雨降り王女と日照り皇帝
幼い頃に母が死に、王国は1ヶ月ほど雨天が続いた。
時には荒々しい台風となり、時には酷く悲しげなどしゃ降りとなり、王国に雨を降らせた。
その結果、王都近郊に流れる川の水位がみるみるうちに上がった。
小さな町村は次々と濁流に呑み込まれ、多くの被災者を出してしまう。
すべての原因は、私にある。
私の感情ひとつで雨雲を呼び、嵐が起こり、雨粒が生み出された。
恵みではなく、人の命を奪う雨。
だから私は、心を封じた。
決して揺れぬように、動じぬように、感情を殺した。
十八歳。ある大国から縁談の申し入れがあった。
海を越えた先、遠い帝国「バムート」は、国土の半分以上が砂に覆われる熱砂の大地だという。
若き皇帝ヒュリオスは、感情をもたない冷酷で残忍な統治者らしい。
現在、大陸制覇に乗り出しているという皇帝の目的は、私だった。
皇帝は雨降りの力をもった私を欲したのだ。
私は、縁談を受け入れた。
死ぬまで地下室にいると思っていたけれど、父上や臣下は、ようやくお払い箱にできると喜んだ。
婚姻は決定だが、その前に婚約期間を半年ほど設けるらしい。婚約期間中も帝国で過ごすことになり、その日は慌ただしくやってきた。
帝国が寄越した迎えの船には、質素なドレスと少ない嫁入り道具だけを持って乗船した。
何なりと申しつけください、という使者に対して私が望んだことは一つだけ。
「帝国に到着するまでの船旅は、どうか私に近寄らず、必ず閉じ込めてください」
感情が動かないように、最低限の注意を払わなければ。
でないと、この船に乗る全員を私は沈めてしまうかもしれない。
もう私は、誰の命も流したくはない。
バムート帝国の空気はカラッと乾いていた。
強い陽射しが容赦なく照りつけて、地面は細やかな砂で埋め尽くされている。
皇帝ヒュリオスに謁見するため、私は宮殿の最奥へと案内された。
見たこともない建築物、初めて目にする煌びやかな衣、彩り豊かな果物の数々。
通った庭には、鼻の長い奇妙な生き物が水浴びをしていた。
あれはなんというのだろう……ああ、いけない。興味を持ってはだめ。王国にいたときと同様に心を無にしなければ。
「遠路はるばるよく来たな、第三王女アデナ」
「皇帝陛下に拝謁申し上げます」
「堅苦しい作法はいい。顔をあげよ」
そうして初めて拝見した皇帝ヒュリオスは一切の表情がなく、人形のように作り物めいていて、ひどく美しい人だった。
皇帝ヒュリオスへの謁見が終了し、居住宮殿に通される。
とんでもなく広い一室に案内された私は、ぼうっと中庭を眺めていた。
「入るぞ」
静かな声に振り返り、思わず目を見開いた。
皇帝ヒュリオスが、わざわざ私の部屋までやってきたからだ。それも、傍らに恐ろしい獣を引き連れて。
「謁見の間では互いに会話が不十分だったように思う。長旅の疲労もあるだろうが、少し時間をくれないだろうか」
変わらず表情をすべて切り落としたような顔をして、私を見下ろす黄金の双眸。
バムートの民はみんな褐色肌だと認識していたが、皇帝ヒュリオスの肌は、凄艶の黒髪も相まってより白く感じた。
何よりも驚いたのは、皇帝ともあろう人が私に伺い立てていること。声音は極めて淡白だけれど、言葉には気遣いのようなものがあった。
冷酷で残忍な統治者。
そう聞いていただけに、想像と現実のズレが生じる。
「そちらの、動物は……?」
先ほどから私の顔を見つめてくる獣が気になり、恐れながらも聞いてみる。
それは一見すると猫のようで、けれど猫と位置づけるには足りない。
体は大きく、背面はやや黄褐色で、黒い横縞がある。
「これはキトラという名の獣。あなたの護衛獣だ」
「護衛、獣……」
「キトラは頭が良い。あなたを守り、あなたを主として側に仕える。その辺の兵士より頼りになるだろう」
皇帝ヒュリオスがキトラの背に触れる。
すると、キトラは私の目の前まで近づき、頭を垂れるように擦り寄ってきた。
甘えるような仕草を見せるキトラに、胸のあたりがソワソワする。けれどすぐに我に返り無心に努めた。
その様子を皇帝ヒュリオスは観察するように眺め、ある物を見せてくる。
「あなたは、この絵を見たことはあるか?」
皇帝ヒュリオスの手には、一冊の絵本があった。
とても古びた……乱暴に扱えば崩れてしまいそうなほどに、色褪せくたびれた絵本。
表紙にはそっくりな顔をした二人の子供が描かれていた。片方は水が入った聖杯を掲げ、片方は太陽の煌めきを模したような王冠を被っている。
「いいえ、ありません」
首を振ると、皇帝ヒュリオスは近くの長椅子に座るよう手招きをした。
私は体を固くしながら彼の隣に座る。足元には、キトラがぴとりとくっついて欠伸をしていた。
「これには、双子神伝説の詳細が語られている」
「双子神?」
「陽を司る男神と、雨を司る女神の伝説だ」
皇帝ヒュリオスは、バムート皇室に代々受け継がれる言い伝えについてを話した。
何も無いバムートの大地に降り立った陽と雨の双子神。
陽を注いで生命に力を与え、雨を注いで生命に潤いを与え、少しずつバムートを築いていった。
バムートの大地に人が溢れるようになった頃、双子神は代行者としてバムートの「主」を選んだ。それが後の皇族である。
双子神は天に帰り、陽と雨の力は皇族の血を引く者が扱える御業となった。
絵本は、ここで終わっている。
「雨を司る女神……雨の力……心当たりがあるだろう?」
「っ!」
雨の力、雨を降らせる力。
それは私がもつ、不幸の力だ。
なぜだろう。
皇帝ヒュリオスが……彼が、そばにいると、何重にも施錠した心が、揺れる。
それは帝国に足を踏み入れたときから僅かにあった、高揚感のようなもの。
「始皇帝時代からあった二つの神の力は、いつからか威力に差が生まれ始めた。陽の光は強くなり、雨粒の勢いは弱まった。どれだけ文献を紐解いても確たる原因は不明だが、おそらくどこかの時代で雨の力を強く受け継いだ者が、国を離れたのだろう。これらも推測に過ぎないが、巡り巡って王国に流れ着き、一度力は眠りについたと考えられる」
「本当に、私の不幸の力が、女神の力だと……?」
「不幸と、言われていたのか?」
彼の黄金の瞳が、小さく揺れる。
そして私の手を、壊れ物を触るようにそっと触れた。
「片方だけでは、不幸となり得る力でも、双方が揃えば幸福をもたらす力となる」
真剣味を帯びる眼差しに当てられ、私は動けなくなる。
「力を調和する存在がなければ、制御もできない。感情の起伏で災いを起こすことも……あなたも、そうだったのだろう」
彼は、私が犯した過ちを知っているのだろう。
守らなければいけない民の命を奪った私は、王国で憎まれる存在だった。
「感情を殺し続けるしかなかっただろう。僕も同じだ、そうするしか方法がなかった」
謁見の間ではひどく冷たく感じていた瞳が、熱に溶かされるように穏やかになっていく光景に、息を呑んだ。
ああ、そうか。
表情がないのは、作らないのではなく、作れなかった。
私とこの人は、同じだったんだ。
「陛下……」
触れていただけの手。それがゆっくりと指が絡まる。
まるで押さえ込んでいた感情を解き放とうとするように、彼は温もりを与えてくれた。
「アデナ。君を早く見つけ出せなくて、すまなかった」
「どうして、謝るのですか」
「臣下の身を案じて航海中一人で塞ぎ込んでいた君は、優しい人だ。そんな君が多くの民の命を奪ってしまったのは、我が皇室の過失である」
だからどうか、と彼は囁く。
「これからの君のすべては、幸せなものであるように。出会ったばかりの僕に身を預けるのは不安だろうが、少しずつでも信じて欲しい」
視界が滲む。
目の前で微笑む彼の長い指が、私から出ていった雫を掬い上げる。
「この先、君の憂いを晴らすのは、僕でありたい」
固く結んでいた糸がほどけるように、体の力が抜けていく。
どうしてだろう、涙がとまらない。
泣いてはいけないのに、私の悲しみは不幸を呼ぶのに。
「アデナ、おいで」
必死になって涙を拭う私の手を、彼は包み込むように握って中庭へと誘導する。
眩しい陽射しの中で、輝く粒が空から落ちてきた。
胸がすくような青空から、しとしと音を奏でて雨が降る。
「アデナ。君が降らせる美しい雨は、この国で多くの民を救うんだ」
こんなにも救われる雨があるのだと、初めて知った。
日照りの雨。
それは私だけでは生み出せない奇跡の御業。
片割れの存在が隣にいるからこそ、幸福となって私たちを濡らしてくれた。
もう私は、命を流すことはない。
これからは、この国で、多くの命を潤していくのだ。
***
「大陸制覇? 一体どこからそんなデタラメな情報が流れたんだ。ただ僕は、各国に赴いて水の供給を願い出ただけだというのに」
無表情ゆえに周辺国には恐ろしく映っていたのだろう。
感情の読めない皇帝ヒュリオスは、いつの間にか噂に尾ひれがついて、収拾がつかないほど広まったようだ。
「まあ、いい。舐められるよりかは、恐怖されるほうがいいだろう」
そう言いつつも、少しだけ拗ねた様子が可愛らしくて。
口角が緩んだ私の顔を見て、同じように陛下は笑んでみせた。
それはちょっとぎこちない、私も、彼も。
「まずは、表情を豊かにする練習からしよう。僕も君も、長らく感情を塞いでいたんだ。顔の筋肉もあまり動かないな」
「練習、ですか?」
「僕も詳しくはないのだが。下町の子らの間では、"にらめっこ"という遊びがあるらしい」
「にらめっこ……なんだか不思議な響きで、難しそうな遊びです」
「さて、どんなものか。さっそく聞いてみようか」
陛下は嬉々として侍従を呼びつける。
実際にやってみせてくれと命令を受け、侍従が困り果てたのは言うまでもない。
大陸の南にある熱砂の大地、バムート帝国。
元々日照りが多い土地だったが、いつからか災害級の干ばつが何ヶ月も続くようになり、多くの民が命を散らした。
ある時、皇帝ヒュリオスが小さな王国の王女アデナを迎えたことで、帝国は生まれ変わった。
周期的に降る恵みの雨は、砂の国を大いに発展させた。
実りが尽きることのないみずみずしい果物や食料の数々。枯れることのないオアシスは、国民のみならず諸外国の来訪者にとっても憩いの避暑地となった。
帝国の繁栄に力の限りを尽くした皇帝ヒュリオスと、皇后アデナは、政略結婚にも拘わらず仲の良い夫婦だったという。
子宝にも恵まれ、居住宮殿の中庭にはいつも笑いが絶えなかった。
夫婦はよく子供らと何かの遊びで競っていたそうだが、さて、それは一体どんな遊戯なのか。詳しくは伝わっていない。