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イサイアスに捧ぐ  作者: 万事塞 翁
第一章
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第八話

翌朝起きると、寝ている間に血豆を掻いてしまったのか、布団が血だらけになっていた。

昨日から乾きかけた瘡蓋が痒いなとはずっと思っていたが…。

枕元に付いた血にげんなりするものがあったけれど、とりあえず現在進行形で出ている血を洗うべく洗面台に行った。水で固まった血を流すと、傷に染みて叫びたくなる。


今日も、演舞の練習をしなきゃー


「はぁ…」


思わずついたため息を、慌てて飲み込む。

弱音を吐く時間なんか、一秒もない。

あのままお婆ちゃんに頼っていただけでは、母は退院し、父も退院してそのうちに出所してしまうだろう。警察から聞いた話によると、父も揉み合いの末にか怪我をしていたらしく、入院しているらしい。詳しくは聞きたくなかったから、聞き流したけれど。

そしたら結局また私達はあの家に帰されてしまう。

自分を刺した夫にどういう判断を下すかは知らないが、我慢する事を、耐え忍ぶ事を選んできた母が、まともな判断をしてくれるとは思えない。

あの家から逃れる方法を、折角手に入れたのだから。しかも神楽所の家に加われる機会など、そうそう得られるチャンスではない。

それを言えば、そもそもあの事件が起きた事さえ私にとっては僥倖だった。

なんて。

春に知られたら、きっと嫌われてしまうだろう。実の親にこんな事を考えて、あんなお願いをして、春から家族を奪おうとしておいて、どこまでもクズだな私は。


「…痛いな」


流水に混ざる血を見ながら、そんな言葉が勝手に口から出た。




「おはようございます、…七、大丈夫ですか?」


朝食を取りに行くと、尊に出会い頭に顔を覗き込まれて、


「えっ、な、何がですか?」

「それ…。」


尊が指差した先には、不器用にも自分で巻いた掌の包帯だった。

よかった、これの事か…。

朝の弱音がうっかり顔に出てしまっていたのかと焦ってしまった。まあ、そんなヘマはしないが。どんなに家の中で怒鳴り声を浴びせられ殴られたとしても、翌日学校では平然と振る舞えるのが私の特技と言っても過言ではない。平気なフリは小さい頃から得意だった。中二の時に虚勢の七と自分で二つ名を考えたくらい。うん、黒歴史。


「朝起きたら瘡蓋剥げちゃってて…」

「無理しすぎなんじゃないですか…?」


少し大袈裟にも心配する尊に、


「どうしたの?」


後から来た臨が加わった。


「七の手が…。」

「あー、いや、これくらい全然大丈夫です。持ってきた救急箱に丁度いい絆創膏がなくて、ちょっと大袈裟になっちゃっただけなんで。」


「それなら」と、臨が口を開き、それからやっぱり閉じた。


「なに?」

「何でもない。早くご飯食べちゃおう、今日も練習だろ。」


練習、と聞いて手の傷が余計に痛くなったが、気づかないフリをした。自分を騙すのも、昔から得意だった。




練習は、朝から散々だった。

自分で巻いた下手な包帯では全然傷を保護できていなくて、痛みに庇って動きに集中出来ず、ミスを連発していた。猛暑の中、巫女服は汗なのか冷や汗なのか、あっという間に濡れ鼠のようになってしまい体力の消耗も激しい。おまけに、


「七、血が…。」


尊が青ざめた顔で私の手を取ると、掌の包帯に血が滲み出していた。


「うわ…。」


流石に、自分でも呻き声が出た。血なんか見なくてももう限界くらいずっと痛いのだ。それでも。


「だ、大丈夫です。それより練習しないと…。」


一刻も早く。私には全然時間がない。痛いなんて、言ってられない。


「テープ流して。」

「七!」


尊の制しを振り切って、臨が流し始めたテープに合わせて再び演舞を踊り始める。


「っぐ!」


がしゃんがしゃんと、棒を振りかぶる動きに合わせて思いきり落としてしまった。


「っ!」


神楽鈴に掌の皮を持ってかれた感覚に、思わず蹲る。カンナで掌を削られたみたいな痛みだった。


「七、大丈夫ですか⁈少し休みましょう…。」


休んでいる時間なんかない。だけど。

包帯に滲み始めた血は、面積を広げて包帯の外まで浸み出している。包帯を剥いだ時のことを考えると、いやもう考えなくても既に冷や汗を掻くほど痛い。

まずい。私、踊れるのか?

そもそも、1ヶ月なんて無理があるんじゃ。だって尊でさえ二ヶ月かけて踊れるようになった演舞を、ちゃんと見た事もない私が…。

でも、踊らないと。だってそうしないと、またあの家に帰らなくちゃいけない。私にはもうこれしか…。だけど本番でミスでもして神楽所から追放でもされたら、余計に居場所を無くすんじゃないのか?そんな事になったら、春もお婆ちゃんも…。今ならまだ、引き返すことも…。


頭の中がぐちゃぐちゃになって。もう一度神楽鈴を握れなくなってしまった時。


コンコン


神楽殿の扉が鳴らされた。


「し、失礼します。」


小さい声がして、恐る恐る女の子が姿を現した。


「…春。」

「お姉ちゃん!」


春はこちらに気づいて顔をぱっと明るくして飛びついてきた。


「春、どうしてここに…。」

「あのね、お婆ちゃんの家に運転手のおじさんが迎えに来てくれて。お婆ちゃんは外で待ってるって言ってた。残りの着替えとお婆ちゃんの作った煮物持ってきたの、お姉ちゃん好きでしょ。」


春は久しぶりに会った私に嬉しそうに話す。なのに私は、上手に笑えない。


「あ、ありがとう。」


血の滲んでいない方の手で頭を撫でると、春が笑った。事件の前みたいな、向日葵みたいな顔で。毎日電話はしていたけれど、春の表情がこんなに戻ってきているとは知らなくて安堵した。


「春、ちゃんとお婆ちゃんの言うこと聞いてるんだね。」

「うん!お姉ちゃん頑張ってるもん!春も頑張るよ!」

「…偉いよ、春。」


果たして、私は頑張っていると言えるのだろうか。頑張っていたとして、何を頑張っているというのだろうか。こんな春を裏切っておいて。

そう思い、表情をうまく作れない。それでもこうして私を信じて頑張った春に何か声をかけたくて、


「春…、」


と。しかしそれより先に、春が周りに尊と臨がいることに気づいて、さっと私の背中に隠れた。


「あ…。お世話になっている神楽所のお姉さんとお兄さんだよ。挨拶しよ。」


しかし、私の服の裾を強く掴んで不安そうな顔をするばかりだ。


「はじめまして、春ちゃん。尊といいます。」


尊が春の前でしゃがんで、優しそうな顔で話かけた。その笑顔に信頼出来るものを感じたのか、春はちらりとこちらを見てから、「はじめまして。」と小さく返事をした。


「あちらのお兄さんは臨と言います。」


尊に紹介され、臨もよそ行きの笑顔で会釈すると春もペコリと頭をさげた。春には愛想笑いができるのにどうして私には出ないんだ。してほしいわけじゃないからいいけど。


「お姉ちゃん、練習頑張っていますよ。」


尊に言われ、嬉しそうに春がもう一度私を見る。


「春ね、お姉ちゃんが踊るの楽しみにしてるよ!」

「春…。」


向日葵みたいな笑顔で、私を見る。

ダメだ。私は春を裏切れない。

この笑顔を裏切れない。私はもう、踊れない。


「ごめん、春。私…。」


春に手を伸ばそうとして。


春が「ひっ」と、悲鳴みたいな声を上げて顔を青ざめた。


「…春?」


一歩下がった春に、何事かとこちらも一歩前に出て、


「いやあ!」


手を振り払われた。


理由はすぐわかった。私の血塗れの手だ。

お婆ちゃんから聞いた話だが、あの事件の日、私が警察署に連れてかれた後に帰宅してしまった春は、どんな意図があったのか、それとも手違いだったのか、血塗れの現場に通されてしまったらしい。いつも生活しているリビングに、母の血がべったりとついたフローリングに、あの血生臭い匂いに、春が何を思ったのか。


目の前で小さく丸まって震える春は、先程の向日葵が咲いたみたいな笑顔とはひどく対照的で。

…危なかった。間違えるところだった。

春にこんな顔をさせたのは、誰だ。春の気持ちを裏切って、例え嫌われても。私のエゴでいいから、春を二度とあの親には近づけさせない。


「春!」


思ったより大きい声が出てしまった。

仕方ない、それだけ決意が大きいということで。


「な、なあにお姉ちゃん…。」


びっくりが勝ってしまったのか、驚いた顔で私に向く春に、


「お姉ちゃん練習頑張ってるから、絶対に演舞踊るから、だから夏祭り見にきてね」


春は泣きそうな顔で、でも、と。


「痛くないの…?」

「痛くないよ、それより、頑張った証だから。こういう時、なんて言ってあげるんだっけ?」


春の目線に合わせるように屈むと、


「お姉ちゃん偉いね。」


春は私の頭を撫でた。思わず、笑ってしまう。


「ありがと。春が応援してくれるから、もっと頑張れるよ。」


つられて笑う春に、もう絶対に弱音は吐かないと誓った。




「よかったら春ちゃんも練習見ていきますか?」


荷物を受け取って帰ろうとした春に、尊が言った。それはまずい、私のまだ下手くそな踊りを見せるわけには…。


「お婆ちゃんに、お姉ちゃんの練習の邪魔しちゃダメだから…、早く帰っておいでって…、言われてます。」


とだけど春は帰宅を選んでくれた。良かった。あれだけ言って踊りがあれでは春がまた落ち込んでしまう。


「そうだね、お婆ちゃんの言うこと聞かなきゃね。」

「…うん。」


そうは言っても帰り難いのか俯く春に、予想外にも臨が声をかけた。


「せっかくお祭りでお姉ちゃんが踊るんだから、それまで楽しみは取っておいた方がいいもんね。」

「う、うん!楽しみ!」


春が笑顔で頷いた。ナイスフォローだ。悪態付くのはやっぱり私にだけらしい。


「臨、清さんの所までお送りしてあげてください。」


尊に促され、「春ちゃん、行こう。」と臨が春の手を引く。


「お姉ちゃん、頑張ってね。」

「うん。」


後ろ髪を引かれつつも、臨に連れられ春が出ていくのを見送る。その背中に、精一杯謝罪しながら。




「七、その手…。」


尊に言われ、強く握った掌から滴り落ちる血に気付く。

こんなの、もうなんでもない。


「大丈夫です。もう痛くないんで。」


これから傷つく、春の痛みに比べれば。


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