第四話
「お姉ちゃん、遅かったね。」
「えっ、…ああ。」
いつの間に家まで辿り着いていたのか、祖母の家の庭で花を弄っていた妹が走り寄ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
縋り付くように抱きついてくる。まるで捨てられた子犬だ。妹の春は小学二年生で、私と全く正反対の素直で社交的な明るい子だった。
今や、たった数日でその姿は見る影もない。
「…お婆ちゃんは?」
「さっきね、電話が来て出てる」
「そっか。春はなにしてたの」
「さっきまでお婆ちゃんと藤の花を見てたの」
「そっか…。」
「お母さんに持っていってあげたいなって」
「……、」
黙るな。ちゃんと返事をしろ。
「…そう、だね」
絞り出すような声になってしまったが、春はぼーっと藤の花を見ていて気に留めていないようだった。
園芸が趣味の祖母の家の庭の中で、今の時期一際目に着くのが藤の花だ。紫色の小さな花がまるで降っているように咲くその花見て、春はなにを思っていたんだろうか。
小さい頃から私たちは良くここに来ている。
自宅から車で15分程度の近い距離であるのもそうだが、それよりも家で暴れる父親から避難して来ていたという理由の方が大きい。それをわからないような小さい頃から何度もここで遊んできて、この時期には必ず咲いていた藤の花を母と妹と見てきた。
「今度、面会が出来るようになったら見せてあげにいこう」
「うん」
頭を撫でると悲しげに笑う妹の顔を私はどんな顔で見返せればよかったんだろうか。
春は家族思いで、両親が喧嘩している時はいつも泣きながら止めに入って、結果傷ついて、それでも家族が好きで笑顔の絶えない子だった。少なくとも、こんな大人びた表情をする子ではなかった。
「……、」
そんな妹にかける言葉を選んでいると、
「七!」
家の中から祖母の声が聞こえて来た。
「お婆ちゃん、ただいま。」
「七ちゃん!あんた、あの家に呼ばれたのかい。」
裸足のまま庭に出てきたお婆ちゃんは、いつもの優しそうな顔を、怒っているような泣きそうでもあるような顔で私に駆け寄って来る。
「どうして知って…、」
「今本家から電話がきて…、七ちゃん本当に演舞やるつもりかい⁉︎」
「はは…、なんかそういうことになっちゃった。」
精一杯笑って見せたが、精々苦笑いになっていただろう。
「あんたが…、あんたがそんな無理することないんだよ!」
震える声で私の肩を抱くお婆ちゃんに、私はここに来るまで考えていた説得の言葉を喉の奥で詰まらせる。
「あんた達が大人になるまでのお金くらい、婆がどうにでもしてやるから!神楽所のお家に養子に入れば七ちゃんも春ちゃんも他所のお家の子になっちゃうんだよ?」
「だ、大丈夫だって。やだな、大袈裟だよ。神楽所は、…元々血縁なんだから、他人じゃないんだし。」
「そういう問題じゃ…」
「ねえ、神楽所ってなんのこと?」
食い下がるお婆ちゃんに被せるように春が呟いた。
しまった。春にはまだ黙っていようと思ったのに。
「なんで?お姉ちゃんも春もどこか行かないといけないの?なんで?ここの家の子じゃいれないの?」
「春ちゃん…。」
春は大きな目いっぱいに涙を溜めて、喉を震わせながら、
「お、お母さんが刺されちゃったから?春が、春がもっと早く帰らなかったから…。」
「っ違う!春のせいじゃない!」
「でも、でもお父さんが、お父さんが…っあぁあ、ぅあああ、あああぁ」
スカートの裾を掴んで小さな子供のように泣きじゃくる春を、慌ててお婆ちゃんが抱きしめた。
「春のせいじゃないよ、春ちゃんが悪いんじゃないから、ね?春ちゃんはいい子だから大丈夫、どこにも行かなくていいんだよ。」
「ぅうう、ぅあああ、あああ」
「春、おうちの中に入ろう。」
その場に蹲る春を祖母が抱えて家の中につれていく。
小さい妹とお婆ちゃんの背中を見送りながら、私はあの約束の、覚悟を決めなければならなかった。
「春、落ち着いた。」
台所で鍋をかき回していたお婆ちゃんに声をかけ、私はその横のテーブルに腰掛ける。
「ごめんね、婆が春ちゃんの前で話ちゃったから。」
と、お婆ちゃんが情けない声を出した。
「お婆ちゃんのせいじゃないよ。ごめん、私が勝手に決めてきたから。そりゃあびっくりするよね」
「…本当に、神楽所に行くのかい。」
「うん。神楽所にいれば、近所の人たちも事件の話は二度と出来なくなるよ。お婆ちゃんだって後ろ指を指されなくなるし、春も学校に行きやすくなる。」
「だけど、神楽所に行けばもう葛の子じゃなくなっちゃうんだよ。もうお父さんの子でもお母さんの子でもなくなっちゃうんだよ。」
「…苗字なんか、結婚とかすれば元々簡単に変わっちゃうものじゃん。私も同じだよ。神楽所になったってなんにも変わらないよ。」
それを聞いて、お婆ちゃんは鍋をかき混ぜていた手を止める。
「ごめんね。もっと早く婆が気づいてあげていれば…、」
お婆ちゃんには母が頑なに黙っていたから、うちの事情については知らなかった。いや、これだけ頻回に家を訪ねる私達にある程度は気付いていたとは思うけれど、母がそれ以上の干渉を拒んだので母が助けを求めるのを待っていた様に思う。
事件があってから、もっと何か自分がしてあげればとずっとお婆ちゃんはそう言って自分自分を責めている。
「もう、その話はやめようって約束したじゃん。私も演舞を踊って援助が貰えるならこんな美味い話はないんだからさ。お婆ちゃんも、そんなに気に病まないで」
「七はそれでいいんだね?」
「うん。」
祖母の目を、神楽所尊のように私は真っ直ぐ見返せていただろうか。
どちらかと言うと、そういえばお婆ちゃんの目に、神楽所尊の面影を感じる。
やはり、血筋なのだろうか。
「…実はね、神楽所には二度養子を断っているんだよ。」
「え…?」
初めて聞く話に、耳を疑った。
お婆ちゃんは鍋の火を消して、私の向かいの椅子に座る。
「婆はね、生まれてすぐ神楽所と縁もゆかりもない家に里子に出されたんだよ。」
「え、な、なんで?」
「今となっては色々思う所もあるけれどね、その時は理由も知らず。その里親が亡くなった頃に、初めて神楽所の家の人がやってきて戻って来いって言われたのさ。挙句によく知らない神楽所の分家と結婚しろなんて見合い話まで持ってきたもんで、もちろん断った」
お婆ちゃんは一息ついてから、
「そして香里を生んで数年経った頃に、もう一度だけ訪ねてきたのさ。香里を養子にほしいって。」
私と同じ選択肢を、お婆ちゃんはずっと提示させられていたのか。それは神楽所尊が言っていた奉納演舞を踊る女系とやらと関係があるのだろうか…?
「だけど、私の娘だからね。渡さなかったよ。」
けれど、私がそれを選んでしまった。
「でもこうなっちまった今、あの時神楽所に出しておけばこんなことにはならなかったかもねえ…。代わりに七を、取られちまうなんて…。」
お婆ちゃんはそう涙ぐんだ。お婆ちゃんが泣く所なんか、初めて見た。正直言えばそんな顔にしたくなかったけれど、でもこれも私が選んだ責任だ。
「…。」
「…だからね、今回のことも婆がいけなかったんだよ。婆がもっと早く気づいていればなんとかなったかもしれないんだから。だから七も春もお父さんを恨むことないんだよ。家族を恨むなんてしちゃだめだよ」
「…お婆ちゃんは、なんにも悪くないよ。」
「七は強い子だけどね、今は泣いてもいいんだよ。全部婆のせいにして任せたらいい。神楽所に行くのが春ちゃんや婆のためだっていうなら、行かせたくないんだよ。」
「…やだな、私そんないい奴じゃないって。神楽所で演舞踊るだけで広い部屋もらって生活していくお金まで出してもらえるんだよ?最高じゃん。」
私が嘘をつくのが得意で良かった。こんなお婆ちゃんに、平気で嘘を付けるような私でよかったと、初めて思った。
「全然平気だよ。」
今後は、上手く笑えていたと思う。
お婆ちゃんは眉を下げたまま、それでも渋々と言った様子で頷いた。
これで、もう私を止める人はいなくなった。止めてくれる人はもういないのだ。ーなんて、自分で選んでおいて被害者面が過ぎるというものだ。
「…さ、お腹空いたからご飯食べよ。あーあ、お婆ちゃんのご飯もしばらく食べれないのかぁ。」
「いつでもおいで。この家だって七の家なんだから。」
そう言って立ち上がり、再び台所に立つお婆ちゃんの後ろ姿に聞こえないように、呟いた。
「…私の家はここだけだよ」