第五話
翌朝、昨日の一件後そのまま深く眠りについた春も起きてきて、三人で朝食を囲んだ。
しばらくは、いやもしかしたら、もうこんな風に家族で食卓を囲えるのもそうそうできなくなるのかもしれない。神楽所に行くという意味の度合いもまだあまりわからないのだから。昨日のことを引きずっているのか、朝から表情の浮かない春に、それでも説明しなければならなかった。
「春。お姉ちゃん、今日から神楽所のお家に泊まりにいくから。」
聞きたくない話だろうか、春は一瞬びくりと反応してから、黙ってしまった。
「…。」
「神楽所が遠縁なのは春も知ってるよね?」
「…うん。」
けれど素直でいい子の春は、聞かれた事に無視ができない。本当に私と血が繋がっているとは思えないいい子だ。
「その神楽所のお祭り、春も毎年見てるでしょ。」
「夏祭りのこと?」
「そう。その演舞、今年は私がやることになったの。」
どんどん表情の暗くなっていた春が、それを聞いてぱっと顔を上げた。
「えっ!お姉ちゃんあれ踊るの!?すごい!」
春のリアクションが思ったよりも良く、驚きと久しぶりに見た嬉しそうな顔に安堵する。
「そうでしょう?」
と、わざと大袈裟にかつ自慢気に言ってから、
「だからいっぱい練習しないといけなくてさ、泊まりがけで行ってくるから。」
「じゃあ、お祭りまで会えないの…?」
さっきまでの元気が急に萎れたひまわりみたいに下を向いてしまった。お姉ちゃんに会えなくて寂しいだなんて、本当に可愛い妹だ。私はその頭に手を乗せる。
「そんなわけないじゃん。毎日電話もするし、練習の合間に会えるよ。だから春もちゃんとお婆ちゃんの手伝いしときなよ?」
「…。」
しばらくの沈黙の後、
「…うん。」
頷いてくれた。
「うん。そんでお祭り、お婆ちゃんと見に来てね。」
春は少し迷うように視線を彷徨わせたが、それでも、少し笑って頷いた。
今はまだ、人ごみに春を連れ出すのは無理が過ぎるとはわかっているけれど、目標でいい。なんて言ったって、この私が神楽所神社で奉納演舞を踊るのだ。そんな大それた事が出来るのであれば、きっとなんだって出来る。
「じゃあ行ってくるね」
いつもより気合を入れて玄関で靴紐を結ぶ。
「荷物は今日、神楽所の家の人が取りに来るんだよね?」
その後ろから祖母に声をかけられる。
「うん、そこのキャリーケース渡しておいて。」
「お姉ちゃん」
祖母の後ろから隠れる様に春が出てきた。
「うん?」
「いい子で待ってるから。…いい子で待ってたら、お母さんとお父さんとお婆ちゃんと、みんなで、お姉ちゃんの演舞見に行けるかな?」
春は、自信なさげにポツポツと言った。
多分春自身わかっているのだろう。自分の言っていることの意味が、それが叶わないことが。無理だとわかっていて、それでも問う。
「……。」
その願いが、絶対に叶う事がない事を知っていて、頷いてあげられなかった。
沈黙を遮ったのは、祖母だった。
「そうだね、みんなで見に行けるように、婆と待ってようね。」
「…うん!」
その言葉に春は安心したように、心底嬉しそうに笑顔を見せた。例え父親が母親を刺しても、それでもこの可愛い妹は、家族が大事で大好きで…。
いいなぁ、と。
思わず声が漏れてしまいそうだった。
春が安堵したその言葉を、春を、お婆ちゃんを、今から私は裏切らなければならない。家族が大好きな妹から、嫌われる覚悟を持って玄関を開けた。
「行ってくる。」
終業チャイムがなり学校が終わると、部活やら遊びやら、みんな一様に楽しそうに廊下をかけていく。
「はあ…」
腫れ物状態の気の休まらない学校での一日が終わっても、まだ心を休めることはできない。自分は今から神楽所の家に行かなければならないのだから。いざ神楽所に行かなければと思うと、朝決めた覚悟も忘れ、流石に気が重くなるというものだ。
学校が終わり次第、神楽所本家に行って早速演舞の練習ということになっている。荷物も日中のうちに神楽所の家に運んでくれているはずであり、今日からは寝泊まりもあの家でしなければならない。
「…行くか。」
いつまでも悪あがきはできないと鞄を持って、教室を後にする。学校の敷地を出た所で、昨日の黒塗りの高級車が同じところに止まっていた。それをこちらが見つけるのと同時に運転席が空いて、昨日の運転手が出てきた。
「七様、お待ちしておりました。」
「え、私ですか?」
てっきり、あの二人を待っているのかと思っていた。
「はい。臨様もお乗りになっています」
思わず嫌な顔をしてしまった。アイツと一緒かよ。
それに初老の男性は朗らかに笑う。
「心配せずとも、臨様も今来たばかりです。尊様は本日生徒会のお仕事とのことですから、臨様が先に本家へご案内されると伺っております。」
「そうなんですか。」
「さあ、お乗りくださいませ」
後部座席の扉を開けられ、貴族みたいな扱いに戸惑い、頭を下げてから車に乗り込む。
「遅い」
「…。」
乗って早々、神楽所臨は刺々しい声を向けてくる。いやめっちゃ怒ってんじゃん、今来たところじゃなかったのか。
「祭りまで一ヶ月しかないんだ、無駄にする時間は一秒もないと思いなよ。」
「…悪かったね。」
それは正論だが、何故かずっと喧嘩腰のこいつには納得がいかない。そもそも、神楽所臨というのはクラスでこんな感じのキャラではないのだから。
クラスで見る限りは人当たりが良くて、要領良く周囲と上手くやっているというのが、同じクラスなのにその内輪にいない私からの客観的な印象だった。実際、神楽所の家系で尊の親戚で、顔も成績も良く品行方正、だけどそれを鼻にかけない良いやつみたいなポジションをクラスの中で確立している。なのに、
「言っとくけれど、校内で俺に話しかけるのやめてくれよ。身内だと思われたくない。」
何故か私にはこの辺りの強さ。演舞を踊ってほしいと説得してきたのはそっち(と言っても正確には神楽所尊だけど)なのに、ここまで言われる謂れもない。
「これ以上学校で目立ちたくないのは、こっちの台詞なんだけど。絶対に話しかけないから安心して。」
「ああ、そうしてくれ。」
腕を組んで、それ以上話しかけるなとばかりに窓の外に視線を向けられた。その姿に内心で悪態をつきつつも、何故かむしろこの神楽所臨がしっくり来ている自分がいた。クラスで見ていた、あの愛想の良い笑顔を振りまく姿にどこか胡散臭さを感じていたのかもしれない。
「七様は臨様と同じクラスなんですね。」
いつのまにか乗り込んでいた運転手の人が、沈黙で今にも押しつぶされそうな車内に会話を与えてくれた。
「あの…。その『様』を付けるの、私は遠慮したいんですけど…。」
「いえいえ、私は神楽所家に仕える身ですので。神楽所家の御人には敬意を持ってそうお呼びさせていただいております。」
ミラー越しにまた恭しく一礼される。こういうのって悪い気はしないものだと思っていたが、自分とかけ離れた年上にこうも気を使われると、とてもやり辛い。自分の身分を思えば尚更だ。
「あんたも神楽所の人間になるんだから、そういうのにも慣れてくれ。」
てっきりもう無視を決め込むと思っていた隣の男にそう言われる。多分拒否したところで意味がないのだろうと諦めた。
「はあ、じゃあそれで…。」
「あ、申し遅れました。私神楽所家専属の運転手で松戸と申します。どうぞご有事の際はいつでもお申し付けください」
「あ、はい。よろしくお願いします。」
ミラー越しににこりとこちらに笑みを浮かべ、思わずこちらも愛想笑いを浮かべてしまう。
それから車は神楽所家に向かい始める。やっぱりものの5分くらい。歩けばいいのに、と思ってしまうのは貧乏性のせいなのだろうか。
松戸さんにドアを開けてもらい車を降りると、今日は神楽所神社の奥にある神楽所本家の玄関前だった。
「さあ、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
昨日は神楽所神社の駐車場で神楽所臨と降ろされ、神楽所神社の神楽殿まで境内を歩いた。まさか車で境内を走るわけないから当たり前だけど。
「ここが神楽所の家…。」
平家作りで神楽所神社と同じくらい大きいんじゃないかと思わせる広い家は、見るからに豪邸だった。うちなんか、比べ物にならない。
後ろから、松戸さんがドアを開けるのを待ってから車を降りてきた神楽所臨が、玄関と私の間に立ち塞がるようにこちらに向いた。
「ここをくぐれば、今日からあんたも神楽所本家の人間だ。途中でやっぱり辞めますなんてのは絶対に許されない。はっきり言えば、俺はあんたみたいな奴が演舞を踊るのは反対だよ。尊はああ言うけど、いくら血筋が一緒でも、育ちが違う。」
冷淡な目だ。明らかにこちらに敵意を示し、明確な意思を持って私をここから遠ざけようとしている。ここ数日で感じている周囲からの蔑む視線の中でも、一際強いものだった。まあ昨日の事を思えばその反応も、理解できないわけではない。
それに、どんな視線も、悪意もさほど怖いものではない。大の大人の、男の怒鳴り声や殴られる痛みの恐怖に比べれば。一生この恐怖が、家族が、私を縛りつけるのではないかという恐ろしさに比べれば、全部。
大した恐怖ではない。
「そうだね。」
「は?」
私が逆上して帰ることを狙っていたであろう神楽所臨は、肩を竦めて笑って見せた私に、眉を顰める。
「育ちが違う?そうだね。あんたらみたいに、たった5分の距離を車でお見送りして貰うような人とは、それはそれは育ちが違うでしょうよ。」
一歩、玄関を塞ぐ神楽所臨への間を詰める。
「あんたらとはしてきた苦労が違うんだから。」
神楽所臨を押し除け、勝手に玄関に手をかける。
自分に言い聞かせる様に、他に道など、退路などないと噛み締める様に言った。
「演舞は必ず踊って見せる。絶対に。」
そして玄関のドアを引き、
ガン、
と突っ掛かった。
鍵がかかっていた。当然だった。
「……。」
やっぱり帰ろうかと踵を返そうとしたら、横にいた男は一度ため息をついてから「後で後悔しても知らないよ。」と鍵を開けてくれた。
なんかもう色々台無しだった。