第五話
臨と学校から早退したあの日、私はお婆様に連れられて、自分の部屋に行った。
何をするのかをちゃんとわかっていたわけじゃない。学校から急に連れ戻されて、織衛組のあの穏やかでない空気と会長とやらの言葉を聞いて、不穏な様子を感じなかったわけでもない。そういう空気は、過敏に感じ取れる。
ただ。
それが私の役目であるのであれば、この家においてもらうためであれば抵抗する気もなかっただけだ。
すぐに入れ替わるからと何やら高級そうな着物に着付けをされて、その格好で敷かれた布団に入らされた。これを飲むようにと渡されたのは、何か粉が混ざりきっていないような白い液体で、まああんまり飲みたくはなかったけれど。必要であれば飲むしかないと、ええいままよと一気飲みして、飲んでからすぐにぼんやりしてから、そのまま意識はなくなった。
それからはほとんど覚えていない。
ひたすらに眠っていた。たまにお婆様が部屋に来て起こされたかと思うと、また謎の液体を渡されて飲んで、意識がなくなってを繰り返していた。
そんなことを繰り返しているうちに、意識があやふやになっていって、起きても昼なのだか夜なのだかわからなくなっていった。
家政婦さんがご飯を運んでくれたりもしていたけれど食欲はなく、あの数日間ほとんど何も口をつけずにいたのにお腹が空いていなかったのは、多分氏神様の方が食事をしてくれていたからに思う。
そういえばたまに廊下を灰に担がれて運ばれているような夢を見ることがあったけれど、今思えばあれも夢ではなく現実だったのかもしれなかった。
そんな中で、ある時。夢をみた。
夢と言っていいかはわからないほどに、それは鮮明な映像で、夏祭りの演舞の時に見たあの映像のようだった。まるでその場に私がいるような、というよりは。他の人の人生を生きているような、その人の視点を借りてきたようなそんな映像。
薄暗い工場の中で、自分のお腹から血を流して倒れている映像。刺さったままのナイフが痛くて、血の気が失せて意識が徐々に薄れていく映像。痛くて、伏せた地面は冷たくて、身体から熱が失われていく感覚が、怖かった。
その人の視点なのだから、当然その人の顔が映るわけもないのに、だけど何故か私は知っていた。
それが臨の視点なのだと。
その悍しい映像に驚いて起きたのか、自分の悲鳴で起きたのかわからなかったけれど、目を覚ましたら自分の部屋だった。ショッキングな光景のせいか、飲み続けている薬の影響かはわからなかったが、急激な吐き気にトイレに駆け込んだ。
夢だったのだと思えなかった。
臨の部屋に向かっても、そこには誰もいなかった。時間は九時くらいで、だけど部屋には携帯もスマホもない。こんな時間に普段出歩いたりしないのに。
そうしている間にもあの映像は何度も頭の中で繰り返されて、私の恐怖心を煽った。臨が死んでいく映像は、今までみたどんなものよりもーあの六月の事件を間の辺りにした私でさえ、母親の血の臭いが立ち込めたあの生々しい空間よりも、足元に流れてくるほどの母親の真っ赤な血よりもずっと恐ろしかった。
臨がどこにいるのか考えて、教えてもらっていたスマホの位置共有のアプリを思いついた。見たら、臨のアイコンは私のバイト先の街で光っていた。
そこからは無我夢中で。
臨の部屋中をひっくり返して、隠し持っていたスタンガンを見つけて、スマホでタクシーを呼んで、見つからないように玄関から出た。途中タクシーの中で知らない番号から電話がかかってきて、灰だったけれど、ちゃんと状況を説明できた気はしない。いいから待てと言われて、待てるわけもないので電話を切ったのだけは覚えている。
私は知っていたから。
臨を刺すのが、あの場にいた連中が、ずっと氏神様が追っていた奴らであることも、織衛組にその情報提供を依頼されていたことも。
氏神様の知っていることを私が知っていた。私も知っていた。
織衛組とその相談を、あの神楽殿でしている氏神様の視点を、まるで私の記憶のように知っていた。氏神様と私が意識を共有していた。
もしかしたらあれは氏神様が、若い男が好きで、とりわけ臨のことがお気に入りだと聞く氏神様が見せてくれたサービスのようなものなのかもしれないけれど、こんな風に意識を共有したのは初めてだった。会ったこともない氏神様のことを、ひょっとしたらいつか皆からドッキリだったと言われるかもしれないと思っていたほどには、どこか半信半疑だった氏神様の存在を、確実に認識した瞬間だった。
まあそれよりも起きている事の重大さに、そんな事その時はあまり考えていなかったけれど。
だから着いた先で、臨が生きていた時は心底安心した。生きていてくれて、だからあの話は、それでよかったはずなのに。
氏神様の器として毎晩短刀を突きつけられていることも、まあとんでもない事ではあるけれど。
でもその氏神様のおかげで、こうして生きているんだから。
次の日起きて、いの一番にいつもの居間に行って。臨が普通にそこにいてどれだけ安心したのかを臨はわかっていない。…だから、気が抜けていたのかもしれない。臨の言葉に対応出来ないほどに、泣いて逆ギレするほどに、気が緩んでいたのかもしれない。
「それで、」
長話になってしまったその一方的な語りを静かに聞いていた尊は、話を終えても未だに終わらない、尊の長い髪にトリートメントを丹念に練り込んでいる私に向かって、言った。
「七は助けてほしいですか?」
「助けてって…?」
「氏神様の器として、毎晩怖い目にあっていて。助けてほしいですか?」
答えられない私に、尊は続ける。
「七が助けてほしいのであれば、私は東京行きなんか今すぐやめます。七の傍にいて、夜寝る時も離れません。怖い思いなんか絶対させないと約束します。」
「いや、それは…。」
願ってもない未来ではあるけれど。出来れば添い寝については今日からお願いしたい。
「上京なんて七のためなら二の次どころかどうでもいいです。それともこの家が嫌なら、七を連れて一緒に東京に逃げることもできます。」
振り返ることもなく、私に髪を預けたままそう言ってのける尊の声に迷いはない。尊ならそれくらいのスキル本当にありそうだし、それよりもそうやって断言してくれるところが格好良すぎる。惚れ直してしまう。
「約束したじゃないですか。ピンチの時は呼ぶって。」
その約束は、後夜祭に私から言った約束だ。
「助けてほしい時は、言ってくれるんですよね?」
こんな風に、その約束を使われるとは思わなかった。確かに私は言った。ピンチの時は、助けてほしい時は呼ぶと。同じように、尊もその時は呼んでと。約束したからには、助けてほしい時は必ず自分の口でそう言わないといけないのだ。
言わないと、わからないのだから。
そんなの当然だ。
「尊…。あのね、」
「はい。」
「私は、大丈夫。…嘘とか無理してるとかじゃなくて、本当に平気なの。」
「はい。」
尊は静かに聞いてくれていた。
「前の家に戻りたくないからとか、そういうことでもなくて。我慢しているわけじゃなくて。私はこの家で、尊と臨と一緒にいるためにできることが、巫女としての役割りなら。頑張ってもいいかなって思う。不幸でもいいかなって思う。」
多分、それは不幸ですらない。境遇が不幸でも、周りから見たらどんなに不遇だとしても、犠牲を払ってでも一緒に居たい人がいるということは、それを不幸とは呼ばないのかもしれない。
もしかしたらそれは、父親の暴力に、不幸に耐え続けた母親も同じだったのかもしれない。
「わかりました。」
尊はそれ以上は何も言わなかった。念押しの確認もせず、私の言葉に頷いた。尊が私を信頼してくれているからに他ならない。尊が助けてほしい時に必ず私に助けを求めると決めているから、私も絶対に同じだと、疑わないと、あの約束を私よりも信じているからに他ならなかった。
ただ。
「臨にも、ちゃんとそう教えてあげてください。」
と言った。私の家族としてではなく、臨のお姉ちゃんとして。
「七のこと、心配してるんですよ。」
「うん…。」
結局洗い場で冷えた身体を湯船でもう一度温め直して、お湯の中で東京の話を聞いていたりしていたら、お風呂には二時間近く入っていた。長丁場の入浴に二人とも上がる頃にはプールの後のような眠気に襲われ(特に尊は東京帰りなので疲れているに決まっている)、その後満場一致でお昼寝タイムになった。できれば添い寝も所望したかったが、久しぶりの自分のベッドで寝たいだろうし、そこは流石に空気を読んだ。
起きた頃にはすっかり日が暮れていて、お風呂に入って昼寝しただけというなんとも優雅な一日になってしまった。ここ一週間眠り通しだったし、明日からの学校が不安で仕方ない。
そろそろ夕食時だし、尊も起きているかもしれないと思ってとりあえず食堂へ行くと。
そこには尊ではなく臨がいた。
「おかえり。」
「ただいま。」
「遅くなるのかと思ってた。」
てっきり夕飯くらいは外で食べてくるのかと思っていたから、当然みたいな顔で座っていたことにちょっとびっくりしていたのだが、
「まあ、あんまり遅くまで女の子連れ回すのも悪いし。」
とのことだった。それはまあ紳士的なことで。
何してたのって聞こうと思ったが、なんかこの質問自体が野暮っぽいな。どこ行ってきたの、もなんか、変な気がするし…。
「楽しかった?」
「うん。」
「そっか。」
それなら何よりだけれど。
それよりも。
尊にもああ言われたし、いつまでも逃げているのも気まずくて嫌だし、さっさと大丈夫ってちゃんと言ってしまおうということの方に意識が向いていた。こういうのは変に躊躇って言うと余計に話が拗れそうだから、さらっと。そう、勢いで。
「ねえ、」
「そうだ、今日行ったお店でさ。」
臨の声にかき消された。
結構気合を入れて話しかけたのに…。
「何か言った?」
「ううん…、後ででいいや。それより、お店が何?」
「これなんだけど、」
臨がスマホを取り出した。滑らかな動きでホーム画面から写真のフォルダを開いて見せてきた写真には、ちかちゃんが写っていた。多分私のバイト先の街だと思う場所で、賑わう人の中、臨の腕だろうか、片腕だけ写っている腕を引いて楽しそうに笑っている。
「七もこういうの好きでしょ?」
「……。え、何が?」
「だから、これ。」
臨が写真を二本の指を広げるように動かすと、写真が拡大されたーなんだ今の技は⁉︎今度やってみよう。
「これ。」
と拡大された写真を指差した先には、ちかちゃんが持っているカラフルな綿飴が写っていた。めちゃくちゃ目立つのに全然気付かなかった。
「こういうの好きだったでしょ?」
「…うん。」
確かにこういう着色料の入った海外のお菓子みたいなのは好きだけれど。
「今度一緒に食べに行こう。」
「…うん。」
そりゃあ尊と三人で行ったら楽しいだろうけれど。
「それで?さっき言いかけてたのは何?」
なんか、言いづらくなっちゃった…。
臨は外に出てリフレッシュしてきたのか、それともちかちゃんとのデートが楽しかったのか、そういえば全然朝の感じを引きずっている感じがない。なんか凄く普通で、今更その話を蒸し返しづらくなってしまったというか、いっそ忘れてくれるならそっちの方がいい、はずだ。
他の子のことでも考えていた方が、やっぱりいいに決まっている。
「…忘れちゃった。」
「はあ?今さっき言ってたじゃん。」
「…忘れたんだから、しょうがないじゃん。」
やっぱり、期待なんかしない方がいいに決まっている。




