第七話
その日から、学校と睡眠以外は全て練習に費やしたと言っても過言ではなかった。
朝起きて練習して、学校に行って、帰宅して練習をして、寝て起きて練習をして。練習をして、練習をして。そうして神楽所に来て、あっという間に一週間が経った。経ってしまった。練習期間がたった一ヶ月しかないのに、一週間が過ぎたというのは精神的にかなりくるものがある。
というのも、一週間経った私の成果が、酷いものだからに他ならない。
がしゃん、と。神楽鈴(と言っても練習用のため実際にはただの棒)をもう何度目かわからない程落としていた。
「痛…。」
手には、この一週間で無数の血豆が出来ている。
重さのある練習棒を握る事で、この一週間の間だけでも何度も豆が出来て皮が剥がれて、新しい皮膚が形成される前に更に練習棒で皮膚を擦り減らすというのを繰り返した結果、今や私の掌はちょっとした閲覧注意状態になっている。
「七、今日は終わりにしましょうか?」
目の前の尊が、心配そうに駆け寄ってきた。この一週間、尊は私と一緒に付きっきりで練習に付き合ってくれている。朝から晩まで付き合わせて、成果が血豆だけでは申し訳がたたない。
「…大丈夫です。続けて、ください。」
「だけど酷い傷です。汗もすごいですし…。」
言われて気付いたが、顎から汗が滴り落ちていた。
今日は土曜日で、午後の練習を始めて五時間。練習用とは言え本番さながらの何層にも重なった巫女服を着て、クーラーの無い密閉された神楽殿での練習は毎日こんな状態だ。
山の中にある神社のため、外から聞こえてくるセミの鬱陶しい声が恨めしい。
「いや、まだ全然、大丈夫…です。」
そう言った声も途切れ途切れになってしまい、まともに肺から息が出せない。呼吸とは言うのは吸うより吐く方が難しいというが、本当にそれを実感する。
「全然大丈夫じゃなさそうですよ…。少し休みましょう、」
ね?と、優しく諭される。付き合ってもらっている身分とは言え、だけど、あと三週間もしないうちに本番がきてしまう事を考えれば、今この話している一瞬一秒すら惜しい。
「いや、あの…。」
それを伝えたいが、それすらも言葉に出ず、
「待っていてください。お湯を沸かしてきますから」
と尊が神楽殿を出ようとする。まだ夕方だ、後数時間は練習出来るのに。そう言おうと思うが息が出来ず、尊を見送るだけになりそうだったが、
「あと三週間もないのに、手の皮なんか無くなってでも練習しないとだろ」
と見ていただけの臨が口を挟んだ。あいつはいつもああやって部屋の端っこで退屈そうに練習を見ながら、口だけ挟んで来る。でも、
「臨…、けれど…。」
尊の足が止まった。
「絶対に演舞を踊るって言ったのはあんただろ。」
と、臨が私にタオルを投げて寄越した。そのタオルで顔を拭い、深呼吸した。
よかった、練習を続けられる。
「元よりそのつもり。」
やせ我慢でも何でもない。絶対に踊るために、倒れてでも、這ってでも、死ぬ気で食らいつかなくてどうする。
「続き、お願いします。」
尊は一度戸惑った顔をしてから、練習に付き合ってくれた。
数時間経って、流石に膝から崩れるようにその場に伏せた。
息を吸うとか吐くとか意識する暇もなく、嘔吐くような咳が止めどなく出て、とっくに消化したはずの昼食が戻ってきそうだった。
「だ、大丈夫ですか?」
「げほっ、だ、大丈夫です。すみません…。」
尊が背中をさすってくれる。細い指が背中を行き来して、逆にぎくりとしてしまう。
こんな見た目で優しいとか、本当に神様というのは不平等なものだ。少しそうしてもらっていると、落ち着いてきた。
夏になって日が長くなってきたが、やっと日が暮れて扉の隙間から涼しい風が吹いてくる。外のセミの鳴き声が落ち着き、木々に囲まれた神社の中は、森の中でのみする木々が風で揺れる音が心地よく響く。
「そろそろ夕飯の時間です。お湯に浸かってから、ご飯を食べましょう」
「…はい。」
今日はこれくらいが潮時だろうか。夕飯を食べたら、部屋で過去の動画を見て細かい動作を覚えるとしよう。
「たった一週間で、ここまで踊れるようになるなんてすごいですよ。」
尊はそう言ってくれるが、多分気休めだろう。
別に捻くれているわけではなく、本当に実力不足だからだ。仮に一ヶ月で踊りの動きを真似出来るようになったとしても、それだけじゃ足りない。細部まで、指の動き一つでも違えばそれは完璧な演舞とは言えない。
周囲をぐるっと人に囲まれて、冷静に踊るだけの度胸が私にあるとは思えないし。人前は元より、何より苦手だ。きっと頭が真っ白になって余裕がなくなる事間違いなしだ。頭でなく、身体で覚えなければ意味がない。そのためにはとにかく練習して、練習して、練習するしかない。
私が住んでいる離れにお風呂までは付いておらず、お風呂は共同のものを使わせてもらっている。時間をずれしてくれているのか、誰にも会った事はない。というか、一週間経ってこの家で何人生活しているのかすら良く知らない。
尊が用意してくれたお風呂に入り(ここに来てから毎日、旅館にある様な大きな檜風呂にいつも驚いてしまう)、食事を取りに向かう。それはもう広い面積の家に何度も迷子になったが、やっとダイニングとお風呂と、自分の住む離れには行けるようになった。
ダイニングと言っても、広さは食堂と言った方がしっくり来る。
大きなキッチンが一部屋分あり、その隣にこれまた大きな20人掛けくらいのダイニングテーブルが置かれている部屋がある。椅子や装飾品一つ取ってもテレビで見るお金持ちの家のまんまという感じで、心底居心地が悪い。
まだ誰もいなかったため座って待っていると、尊と臨が来た。
「お風呂どうでした?」
「相変わらず広くて凄いですね。お湯も温泉だし。」
この辺りは温泉街でもあるため、この家もお風呂は温泉を引いているのだという。一般の家で温泉が引けるのかと最初はお金持ち度にドン引きさえしていたが、毎日温泉に入れる幸せと言ったら。流石に全部ではないが、そのおかげで筋肉痛も和らいでいると思う。
臨と尊がそれぞれ座る。ちなみに一番手間に私が座っていて、その向かいに尊、尊の隣に臨というのがいつもの席だ。
「お待たせしました。」
隣のキッチンから、料理を持った家政婦さんが現れる。
これだけ広い家では掃除がさぞ大変だろうと思っていたが、この家には家政婦さんが何人もいて、家事は殆どその人達に任せているみたいだ。本当にお金持ちの次元が違う。テーブルに載る料理は特別豪勢というわけではないが、一食で並ぶ副菜の数一つ取っても一般家庭のそれとは違う。もちろん味も美味しい。
「さ、いただきましょう。」
尊が言う。
広いテーブルには尊と臨と私だけだ。何故だかは知らないが、大人はいつも別室で食べているらしい。最初は私が来たことで同じ釜の飯を拒否されているのかと思って若干傷ついたが、どうも元々大人は朝も昼も夜も別で食事をするらしい。
だからというのもあり、私はここに来て誠さんと遥さん以外の神楽所の人と会ったことがなのだ。尊にも特に明言されないまま、ここに一体あと何人神楽所の人間がいるかもいないかもわからない。
とりあえずあの神楽所薫と会わない事だけを祈る私だ。
相変わらず美味しいご飯を食べながら、それにしても、と思う。
別にうちみたいに諍いがあるわけではないのだろうに、どうして一緒に食事を取らないのだろうか。そして、逆にどうして私は尊達と一緒に食事をしているのだろうか。前者は知らないが、後者は簡単だ。初日にここでお盆に乗った食事を受け取って、当然自室で食べようとしていた所に尊が来て、捕まったのだ。
「折角なら一緒に食べましょう」と。それ以来一緒に食事をしている。
「七、手は大丈夫ですか?」
箸が止まった私に、尊が心配そうに声をかけてくる。
「まだまだ大丈夫です。」
ふと尊の手を見ると、それはもう白魚の様な綺麗な指で傷一つない。
「尊っていつから演舞踊ってるんですか?」
「私は八歳からになります。」
「そんな小さい時から…。」
尊が八歳なら私は六歳だし、全く見た覚えもないけれど、きっと小さい尊が演舞を踊っているのはさぞ可愛かっただろう。神楽所本家の娘が演舞デビューなんてこの地域で盛り上がらない筈もない。
「七歳の頃にどうしても演舞を踊らせてほしいとお願いして…、ようやくお許しを貰えたのが次の誕生日だったんですが、それが五月だったんです。」
「え、じゃあ…」
「はい、私も練習期間が二ヶ月しかなくて。必死に覚えました。」
懐かしむ様に笑う尊に、
「笑い事じゃないよ。毎日泣きながら練習して、それこそ手の皮が無くなる程血だらけになってたのに。」
臨が呆れたように言う。
「それもいい思い出ですよ。」
「まあ久しぶりの演舞でかなり盛り上がったから、大成功ではあったね。」
二人が笑う。学校内ではお似合いの二人みたいな持て囃され方をしているが(従姉弟同士は結婚出来るから恋愛も問題ないらしい)、こうしてみると姉弟みたいだった。私が春を思うような感情を二人もお互いに持っている様に見える。特に臨の方は尊の付き人みたいにべったりだし。シスコンめ、今度悪態を吐かれたら仕返しに揶揄ってやろう。
…というか。
「久しぶりの演舞…?」
どういう意味かわからず首を傾げると、尊が意外そうな顔をする。
「知らなかったですか?私が踊る前は演舞はしばらく行われて無かったんです。」
「そうなんですか?」
てっきり、ずっとやっているのだと思っていた。
「お母様は身体が弱く演舞を踊れなかったので、お婆様が十八歳の時に行った演舞が最後だったんです」
「え、じゃあ演舞って十八歳になったら踊れなくなるんですか?」
年齢制限があるのだろうか?
まあ神様に捧げるのは決まって若い娘だったりするし、しきたりがあるのかもしれない。
勝手に納得しかけていた私に、しかし尊は、
「いえ、そういうわけでは…。」
「んん?じゃあ尊のお婆様がずっと踊るわけにはいかなかったんですか?」
「えっと、それは…、ごめんなさい、私も詳しくわからないんです。」
尊は困った顔で笑う。
「そうなんですね…?」
こういう所だ。尊は演舞を踊る、謂わば次期薫さんという有権者ポジションの筈なのにーいやそれ以前に家族なのに、そういう話をしないのだろうか。
傍から見ていて、なんとなく思うくらいだけれど、尊や臨―特に尊は自分の親である誠さんや遥さんと話す時でさえどこか他人行儀に思える。仲が悪いわけでも、遠慮しているわけでもなく、一線を画しているいう感じ。
由緒正しい家はそういう家なりに、複雑な家庭環境があるのだろうか。どこか尊と神楽所には、溝がある気がしていた。
「お婆様はその年に御婚礼されているから、そういう理由じゃないのか。」
俺もよく知らないけれど。と、臨がフォローを入れるように言った。
なるほど。詳しくは知らないけれど、巫女さんが結婚しているってイメージじゃないし、なんとなく納得出来る。
というか、ちょっと待ってほしい。
「演舞、踊らない年があるなら私がわざわざ踊らなくて良かったんじゃ…。」
「…そ、そんな事ないですよ。七に踊ってもらう必要があったんです。」
「…。」
一瞬の沈黙は、どういう意味だろう…。いや今更踊らないでと言われるのも困るけれど、私踊る必要あったのか?なんだか釈然としない気持ちになる。
しかし深く追求しない方が良いのか、尊は黙ってしまい、なんとなく気まずく感じになってしまった。臨も尊が喋らなければ基本的に私と会話しないし、沈黙が続く。
気まずさに耐えられず、
「あー、そういえば、明日家族が着替えを持ってくれるんですが、神社の中って入っていいですか?」
「もちろん大丈夫ですよ。清さんですか?」
「妹の春です。しばらく会ってないから寂しがっているみたいで。」
「仲良いんですね。」
「あー、まあ、妹とだけは…。」
「……。」
そんなに深い意味があって言ったわけではなかったが、より一層場が気まずくなってしまった。そりゃそうだ。家庭内障害事件があった家の娘に、家庭内の仲とか聞いたら冗談にもならない。
「えっと…私、そろそろ戻ります。」
そそくさと部屋を後にした。食事を一緒に、というのも尊からしたら優しさで誘ってくれているのだろうけれど。こう気が休まる時間がないと、そろそろ心が折れそうだった。