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イサイアスに捧ぐ  作者: 万事塞 翁
第六章
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第五話


灰は周囲を警官八人に二メートルくらいの距離を保ちつつぐるりと囲われていた。


「動くな!」


とその中で特に体格の良い警官が怒鳴りつけ、ビリビリと耳に響く大きな怒鳴り声で、警官たちの緊迫した空気がより張り詰めるのがわかった。

だけど。


「まあまあ、夜中にあんま大声出すなって。」


その中央にいる灰だけはヘラりと笑っていて、警官に取り囲まれているというのに緊張感に欠けていた。買い物でもしていたのか何か入っている小さめのレジ袋を持っていて、ー警察に追われている身だというのに余裕あるな…。

周囲の警官を退けたら、夜コンビニにふらっと買い物に来ただけの人にしか見えない。誘拐犯どころか殺人事件の容疑者には到底見えないラフさだった。

もう降参するつもりで諦めているのか?

…七は周りにいるようには見えない。

それどころか今この商店街には灰や警官以外に一切人がおらず、商店街が大通りとぶつかる向こうの辺りを封鎖するようにパトカーが止まって、そこに人集りができているのが見えた。安全のため一般人を追いやったのかもしれないが、そうなると小道から抜けて来てしまった俺も見つかると追い出されてしまうかもしれない。

自転車を降りて小道からこっそりと身を乗り出して状況を見守る。

警官たちはじりじりと灰への距離を少しずつ詰めており、一斉に取り押さえるつもりのようで、さっきのパトカーまで応援に追いつけばここから逃走するなんて到底無理だ。


「……。」


…いいのか?

ここで捕まったら、七は帰ってくるかもしれないけれど。

灰が殺人犯として捕まってしまう。

警官たちの灰への距離は一メートル程になって来ている。全員が手を伸ばせば抑えつけられるようなところまで迫っているのに、灰は変わらずそこに立っているだけだ。


本当に、このまま逮捕されていいのか…?


一触即発の中。

警官の一人が力強く後ろ足で地面を蹴ると、それに続いて一斉に警官達が灰に向かって踏み込み、


「…っ灰!」


商店街に俺も飛び出した時。

灰は一瞬、屈むように膝を屈伸すると。


その次の瞬間には灰が宙を跳んでいた。


跳んでいるというか、飛んでいるみたいなジャンプ力で。自分を囲む警官の中でちょうど店の軒先にいた警官の肩を踏み台にするように飛び込むと、さらに跳躍し、目の前の店の壁を蹴り上げその勢いのままその二階建ての屋根に手を伸ばし、よじ登る。

ほんの数瞬の出来事で、瞬きするタイミングが悪ければいきなり屋上に瞬間移動したみたいに見えただろう。


「すっげぇ…。」


勝手に感嘆の声が出た。

漫画でも見てるみたい…。

こんなことできるのだから、あの余裕そうな態度も納得だった。逮捕されるつもりでも諦めたわけでもなく、最初から逃げ切れるつもりだったんだ。警官の中には突飛な動きをした灰に手を伸ばして対応している人もいたが、あまりに瞬間的な出来事で届きはしなかった。


「止まれ!」


と警官はそれでも上を見上げながら、ーさっき踏み台にされた警官はバスケのゴール下でダンクを決められたガードみたいに後ろに吹っ飛ばされていたが、手を借りて立ち上がっているから怪我はなさそうだ。屋上に消えてしまった灰に向かって怒号が響く。

俺は少し離れた場所にいるから灰の立っている屋根の上が少しだけ見えるが、真下にいる警官たちには見えないようで、


「追うぞ!」


と警官たちが分散して灰の行方を探し始め、俺の方にも向かってきたので慌てて小道に後退する。

その間にも灰は登った屋根からまた壁を蹴ったりバルコニーの手すりを足場にしてみたり、あっという間に周囲の中で一番高いビルの屋上に消えて行って見えなくなってしまった。

今更到着した、さっき俺がショートカットして追い越して行ったパトカーも、状況を聞いて逃げた灰を追うように今来た道を走りだす。

商店街から伝播していくように、辺りは騒然としていった。


「……ルパンか、あいつは…。」


残された俺は、一人呟くしかできなかった。







「…ん、臨…!」


尊の声に起こされ、目を覚ますと家の玄関だった。


「寒っ!」


意識が覚醒すると一緒に寒さが襲ってきて身震いする。玄関の扉は閉まってこそいるが冷たい風が漏れていて、ほとんど外気と変わらない。なんでこんな場所で寝ちゃったんだ…。


「大丈夫ですか?」


尊が肩に羽織っていたストールを俺にかけてくれ、


「いつ帰って来てたんです?」

「多分、さっき…。今何時?」

「朝の五時です。私も居間で寝てしまっていて…。臨が帰ってるか見にきたら玄関で倒れてるからびっくりしたじゃないですか。」

「ごめん…。」


あの後も灰の捜索を続け、どこにいるかは見つけた警官たちの騒ぎ声が教えてくれるから何度か灰を目で捉えることはできたが、歩道橋から道路に飛び降りて走っている車の上に乗って逃げたり、自分に向かって走ってくるパトカーを踏み台にしてビルに飛び移ったりと結局誰も灰を捕まえることはできなかった。

その騒ぎも二時過ぎになると完全に見失ったのか収まってしまい、俺も自分で周囲を捜索はしたが、警官からステルスしながら夜道を探すのに疲れて家に着くなりその場で倒れたんだった。


「すごいですね、灰さん…。」

「運動神経がいい奴なのは知ってたけど、人間離れしすぎだろ…。」


最後の方なんか三十人くらいと追いかけっこしてたぞ…。


「七はいなかったんですよね?」

「灰とは一緒にいないみたいだった。」

「どこかで監禁されてるんでしょうか…。」


灰がどこかに監禁していて、灰と一緒に行動しているならまだいい。多分、いや灰は絶対七に危害を加えたりしないと、信用している。信じている。

だけどもし。

誰かに引き渡されてでもしていたら…。


「……。」


少し寝て、体力が戻って来た気はしている。もう一度探しに行くと言おうとして、「とりあえず。」と尊に先に制された。


「臨はお風呂に入ってから部屋で一回寝てください。風邪ひいちゃいます。」

「だけど…。」

「今闇雲に探すより、本当に必要な時に風邪で動けなくなったら困るでしょう?言うことを聞きなさいっ!」

「…はい。」


お母さんみたい…。

尊に言われるまま、準備してもらったお風呂に浸かってから布団に入ると、すぐに意識は飛んだ。次に俺を起こしたのは、誠さんだった。


「臨!いるかい?」


夢から強制的に意識を連れて来られて、ああ今折角夢に七と尊がいたのに…、スマホを見ると九時過ぎだった。のそのそと起き上がり、


「どうしたんですか?」

「悪いんだけど、これから警察の人が来るから一緒に話を聞いてほしいんだ。」

「…それはもちろん。」


むしろ願ったり叶ったりだが。

だけど、なんで俺…?

いつものことを考えればそういう場に呼んでくれないと思っていたが。


「お義母様と遥は灰から連絡が来た時のために参加しないんだ。」

「はあ…、…?」


寝起きで頭が回ってないから、だから何なのかが理解できていない。


「灰から身代金の引き渡し連絡が来たらすぐ出ないとだろう。だけど警察の人との話に誰もいないのも不自然だから…。」


なるほど、だから俺にカモフラージュの数合わせで座っていろということか。まあ呼んでくれるなら都合がいいが、てことはもう一億円も用意できているのか…。すごいな神楽所家…。


「急いで準備します。」





昨日と同じ客間に、誠さんと俺、尊がいて、対して警察の人は昨日と同じ三人が座っている。


「昨夜、灰さんを発見したんです。」

「え、見つけたんですか⁉︎」


誠さんが驚いているが、俺と尊は知っているのでリアクションし損ねてしまった。


「巡回していた警官が職務質問をした相手がそうだったようで、私共も向かったんですが…。」


年配の刑事が面目なさそうに、「逃げられてしまって…。」て小さく続ける。


「七ちゃんは⁉︎その場にはいなかったんですか⁉︎」

「いませんでした…。おそらく何処かに監禁されているものと思いますが…。」

「逃げられるって!警察は何をやっているんですか!」


誠さんの責める声に刑事たちは皆素直に謝罪しつつも、


「その、あまりに常識的ではなくて…。」


と三上さんが言い訳をしていた。


「常識的ではない…?どういう意味ですか⁉︎」


そう言われただけでは意味がわからないようで、誠さんの疑問は尤もだ。

だけどあれは現場で見た者にしか説明できないような、常識外れの光景だった。筆舌に尽くしがたい気持ちは見ていた俺が嫌というほどわかる。

女性刑事が誠さんを宥めるように、


「確保には周囲の警官が総出で行いました。決して怠慢があったわけではないんですが…。」

「…高校生の時も、随分手を焼かされてましたからね。」


と、年配の刑事が後頭部を掻きながら苦い顔で続けた。


「高校生の時…?」


高校生の時も警察に追われていたのか?

そんな前科持ちなのかアイツは…。


「ちょうど君くらいの時、毎日喧嘩で補導されていたんだよ。」

「あの時も補導するのに警官がいつも十人態勢で臨んでましたから…。」


今日はお婆様がいないからか、刑事達の口が全体的に軽いようだ。

喧嘩ばかりしていて、誠さんがいつもその度に連絡を受けては青い顔をしていたのを覚えているが、それは捕まるわけもない。あの身体能力に合わせて、毎日警官と追いかけっこしていたせいで逃げ方を熟知してしまっているんだろう。


「中村工高の無敵の灰狼と言えば、あの時代で知らない奴はいらなかったくらいの不良でしたから。」


中村工高というのは今は改名して進学校になった、灰が通っていた中村工業高校のことだが。

無敵の灰狼って。

…ださ。

昭和の不良漫画でしか見ない時代錯誤な通り名は一体誰が付けたんだろうか。まさか灰が自分で付けているわけではないと思うが、俺なら絶対黒歴史だな…。

隣の尊が俯いているが、どう見ても笑いを堪えている。

さっきまで熱の入っていた誠さんも、当時を思い出しているのか苦笑いしながら、


「あの灰と対等に喧嘩できる相手なんて、高校時代でも一人だけでしたからね。」

「まあ対等に喧嘩どころか一緒になって暴れてたので、警官の手を煩わせただけ…、」


年配刑事はそこまで言ってから、いくらお婆様がいないとはいえ失言だと気づいたのか、咳払いして誤魔化していた。


…それって…。


刑事達は「とにかく」と話を切り替えて、


「灰さんから連絡があれば必ず警察に教えてください。まだこの近くに潜伏している可能性が高いですから。」




身代金の要求について疑うこともなく帰って行った警察に、誠さんはほっと胸を撫で下ろし、


「お義母様のところに行ってくるから。二人は部屋で自主学習でもしていなさい。」


と去って行った。そういえば今日学校だったが、行かなくていいということだろう。


「どうしますか?探しに出るなら今度は私も一緒に…。」

「いや、今のままじゃ見つけても俺たちじゃ逃げられる。」

「じゃあ灰さんか警察から連絡が来るのを待つんですか?」


本当は今すぐにでも探しに行きたい尊の焦燥的な言葉に、首を振る。


「いや、俺たちで探そう。」


昨日見て思った。

警察に任せて灰が殺人犯として捕まるのは嫌だ。やっぱり何か理由があるのだと、信じることにした。だから灰を止めるのは警察じゃなくて、俺たちでなきゃダメだ。

俺たちで見つけて、七を助けて灰も助ける。


「でも、見つけても逃げられちゃうんですよね…?」

「だから、助っ人をお願いしよう。」

「助っ人…?」


何のことかわからない尊に、だけど尊も知っていることだ。

俺たちは、その人を知っている。

灰と対等に喧嘩のできるその相手を知っている。

灰を止めてくれるかもしれない人を。


「京介さんに、頼みに行こう。」



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