第五話
尊と喧嘩した次の日、こんな状況でも夜中は氏神様に貸しているであろう私の身体は怠く、朝起きるのも億劫で目が覚めても布団から出れなかった。
『次期頭首は、私ではなく七に変わったということくらい』
本当に。本当にそうなのだろうか。確かに毎晩私は氏神様に身体を貸している氏神様の器ではあるが、私は結局神楽所本家の養子にすぎない。尊がこの家を継ぐことに変わりはないと思っていたし、それどころか私は今の生活を守ることしか頭になくて。そもそも私がこの家を相続する権利を得たとか、そんなこと考えたこともなかった。
「…。」
私はそんなのいらない。安全で、普通で、普遍的で、不自由がない生活を望んでいただけで、今のままで十二分だ。これ以上は高望みどころか、有り難迷惑ですらある。
春とお婆ちゃんが幸せに暮らしてくれていて、尊と臨とここで生活できていたら、私はそれだけで何もいらないのに。
でも、尊は違う。
尊は氏神様の器になれなくて、家族との溝があって、それを埋めるために今まで必死で色んなことを頑張ってきた。夏祭りで私はそれを直接この目で見たからわかる。夏祭りで見た記憶は多分もっといっぱいあって、でも時間が経つと同時に忘れてしまう夢みたいな記憶で。けれど、尊のことは全部覚えている。勉強や習い事から家業の手伝いまでこなし、そして器のフリをさせられていたがために不自由な生活をさせられて、それでもずっと状況は変わらなくて。
だから、私は尊の隣に居たいと思った。一人ぼっちの尊の隣にいたいと。
でもそれは間違いで。
私の変えたくない生活が、尊の変えたい生活だったのだと。それが一番きつい。
よく考えれば尊が隣にいて欲しいのは私なんかじゃなくて、尊の本当に家族で。そんなのちょっと考えればわかるのに、それを奪っておいて、浅はかで馬鹿な私が、一番きつい。
布団から起き上がる気がでないまま、時計の針は一時間近く進んでいた。そもそも起きるのが遅かったので、もう昼もとっくに過ぎている。いつもは12時過ぎには流石に起きるから、朝ご飯も昼ご飯もパスしていたら誰か様子を見に来ちゃうかもな、と思っているとちょうど扉がノックされて、
「七?」
臨の声が聞こえてきた。でも返す気になれなくて寝たふりをしてやり過ごそうとしたら、
「大丈夫?」
「…。」
心配されているのが心苦しくなって、起き上がった。扉を開けて、
「…何?」
「いるなら返事しなよ。」
「ごめん。」
「もう一時だよ。」
「ちょっと疲れてるから、今日は寝てる…。」
それを聞いて、臨が表情を曇らせた。
「やっぱり氏神様に身体貸しているの無理があるんじゃ…、」
しまった。臨は氏神様を知っているどころか、この間それで気を使わせたばっかりだから話がややこしくなってしまう。臨が続きを言う前に、
「大丈夫、学校行くの疲れただけだから。」
「…そう。今日はご飯部屋に持ってきてもらうようにしようか?」
そういうことも出来るのか。尊に合わなくてほっとしている自分がいた。尊に合わせる顔がない。どんな顔で会っても、私が顔を合わすこと自体が全部間違っている気がする。
「…尊は?」
「今日は生徒会の仕事だからって朝一に学校行ったよ。夕方まで帰らないって。」
「そっか…。」
もしかしたら、尊も私と顔を合わせたくなくて外出しているのかもしれない。これから、尊と顔を合わさずにずっと生活していくのだろうか。…泣きそうになってきた。
「…もう寝る。」
「あ、ああ…。家政婦さんにご飯運んでもらうように言っとくから。」
「ありがと。」
臨に顔を見られる前に扉を閉めて、布団をかぶった。
そうやって結局一日、私は部屋から出なかった。
月曜日。一日横になっていたって事態が解決するはずもなく。多分何をしても解決できるような問題でもない。学校に行く気にはなれなかったが、それでもここでずる休みするのは尊に対して不誠実な気がした。煩いアラームを三回止めて、それから朝食を取りに向かうと、
「大丈夫?」
出会い頭に臨に言われた。不要な心配をさせてちょっと申し訳ない。「もう大丈夫。」とだけ返して、椅子に座る。臨は朝食を食べ終わっていて、尊は当然のようにそこにはもういなかった。
「尊は?」
「生徒会の仕事で先に行ったよ。」
「…そう。」
なるべく普通に聞いたつもりだったが、
「尊と喧嘩でもしたの?」
勘付かれてしまったのだろうか。それとも…、
「…尊が言ってたの?」
「いや、そういうわけじゃないけれど…。なんとなく。」
「…。」
同じ家の中で原因不明に空気が悪ければ臨だって気になって当然か。
喧嘩をしたといえば臨はもちろん尊の味方になってくれるだろうが、それでも私から言うのは気が引ける。私がどんなに浅はかで馬鹿で、尊を追い詰めた悪役でも、私からの語りになれば同情を買うような話し方になってしまう気がする。
あと喧嘩と言っていいのかもあやしいし。喧嘩というのは仲直りができるものだと私は思っているから。そういうのとは違って、仲違いとか不和とか、絶交とか。だから、
「喧嘩じゃない。」
とだけ言って、それ以上追求されると困るから、
「臨は尊と行かないの?」
適当に話題を逸らした。一学期の時は尊と一緒に通学していたから、何気なく聞いてみただけだった。けれど、
「お婆様に、七と一緒に行くように言われてて。」
「!」
こんなところでも、尊から奪っていたなんて。味方を作るとか、そんな話じゃないじゃないか。何もしなくても尊は氏神様の器でないというだけで全て奪われて、私が氏神様の器であるだけで、それだけで何もしなくとも、もうとっくに全部奪い取っていた。家族も、立場も。
「…。」
返事が見つからない私に、
「いや、別に嫌とかって言ってるんじゃないから。そんな顔しなくても…。」
臨が困った顔をしていたが、私はもうその優しさすら息苦しかった。これだって尊から奪ったもので、本当は私のものじゃない。
私の身体が氏神様の器というだけで、持て囃されることも、祀り上げられていることも。お婆様の配慮も、誠さんの態度も、親族の愛想笑いも、臨の優しさすら、もう気持ち悪かった。氏神様の器を辞められるのなら、今すぐ辞めたいとすら…。
一日やる気が起きるわけもなく、日中授業を受けながら、夜起きていることを差し引いても身体は怠く。
その日は殆ど机に突っ伏して終わった。一時間分授業を潰して文化祭の準備もしていたけれど、週末を空けてもいい案は出ず、とりあえず前回言っていた案は全て上級生にとられているということだけは聞こえていた。臨はあまり面倒じゃない展示系にしたいようだったが(直接的には言わなかったけれどそういうニュアンスだった)、高校初めての文化祭でテンションが上がっているみんなは出店系がいいみたいで、けれどその内容も決まらず。結局また収拾がつかないようだった。
放課後、臨はクラスメイト何人かと残ってクラス展の内容をもう少し練るみたいだったので、臨に声を掛けられるより先に私は教室を出た。早く帰りたかった。
家で待ってて、尊に会ってやっぱり謝りたい…。だけど何を謝っていいのかも、どう詫びていいのかもわからない。私の存在そのものが尊の今までを否定してしまっているみたいで、それを今更どうやって元に戻すことができるんだろうか。
「はあ…。」
昇降口を出た所で、重めのため息をついた。外ではもう部活が始まっていて、楽しそうな掛け声とかが私の気持ちをより沈める。
「お待ちなさい。」
甲高い声が上から聞こえてきて、これも部活の掛け声だろうか。変わった掛け声だな、なんて重い足取りで歩いていると、
「お待ちなさいと言っているでしょう⁉︎」
さっきと同じ声がかかってきた。
…もしかして、私が言われている?
うちの学校の敷地は段々畑にように(あそこまで急斜面じゃないけれど)山を慣らして、いくつかの段になった平地を校庭や部活用のコートにしている。上を見上げると、校舎より一段高いところに地面を均して作られたテニスコートから、そのフェンスの向こう側から一人の女がこちらを見ていた。
「あなたが新しい神楽所本家の娘ですのね。」
女は丈の短いテニススコートを着ていて、テニスラケットを持っていた。見るからにテニス部だった。これでテニス部じゃなかったら驚くほどのテニス部だった。
「誰、アンタ。」
部活は入ったことがないから詳しくは知らないが、こういうユニフォームって試合の時に着るのであって、練習の時は着ないんじゃないのかな。それともテニス部はこの平日の放課後に試合をしているのだろうか?
その違和感を吹っ飛ばす程に目立った縦ロールにぐるぐると巻かれた長い髪は、太陽に反射して元の明るい髪色が更に明るく見える。テニスに詳しいわけじゃないけれど、いかにもテニス部な見た目だった。
「随分ガラの悪い女ですわね。」
それと話し方も特徴的で、やっぱりどう考えてもテニス部だった。多分学校でのあだ名は夫人だと思う。
女はテニスコートを囲むフェンスを飛び越えて、私のところまでテニスコートと校舎までの段を軽々と飛び降りてきた。凄い身軽さと身のこなしだ。
目の前に着地して、女は私の前に立つと。
「黒い噂の絶えない本家にお似合いの女というわけですわね。」
と言った。
「ああ?」
これは喧嘩を売られているということで間違いないだろうか。気分が落ち込んでいるので平手打ちくらいしかできない気持ちだったけれど、とりあえずリーチが届くように前に出ると、持っていたラケットをこちらに向けて制された。そして、女は言った。
「私は神楽所唯。神楽所神社新殿の娘ですわ。」




