそんなこと言って。大家にどやされても知らないわよ?」
「今月分はもう稼いだから大丈夫」
「あら、それは余計なお世話だったわね」
この女は金払いの良い客を見つけるのが上手いらしく、月に必要な額を稼いだ後は、たまにこおして早めに切り上げることがあった。
そのおかげで、今回もまたそれか、と顔見知りの娼婦らしき女に思わせることができたわけさ。
実際にゃあ、この女が月に必要とする額にゃ、ちいとばかし足りてねえんだがな、これが。ところがどっこい、雑兵の金をそのまんま持ってきたおかげで、嘘が嘘じゃなくなってた。
いつもやってることを無意識にやっただけだが、結果的にわずかな違和感すら与えねえことになって、俺っちは人知れずほくそ笑んだ。
その後も近所のばあさんとかガキとかに声をかけられたが、難なくやり過ごした。
こおして俺っちは、気兼ねなく惰眠をむさぼれる場所を手に入れたわけさ。
まあ、所詮、あのデブに情報を渡すまでの間だけの居場所だがな。
当然、寝る前にたっぷりと水浴びをした。服も香水臭かったんで、丹念に洗って干し、なるべく臭いのしねえ服に着替えた。
明けて翌日、俺っちは日が高くなった頃によおやく目を覚ました。……いや、ホントはもちっと早く起きれたんだが、娼婦だからかこの女の生活リズムがおかしくてな? それに引っ張られちまったのよ。
しかもこの女、めちゃくちゃ寝起きが悪い。ベッドから出る時も、起き上がるっつうよりもはや這い出る感じだったぜ。
ボーっとする頭を軽く振って眠気を飛ばし、桶をもって井戸に水を汲みに行く。
「あら、ローゼ、今日は早いのね?」
げ、昨日の女じゃねえか……こいつ、ご近所さんだったのかよ……。
そお、井戸のとこで昨日の娼婦らしき女と出くわしたのさ。
ばあさんやガキは何てことねえのに、何で娼婦らしき女だけ妙に嫌がるのかっつうと、理由はこの女と一緒だ。
くせえんだよ、こいつも。
タバコと香水の臭いが混じってひでえことになってやがる。汲んだばかりの水をぶっかけてやりてえくれえにはな。
「……昨日も言ったでしょ? 調子悪かったから早めに寝たのよ」
「あれ本当だったの? その割には遅いわね。もしかして今日も調子悪いのかしら?」
「うるさいわね……寝起き悪いの知ってるでしょ」
「まあ、知ってるけど……つらかったら言うのよ? 医者呼ぶくらいならしてあげるから」
「はいはい、その時はありがたく頼らせてもらうわよ」
適当に返事をしながら汲んだばかりの水で顔を洗う。
っし、だいぶマシになった。
「……そうそう、ローゼ、聞いたかしら? 昨日の晩、繁華街でどこぞの兵団の兵士が死んでたらしいわよ?」
「ふーん……そういえば、リブレ兵団じゃない軍人が数人いたわね。で、その人、何で死んだの?」
「それがよくわからないらしいのよね……。傷もないし、魔法の痕跡もないらしくって。まるで魂を抜かれたみたいだったって話よ」
「何それ、不気味」
「本当にね。あなたも変なのには近づかないようにしなさいよ」
「ご忠告どうも」
後ろ手に手を振りながら、部屋へと戻る。
ったく……顔洗うだけで何でこんな苦労しなくちゃならねえんだよ……。
この女選んだの失敗だったか……?
でもなあ……似たような死体が出るのは目立つしなあ……。
どおしよおもねえとわかりきってることをぐだぐだ考えながら、俺っちはなるべく目立たねえ服に着替え、街の中心部へと向かった。
目的は一つ。
あのデブに情報を渡すこと。
そのデブはどこにいるかっつうとだな――聞いて驚け? 何と枢機卿様のお屋敷さ。
もちろん、場末の娼婦が偉い枢機卿様のお屋敷に入れるわけがねえ。っつうか、近づいただけで警戒されるわな。
……当然、俺っちは別だ。
時間と場所、方法をあらかじめ決めておけば、孤児院のガキだろおがスラムのチンピラだろおがしがない宿屋の娘だろおが問題なく入り込める。
たとえ場末の娼婦だったとしてもな。
とはいえ、一から十まで俺っちが覚えておくのは面倒くせえ。っつうか、覚えても確実に忘れちまう。俺っちは物忘れがひでえからな。
じゃあどおするかっつうと、俺っちはルーチンだけ覚えておいて、細かい暗号は何も知らねえ奴から聞くだけにしておくのさ。
まずは、いつも露店街の隅っこで細々とやってるばあさんからカゴを買う。このばあさんは自作の編み物を売ってるんだが、孤児院のガキ共が作ったカゴも扱って――ってこの女、んでんなことまで知ってんだよ……。ただのルーチンなのに、ちいとばかし良いことしたみてえになってんじゃねえか……。
気を取り直して次だ。
露店街を中心部に向かって進むと、半ばほどに強面のおっちゃんがやってる果物屋がある。周りが客寄せの呼び込みをする中、腕を組んで黙って立ってて逆に目立つ店だ。
ここで銀貨を三枚差し出し、
「今日のおすすめは?」
「……今日のおすすめはオレンジだ。表から丁寧に皮を剥いて喰いな」
「じゃあそれで買えるだけ頂戴」
っつうやり取りをするだけだ。簡単だろ?
カゴを渡し、強面のおっちゃんがオレンジを入れるのを待つ。
あ゙? 今のやり取りの解説?
ちっ……面倒くせえな……。
……合図はおすすめを訊く方じゃねえ、銀貨三枚を差し出す方だ。銀貨三枚さえ差し出せば、あとは何でもいい。「どれが美味しい?」でも「適当に見繕って」でも問題ねえ。
それと、オレンジに意味はねえよ。大事なのはその後ろ、「表から丁寧に」って部分だ。「表」はそのままの意味で、「丁寧に」っつうのはいわゆる符丁だな。
ニヤリと笑う強面のおっちゃんからオレンジの入ったカゴを受け取り、いよいよ枢機卿様のお屋敷へ向かう。
……にしても……笑顔が怖すぎるぜ、あのおっちゃん。毎度毎度無駄にビビるんだよな……。何やらかしてあんな役回りさせられてるか知らねえが……あれは絶対人殺してる奴の笑顔だぞ。あれで結構人気あるとか、客のメンタル強すぎじゃね……?
人心の奇々怪々さに戦慄しつつ歩くと、ほどなくして枢機卿様のお屋敷の前に辿りついた。
「止まれ。ここはコーラ猊下のお屋敷である。去れ、女」
っはっはー、相変わらずだなあ、ここの門番は。庶民の女なんざ、端から用があるわけねえって決めつけてやがる。
まあ、正しいんだがな?
「お屋敷で働く家族への差し入れです。どうかお取り次ぎいただけませんか?」
「家族への差し入れ……?」
若い門番はいぶかしげな顔になり、
「おお! そうか、そうか! それはご家族も喜ばれることだろう!」
一転、朗らかな笑顔に変わった。
他国の人間――特に貴族連中にはわかんねえことだろおが、法国の領主の屋敷は庶民でも結構気軽に出入りできんだわ、これが。
もちろん、制限はある。入れるのは外庭までだし、必ず二名以上の監視がつく。許可が出るのも屋敷で働く家族、親類、友人のみだ。
とはいえ、屋敷じゃ庶民も十数人は働いてるし、友人まで含めっから、門戸はそれなりに広いがな。……まあ、たまに友人だと思ってた奴が友人だと思ってくれてなかった、みてえなアホな話もつくるが。
「ただ、次からは裏門に回ってくれ。表門は基本的に聖職者専用なのだ。まあ、君みたいに気付かず来てしまう人もいるから、多少は目をつむるけどね」
「あ、そうでしたね……ごめんなさい、気をつけます」
「ははは、まあ、今日はいいさ。誰かが来る予定もないしね。えーっと……じゃあ、君の名前とご家族の名前を教えてくれるかい?」
「はい、名はクラインと申します。家族の名はテイネイです」
っはっはー、気付いたか? 気付いたよなあ?
そお、「丁寧に」が符丁だっつうのは、こおいう意味さ。
あとはこの若い門番が符丁に気付いて、俺っちを秘密の外庭に連れてけば――
「……テイネイ……? 女、たばかろうとはいい度胸だな……!」
――あれ?
「コーラ猊下のお屋敷に『テイネイ』などという名の者はおらん! 門番になったばかりの若造だから騙せるとでも思ったか!」
あれえ?
「早々に立ち去れ! でなくば首を刎ねる!」
あれれれえ?
……………………。
……っつうわけで、なぜかはねつけられた。
いやいやおかしいだろっんでだよ……!? ルーチンは間違いなく合ってたし、果物屋のおっちゃんが間違えたとも思えねえ。
で、そこで若い門番が「門番になったばかり」って言ってたことを思い出した。
ああー……間違いねえな、こりゃ。
「あのデブ、符丁の件を伝え忘れたな……!」
屋敷近くの角でデブへの呪いを込めてブツブツ文句を言ってると、目の端を黒髪の若い男が横切った。
あ゙ん? 今の奴……どっかで……。
獣帝国ならともかく、法国じゃ黒髪は大して珍しくねえ。だから容姿に反応したわけじゃねえはず。
となるとあとは……雰囲気、か……?
角から顔だけ出して、男の後ろ姿を観察する。
黒髪。細身だがそれなりに鍛えてるな……。南国だっつうのに上下とも黒とかアホなのかバカなのか……それとも妙なこだわりか? まあ、半袖だが。ああー……しかも、それなりに上等な服だな、ありゃ。裕福なパンピー? いやいや、かなり戦えそおな感じ、ありゃ冒険者だな。
――そうか、冒険者か。
発想がそこに至って思い出せた。
あいつ、ケインの街にいた奴だ、ってな。
正確に言やあ、俺っちがケインの街に入る時、開門直後に入街した連中の中にいた一人だ。妙な臭いの白いガキと一緒にいた冒険者だ。
が、今は一人だな……。
……っていやいや違えだろ、そこじゃねえ!
ケインはモンスターパレードに襲われたはずだ。俺っちが雑兵のままリブレに来なくちゃいけなくなったのも、それが原因だ。
なら、あいつはモンスターパレードと戦わず、逃げ出した腰抜け冒険者か?
んなわけあるか!
臭いだ。俺っちは臭いに反応したんだ。濃密なモンスターの血臭に!
こんな濃密な血臭を漂わせた奴が戦わずに逃げ出したわけがねえ!
間違いなく、あいつはモンスターパレードと戦ってる!
……俺っちがリブレに着いたのは昨夜。ケインからリブレは馬なら一日ちょいで来れるが、徒歩なら丸二日かかる。そしてケイン兵団は全員分の馬を持ってた。
代官がケイン兵団連れて逃げ出した直後に、同じよおに逃げ出したなら、今、この時間にリブレにいてもおかしかねえ。
が、モンスターパレードと戦った奴がいんのはおかしすぎる!
馬を持ってた? 冒険者が? あり得ねえ!
なら答えは一つだ。
あいつはリブレまで走って来た。モンスターパレードと戦った直後に!
っはっはー、こいつはついてるぜ。
間違いなく、あいつは強い。
つまり、極上の獲物だ。
……あ゙? 何か懐から……。
!!! ありゃ推薦状じゃねえか!
冒険者が封蝋の無い丸めた羊皮紙持ってたら、そりゃ推薦状しかねえ。
あれさえあれば枢機卿様のお屋敷に入れるなあ……。
表門は基本的に聖職者専用。あいつは裏門に回るしかねえ。
ああー……さっきの若い門番とやり取りしてんなあ……。
……ほら、やっぱりな、塀沿いに歩き出した。
当然、裏門にだって門番はいる。いろんな奴が利用するから、人目だって多い。
が、巨大な街にゃ、抜け穴はつきものだ。
細い路地を走り先回りする。あのデブに会うために何度も来た街だ、お屋敷の周りは目をつぶってたって歩けるくらいに把握してる。
そして表門から裏門へ向かう途中に、ほとんど人通りがない道があることも。
何しろ、高位聖職者のお付きの連中のためだけに造った道だからな。
一見、何も無い見晴らしのいい道に見えるが……人一人隠れられるくらいの隙間はある。
その隙間に潜り込み、息を殺し、気配を絶つ。
相手はそれなりの実力者だ、不意をつかなきゃなんねえ。
つまり、楽勝だ。
足音が聞こえてきた。
よしよし、あまり警戒してねえな。
あとは意識の方向とタイミングを計るだけ。
……まだだ。
……………………まだ。
…………。
……ざわ……。
今!
風によって木々が揺れたと同時に隙間を飛び出し、目の前の男に抱きつく。
「……っ!?」
相手もそれなりの実力者だ、もちろんすぐに気付く。
が、もう遅え。
抱きついた勢いそのまま、ぶつかるようにして男の肩口に噛みついた。
「――何だ、貴様は。離れろ!」
あ゙……?
「あがっ……!」
振り払われた……?
……何で?
俺っちを睨む金色の双眸を睨み返す。
「突然、噛みついてくるとは……誰かと勘違いしておらんか? 俺は貴様のことなど知らんぞ」
男が何か言ってるが、こっちはそれどころじゃねえ。
「……っかしいなあ? っかしいよなあ!? 何でてめえ――奪えねえんだ?」
「……? 何を言っている……? 奪う?」
「確実に噛んだよなあ? その腕を、俺っちの口で」
確かに噛んだ。噛んだのに、妙な抵抗感に押し戻された。
今までんなこたあ一度もなかった。
どいつもこいつも、一噛みで、一瞬で全てを奪えた。
だってのに、この男だけ奪えねえ。
異常存在だ。
法国にあり得ねえ奴がいる。
くそが、ムカつくぜ。
……が、それよりも、デブに渡さなきゃならねえ情報が増えたことの方が重要だ。
奪えねえなら、もうこいつに用はねえ。
ねえんだが……何でかねえ……?
「――奪う。……そうか、なるほど。奪う、か……!」
この男の目に、俺っちへの殺意が宿ったんだが。
今、この瞬間に。
さっきまで少しの困惑と小さな警戒しかなかったはずなんだがなあ……。
「……あー……。いや、すまねえ、てめえの言う通り、人違いだったみてえだ。噛んで悪かったな。もうてめえに用はねえよ。じゃあ、その……俺っちはもう行くぜ?」
適当に話を合わせつつ、少しずつ男から離れる。
もうそろそろ充分かな? っつうとこまであと一歩っつうとこで、
「……待て」
本能が危険だと明確に告げた。
言葉を無視し、男に背を向け、全力で駆け出す。
裏門だ。
裏門まで行けば、逃げ切れる……!
「――領域」
何か聞こえた気がするが、全部無視して死ぬ気で走れ!
自分で自分に檄を飛ばす。
もの凄いスピードで地面を黒い何かが覆っていく。
それは一瞬だけ俺っちを追い抜き、
「――杭」
黒い尖った何かが飛び出したが、ギリギリのとこで避けれた。
が、まだ本能は危険だと告げてやがった。
わずか数十メートル先に辿りつくため、ただただがむしゃらに走る。
「ちっ……球――鎧」
数瞬遅れて、後方からも駆け出す音が聞こえた。
そしてその音は全く引き離せず、むしろどんどん近づいてきた。
――っつうか、この女、走んのおせえ!!
場末の娼婦に何を求めてんだっつう話だが、そん時の俺っちの後悔にゃ誰にも文句を言わせねえ。
それでも捕まる前に裏門まで辿りつけたのは、俺っちの判断が正しかったからだった。
さっきも言ったが、法国じゃ領主のお屋敷には庶民でも結構気軽に入れる。
だから、お屋敷の裏門にはいつも数人のパンピーが並んでる。
入れるっつっても、監視役の数の関係で、一度に入れる人数に限りがあるからだ。
俺っちはその列を押し倒すように突っ込み、その内の何人かを噛んだ。
俺っちの力は噛むことで発動するが、噛んだら強制的に発動するわけじゃねえ。
何人かに噛み跡を残しときゃ、誰になったかわからねえってわけさ。
っはっはー、これであいつから逃げ切れるぜ。
「痛た……何なんだ、いきなり……! おい、あんた、いい加減にどいて――え? し、死んでる……」
「わ、私じゃないわよ!?」
「儂も知らんぞ!?」
まあ、当然、騒ぎにゃなっちまうが、ここならデブが何とかしてくれんだろ。
問題はこっちだよなあ……。
俺っちに数秒遅れて、あいつが裏門前に駆け込んできたんだが、
「な――何だ、お前は!? ここはコーラ猊下のお屋敷だぞ!」
門番が思わずどもっちまったのもしょうがねえ。
俺っちもさすがに頬が引きつったしな。
さっきの男、いつの間にか黒い鎧を着てやがった。
完全に不審人物だ。
たぶん、俺っちに噛まれたのを警戒してだろおが……結果的に門番から顔を隠すことにも成功してやがる。
男は門番を無視してさっきまで俺っちだった娼婦に近づき、その首をつかんだ。
「……死んでいる……?」
「お、おい、お前、無視するな! 質問に答えろ! ここはコーラ猊下のお屋敷だぞ!」
門番のおっさんが若干声を震わせながら男に槍を突きつけた。
っつうか、表門の若い門番といい、門番は同じ言葉しか喋れねえのか?
槍を突きつけられてるっつうのに、男はまたしても門番を無視し、怯えるパンピー達をジッと見た。
「……噛み跡がある者が数人……狙いを絞らせないためか……」
「……っ。お前、いい加減に――!!」
「――領域」
門番のおっさんが再び怒鳴ろうとした瞬間、虚を突く形で黒い何かが地面を覆った。
なぜか本能が危険を告げず、やべえと思った時にゃもう遅かった。
「――縛。まあ、この中にいるのは確実だが」
……!?
体が、動かねえ……!
どおなってんだ、こりゃ!?
見れば、門番のおっさんや周りのパンピー共も困惑してた。
くそっ、動きを封じるだけだったから、本能が反応しなかったのか……!
いったいどうなっちまうんだと戦々恐々としたが、男は腕を組んだままなぜか特に何もしなかった。
「…………さて、どうやって判別したものか……」
いやそこ考えてなかったのかよ!?
思わず叫びそおになっちまったが何とか堪えた。
ったく危ねえぜ……叫んだら間違いなくバレちまう。わざとすっとぼけたこたあ言って俺っちをあぶり出そおたあやるじゃねえか……。
「……まず、噛み跡がない者は省いていいな……」
男は一人ひとり肌が出ている部分をつぶさに観察し、何も無いと確認できた奴から順に解放してった。
単純だがいい判断だぜ、ちくしょう……!
俺っちの力は噛まなきゃ発動しねえ。噛み跡がねえ奴は俺っちとは無関係だ。
解放された連中も、当然、この状況が異常だってこたあわかってる。だから、解放されたらすぐに逃げた。たぶん、リブレの兵団に助けを求めるはずだ。
が、兵団の雑兵共が来たとこで、役に立つたあ思えねえな。
そもそも間に合うかすら怪しい。
あと、頼みの綱になりそおなんは門番のおっさんだが……あー……こりゃ、ダメだな。何か黒いもんが口も塞いでやがる。
万事休すって奴かねえ、こりゃ……。
まあ、噛み跡がある奴だけに絞り込めたとこで、そこから先はかなり時間がかかるはず。その間にあのデブが気付いてくれりゃ何とか……。
――んなのは甘え見通しだっつうこたあ、すぐに思い知らされた。
「……四人にまでは絞り込めたが……致し方ないか。――荊」
「「「……っ!?」」」
ぐっ……っ!?
痛え痛え痛え痛えっ!
こんにゃろ……何しやがった!?
怯えるパンピーを演じながら、時間を稼ぐ方法を必死に考えてると、突然、全身に激痛が走った。
まるで体中を針で刺されたかのよおな激痛。
痛みに思わず叫びたくなんのを必死に耐え続けた。
叫べば地が出ちまうからだ。
「――見つけた。貴様がさっきの女だな?」
「……あ゙――?」
唐突に首をつかまれたことで、よおやく俺っちは、男がもお俺っちしか見てねえことに気付いた。
「――んで……わ゙がった……?」
「噛んだ相手の肉体と記憶を奪う――」
「……!!」
「――尋常ではない力だ。貴様が明王の一人であることはわかっていた。俺の力も似たようなものでな? そういう力同士は拮抗するんだ」
そう言って男が指す先を見る。
左足に噛み跡がある女は、俺っちと同じよおに動けなくなってて――俺っちたあ違い、気絶してた。
「先ほど貴様らに与えた痛みは、通常ならば気絶してしかるべきものだ。だが、その力と拮抗する力を持つ者だけは、その痛みが薄くなる」
つまり、気絶してねえ奴が俺っちだってわかるっつうことさ。
「っはっはー……なあるほどお……。まさか、てめえも神に選ばれた奴だったたあな……」
ちっ……ここまでかねえ、こりゃ……。
体は動かねえし、俺っちの唯一の長所を潰されちまった。
誰が俺っちかわかんねえ。
それが俺っちに与えられた理不尽だったっつうのにな……。
「……で? 誰が俺っちかわかったっつうのに、何ですぐに殺さねえんだ?」
「貴様には訊きたいことがある」
「へえ? 言ってみろよ、答えねえがな」
「今代の法王は――明王か?」
「あ゙……?」
質問の意味がわかんなかった。
意図もわかんなかった。
だからいぶかし気な声を思わず出しちまったんだが、答えだきゃあハッキリしてた。
「っはっはー――自分で確かめな……!」
「……そうか。それが貴様の答えか」
首をつかむ腕に力が込められる。
「では要らんな」
っはっはー……。
すまねえ、メビウス様……俺っちはここまでみ――
「――発射」
「っ!!」
熱。
熱が俺っちの目の前を通り過ぎた。
と同時に首の圧迫感が無くなり、全身の痛みも一気に引いた。
「ふぅ……全く、僕ちんの屋敷の裏で何を騒いでるのかな、チミは。うるさくて食事が不味くなるじゃないか、えぇ?」
あり得ねえくれえ太ったデブが、贅肉をブルブル震わせながら重々しい足音を立てて近づいてきた。
「……何者だ?」
「チミこそ何者なのかな? 確実に不意打ちだったはずなんだけど。ま、どうでもいいけどさぁ。僕ちんの食事の邪魔をした、ただそれだけで万死に値するからね!」
――発射。
言葉と共に発せられる再びの熱。
問答無用の攻撃。
「――壁」
が、それは突然現れた黒い壁に阻まれた。
「……? 何それ……? おかしいな……チミ、明王じゃないよねぇ? 何で僕ちんの攻撃を相殺できるわけ?」
「――斬」
「発射」
男が右腕を振るのに合わせて、その延長線上の地面から黒い線が生じたが、デブの手のひらから生じた熱線に相殺された。
「ま、答えなんて決まりきってるよね。……何でラプラスの使徒がこんなところにいるのかな?」
デブの問いに男が返したのは舌打ちだけだった。
「答える気はないわけね……。ふぅ……んー……ねぇ、チミチミ、これは提案なんだけどさ――」
デブは手のひらを男に向け油断なく睨んだまま言葉をつないだ。
「――ここはお互い、無かったことにしない?」
「ほう……?」
そしてとんでもねえことを言いやがった。
「おいこらデブ! っざけたこと言ってんじゃねえぞ!! そいつは敵だ! 殺せっ!!」
「あぁん? 誰、チミ……? いや待った。僕ちんのことをデブって呼ぶのはこの世で二人だけだわ。そしてその汚い口調――何してんの、クライン氏、今日は表門の日だよね?」
「門番にはねつけられたんだよ! てめえのミスのせいでな!!」
「あぁん? 僕ちんのミス?」
「表門から『テイネイ』に。合ってるよな?」
「合ってるね。あー……じゃあ、間違いなく僕ちんのミスだね。めんごめんごー」
「もっとしっかり頭下げて謝れや!!」
相変わらずムカつく奴だぜ、このデブはよお……!
が、このデブのおかげで助かったのも事実だ。
……いや待てよ? デブがミスしなきゃ俺っちはこの男に絡むこたあなかった。っつうことは差し引きゼロ……むしろマイナスじゃねえか……?
「やっぱしっかり頭下げて謝れや!!」
「何で二回言ったの……?」
困惑するデブに三度怒鳴ろうとしたとこで、
「――おい、結局、やるのか? やらんのか?」
しびれを切らした男が問いを発した。
俺っちと話してる間もデブが警戒を緩めなかったたあいえ、不意を突こうとしねえ辺り、この男、結構律儀だな……。
「あー、めんごめんご。先にチミと決着つけなくちゃね。さっきも言った通り、僕ちんは無かったことにすべきだと思うよ」
「おいデブ!」
「まぁまぁ、クライン氏も聞いてよ。黒い鎧のチミは強い。それはもうよくわかった。でも僕ちんも強い。戦えば間違いなく、街に大きな被害が出る。僕ちんはさ、それが一番嫌なんだよね。だから僕ちんは正直戦いたくない」
お腹空いたし、と呟き、デブは男を指差す。
「チミもさ、どっちでもいいみたいなこと言ってたけど、本当は戦いたくないんじゃないの? いくら強くても、明王二人を同時に相手したくないでしょ?」
「……まあ、あまり気は進まんな」
「でしょ? だから無かったことにしない? 具体的には、今すぐ街から出てってくれるなら、僕ちんはチミのことを忘れるよ。もちろん、このクライン氏も僕ちんが止めとこう」
「あ゙あ゙!?」
「ま、クライン氏じゃ勝てないと思うけどさ」
くそが、痛えとこ突きやがって……。
提案にゃ反発したが、デブの言うこたあ的を射てやがる。
俺っちじゃこの男にゃ勝てねえ。少なくとも今は。
俺っちのアドバンテージがねえからな。
「どう? 悪い提案じゃないと思うけど?」
「…………ちっ……致し方ないか。壁」
男が頷き、黒い壁が現れると共に、デブは腕を降ろした。
黒い壁が消えた後、そこにはもはや誰もいなかった。
「ふぅ……鎧着てる割に速いなぁ……。やっぱ戦わなくて正解だったね」
警戒を緩め、自画自賛するデブ、いやクソデブ。
「おい、クソデブ、マジで忘れるつもりか?」
メビウス様に選ばれし者として、敵を見逃すことだきゃああっちゃなんねえとクソデブを睨むと、
「えぇ? 嘘に決まってんじゃん、そんなの」
クソデブは半笑いで呆気なく前言をひるがえした。
「でも、リブレに被害が出るのが嫌なのも本当なんだよね。ご飯不味くなるし。それに、『表三道』ならまだしも、僕ちんやクライン氏がラプラスの使徒と戦って死んじゃダメでしょ」
業腹だが、デブの指摘は正しい。
俺っちやデブに与えられた役回りは、ラプラスの犬共と戦って死ぬことじゃねえ。
んなことすりゃあ、メビウス様の命に背くことになっちまう。
「だから、ま、今日のところは駒に追わせるよ。死ぬだろうけど。……ちょうどいい奴もいるしね」
言葉たあ裏腹に、デブの顔にゃ殺意が満ちてた。
「……そういえば、クライン氏は何の情報を伝えるために来てたわけ?」
「あ゙? あー……一つはケインの街がモンスターパレードに襲われたっつうことだな。確か、デブのお気に入りだっただろ?」
「んー……その件かぁ……。代官から聞いたから知ってる」
「っはっはー、その分だと代官が逃げ出したことも知ってんな?」
「知ってる。マジ舐めてるよね」
再び満ちる殺意。
こりゃ、ケインの代官にさっきの男を追わせるつもりだな?
「ま、冒険者達が無事に撃退したらしいけど」
「あ゙? ずいぶん早えな……五千はいたっつう話だったが……」
「マニ氏がいたんでしょ? だからじゃない?」
「いやいや、あの鳥もどきだけじゃどおにも――」
――ならねえ数、って言いかけたとこで、さっきの男と思考が結びついた。
「……おい、クソデブ、たぶんさっきの奴も関わってんぞ」
「んー……なら、ま、納得かな」
それでも早すぎるが……こればっかりは、考えてもわかんねえことだった。
「で? 他は?」
「あ゙? あー……A級冒険者のソレイユって奴が、獣帝国から入ってきたぞ。ケインじゃ鳥もどきと一緒にいた」
「へぇ……ソレイユって、『武芸百般』のソレイユでしょ? 有名人じゃん。法国じゃ無名だけど。それがマニ氏と一緒にねぇ……」
デブは明後日の方向を見てしばらく考え、
「ま、放っておいていいんじゃない? さっきの使徒よりは優先度低いでしょ」
そお結論付けた。
「俺っちが伝えたかったなあ、それで全部だ」
「そ。……さてと……どうしよっかな、この人達……」
デブが続いて意識を向けたなあ、気絶したパンピー共と門番のおっさんだった。
「あぁん……? あれ、これ死んでるじゃん」
が、その前に、俺っちだった場末の娼婦をどうするかが先だった。
「……傷跡無いし……またクライン氏でしょ、これ」
「…………」
目を逸らしたまま頷くことしかできなかった。
「ふぅ……誤魔化すの大変なんだよ、全くもう……。……しかも門番以外は噛み跡あるし……」
デブは深く長いため息をつき、
「もういいや、面倒くさい。クライン氏、これ全部ヤっちゃって。さっきの使徒になすりつけとくから」
そお言い残して、「お腹空いたなぁ……」ってぼやきながら屋敷に戻っちまった。
で、結果、俺っちはしがない宿屋の娘になったっつうわけさ。
解放されたパンピー共に助けを求められ、リブレの兵団が駆け付けた頃にゃ、噛み跡しかない数人の死体と、唯一生き残った宿屋の娘しかいねえ。
当然、犯人は黒い鎧の男っつうことになった。
真相を知るは、俺っちとデブと――そしてあの男だけだ。