最終話②
子供の頃、それこそ今の春よりも小さい頃の私は、春よりも素直で、ずっとずっと馬鹿だった。
最初は多分、普通の家だった。
ちょっと喧嘩の多い、それでも普通の家だと思っていた。愚直だった私はテレビで見るみたいに、仲の良い父親と母親に自分は愛されているのだと疑わなかった。家族は絶対に仲が良いものなんだと思い込んでいた。
いつからか、父親が母親に暴力を振るうようになった。
目の前で繰り広げられるそれは、子供の私には見るに耐えない現場で、何度も泣いた。その度に、母親が後で私に謝ってきた。「お父さんもお母さんも仲直りしたからもう喧嘩しないから。」と。だから私は期待した。その度に母親の言葉を信じて、期待した。仲直りしたから、もうしないってお母さんが言ったから。
そのうちに、今度は私も殴られるようになった。
痛くて、怖くて何度も泣いた。その度に、父親が後で私に謝ってきた。「もう殴ったりしないから、本当にごめんな。」と。その後で母親も謝ってきた。「守れなくてごめんね、今度は絶対守るから。命に変えても守るから。」と。だから私は信じた。だってお父さんとお母さんがそう言ったから。その度に父親と母親の言葉に期待して、信じた。もう殴らないって約束したから、今度は守るって約束したら。
期待して、期待した、殴られて、期待して、期待した、殴られているのを見て、期待して、期待した、殴られている私を横目に助けてくれない母親を見て、期待して、期待した、痛くても、期待して、期待して、傷ついても、期待した、期待に、期待して、痛い、期待、期待期待期待期待期待期待…。いつしか、期待が、期待を、裏切った。
馬鹿だった私は、やっと悟った。
人の言葉を信じてはいけないのだと。
人を信じた私がいけなかったのだと。
殴る父親が悪いわけでも、庇ってくれない母親が悪いわけでもない。
優しい言葉を言う人間は、嘘付きなのだと。
耳障りの良い言葉は、騙すために言うのだと。
それを信じた私が馬鹿だったのだと。
自分の身は自分で守らないといけないのだと。
悟った。
だから、わかっていた。
優しい臨は、嘘付きなのだと。
家族だと耳障りの良い言葉を言う臨は、私を騙すのだと。
だから、わかっていた。
信じてはいけないと、期待してはいけないと。
今は本当に優しくても、家族だと言ってもいても、いつかきっと。
いつかきっと、裏切られる日が来るのだと。
だから、今までだってちゃんと線引きできていた。
期待しないように、気をつけてきた。
だから、わかっていたから。
こんなのは、全然。全然、なんでもないはずで…。
「だから、今は家族になれなくても、他の、かんけ、いに…。」
何か続けようとしていた臨は、途中で言葉を詰まらせた。
私の顔を見て。
わかっている。
視界が滲んでいるんだから、自分がまた泣いているということは私が一番わかっている。
わかっていて、わかっているのに。
なのに私は本当に。本当に馬鹿だ…。
臨のことを家族じゃないと、散々わかっていたつもりの私が、そうやって自分を説得し続けてきた私が一度だってそれを臨に否定しなかったのは。
私は臨に期待していたんだ。
臨の言う家族という言葉を信じて、臨の優しさに、期待していた。
臨は私を裏切らないと、期待していた。
違う。
否定されてもまだ、期待している。
「な、七?」
「臨が、最初に言ったんじゃん…。」
「え?」
「そんなこと言わないでよ…。」
狼狽る臨に、こんな公園で泣き出して、期待するだけ馬鹿を見るのもわかっておいて、それでも。
それでも。
臨には、そんなこと言ってほしくなかった。
家族じゃないなんて、言われたくなかった。
「謝るから…。臨の言うこと聞かないのも、心配させるのも、怒ってばっかりなのも、部屋漁った時にえっちな奴見ちゃったのも、全部謝るから。」
「い、今なんか変なの混じって…、」
「そんなこと言わないで…。」
情けない。
しゃくり上げる程泣いて、恥ずかしい。
恥ずかしくて、言ってから後悔するほど恥ずかしい。
泣いて恥ずかしくて、言うのも恥ずかしくて、恥ずかしいのでまた泣けてきて、下を向いたまま、臨の顔を見る勇気もない。
「家族じゃないなんて、言わないで…。」
体裁を保つことすら、できない。
ぼたぼたと落ちてくる涙で制服の袖はぐちゃぐちゃで、思った言葉は勝手に口から出て言ってしまう。
臨の一言で、ここまで取り繕えなくなっていることが。
本当に情けない。
「…ごめん、そう言うつもりで言ったんじゃなくて…。」
臨が困った声で言った。
じゃあ一体どういうつもりだと、胸ぐらを掴む元気はもう残っていない。
何も返せず、ただすすり泣く音だけがしばらく続いた。
公園の周りは人通りが多くないのか、人の気配はしない。遠くから、駅の周りの賑やかな笑い声が、なんだか夢みたいにぼんやり響いていた。
泣き疲れてきて、本当に夢かわからなくなってきた。
「七は、俺と家族がいい?」
臨が聞いた。
今更。
これに恥ずかしいと思うだけの感情を出す気力も残っていない。
ごちゃごちゃと考えて、言い訳をこね回して、自分を騙すだけの体力も残ってない。
臨に家族でいてほしいと、それしか思いつかない。
臨の問いに頷いて返してから、
「…臨はもう違うの?」
私は下を向いたままで、臨の表情はわからない。
何を考えているのか、何を思ってそう言ったのか、私にはわからない。
この沈黙が何を意味するのかも。
違うと、家族じゃないなんて言わないでほしいと願いながら。だけど多分、こうやって聞いている時点で、私はまた臨に期待しているのだ。
「違くないよ。」
そう言われて。
その言葉にやっと顔を上げられた頃には、辺りは真っ黒だった。
公園の街頭は遠くの方に一つだけあって、臨の顔はぼんやりとしか見えなかった。
「変なこと言ってごめん…。」
表情を読み取るより先に、臨に頭を引かれるまま、顔を臨の胸元に預けて顔は見えなくなってしまった。困っているようにも、苦笑いしているようにも見えたけれど、はっきりとはわからなかった。
臨の身体が暖かくて、頭を撫でられる手は子供でもあやすみたいで、本当に眠ってしまいそうなくらい、優しかった。
「…もう怒ってない?」
「別に怒って言ったわけじゃなくて…。」
「…部屋漁ったのも?」
「…それについては、大分話が違ってくるな。」
「ごめん…。」
「いや、まあ…、怒ってはないんだけれど…。」
苦笑いする声が頭の上から聞こえて、
「七のこと、家族じゃないなんて思ったことないよ。」
臨が私の前に小指を差し出した。
「もう絶対言わないから、約束。」
「…うん。」
その小指に、その約束に、私は期待する。
臨の優しさは嘘じゃないと、私を騙さないと確信したわけではない。
いつか裏切られるかもしれないと、嫌われる日が来るかもと、そう思いながらも私は、神楽所臨を信じて、期待する。
私にとって、神楽所臨を形容する言葉は、この一つだけあれば十分だ。
神楽所臨は、私の家族だ。




