雨の日
下唇を噛んで泣いていた……。
彼女はなぜ泣くのか? なぜ泣く必要があるのか? そんなの自問する方が間違っている。泣いている彼女に聞けばいいのだ。だけどその時、すぐに僕は彼女に尋ねることは出来なかった。そこまでの勇気を兼ね備えていなかったと言えばそれまでだが……、実は理由は別にある。
ある雨の日の放課後、僕は帰宅せずに校舎に残っていた。テスト期間ということもあってかいつもの放課後の騒がしさは無い。他のクラスでは何人かが翌日のテスト勉強のために残っているようだったがこのクラスでは僕一人だけしか残っていないみたいだった。僕はどうやら勉強する気は無いらしく、自分の席ではない窓際に面した座席に移動して空から落ちてくる水滴をただただ眺めていた。
「退屈……」 口からは時折そんな言葉が出て来るものの、何かをしようとは思わなかった。それならばさっさと家に帰ればいいのだが、僕にはそれすらする気がなかった。もう少しここに居座っていたかった。僕はおもむろに席から立ち上がると窓から高校の正面にあたる駐車場を眺めた。所々傘を差して校舎を後にする人たちの姿があった。赤、青、ピンク、透明なビニール、中には何かのキャラクターが描かれた傘を差した人なんかもいた。僕は再び座って雨を眺め出した。
僕はこうやって意味もなく雨を眺めるのが好きだ。雨を見ていると不思議に思えてくる。なんで遥か高い空からこんな水滴が落ちて来るのか、と。雨が落ちてくる原理を知らないわけでは無い。大気の水蒸気が冷却され微小な水滴を形成し雲へと成長する。そして水滴が成長し、重力に耐え切れなくなり、地上に落ちてくることで雨となるわけだ。だけど僕はそれを知った上でも雨のことを不思議に思ってしまうわけだ。
雨を眺めるのが好きなのにはもう一つ理由がある。それは僕の名前に「雨」の文字が含まれているからだろう。
黒木流雨、それが僕の名前だ。
しばらくして、僕は教室の中を闊歩し始めた。雨が降るのを眺めるのも飽きたのだろう。教室の後ろに張られているお知らせの張り紙をぼんやりと眺めてみる。三年生の生徒に向けて書かれたものらしく、土曜日、日曜日の休日にまで登校してきてテストをさせる予定の内容が書かれていた。実力テスト、とでも言えばわかりやすいだろうか。僕は再び教室を闊歩しだした。だけどすぐに立ち止まる。ちょっと考えて、僕は教室を出ることにした。
もう嫌だ、家には帰りたくない。
私、中村瑠香は放課後にトイレの中で籠っていた。用を足すわけでは無く、ただ洋式の便座の上に座って泣いていた。何が悲しくてトイレの中で泣かなくてはならないのか。全ては私が賢くないからだ。母は言う。大学に行き、教職の免許を取り、教師になれと。私にはなりたいものが明確にあるわけじゃない。一度は母の言う通りに教師の道を目指した。だけど、駄目だった。学校の授業では誰よりも集中して先生の言うことを一言一句聞き逃さないように心掛け、家では何時間も机に噛り付き勉学に励んでいた。高校三年生になってからは週に三度塾に通うようにもなった。それでも一向に成績は上がらない。
私は焦った。睡眠時間を削ってまで勉強する時間を増やした。それに伴い、肌荒れが酷くなっていく。それでも一向に成績は上がらなかった。
前回のテストは散々だった。その成績を見て母は、「お姉ちゃんはあんなに賢いのに」と吐き捨てるように言った。姉は絵に描いたように優秀な人だ。人間も出来ていてこんな私に優しくさえしてくれる。私は意地でもその優しさに甘えようとはしないが。
私は要領が悪い。あれもこれもと手を出せるような人間じゃないのだ。母はそこを理解していない。だから本来なら塾に行けば逆に効率が悪くなることを私はわかっていた。塾に学校、それぞれの課題をこなすだけで私の一日は終わってしまう。だけど、それを母に正直に言ったら理解してくれただろうか? 答えはNOだ。
「お姉ちゃんはちゃんと乗り越えたじゃない。あなたは甘えているだけよ」 そう言うに違いない。私は姉のように要領が良くない……。
今日のテストも最悪だった。結果を見なくてもわかる。だって勉強してないのだから。塾と学校からの課題のせいで何も出来なかった。授業を聞いているだけで理解できる姉のようになれたらなあ……、つくづくそう思う。今日は答案用紙に向き合った途端に頭が真っ白になった。
焦るな、焦るな、焦るな。考えろ、考えろ、考えろ。シャープペンシルの持つ左手が小刻みに震えた。「焦るな」と頭の中で反芻するたびに逆に自分が何をしているのかがわからなくなっていった。
気がつけば、テストは終わっていて必死で埋めていた答案用紙は一番後ろの生徒に回収されていった。今日のテストは二教科、もう一教科も似たような感じで終わっていった。テストのある日はテストが終わったら下校だ。私は家に帰る気がせず、そのまま三階のトイレに駆け込んだ。一番奥の個室に。
それからずっとトイレで泣いている。あれからどれくらい経ったのだろうか……。結構時間が経ったように思える。このままこうしていても仕方がないか、と私は個室から出る。ザアッと雨の降る音だけが聞こえている。今日は朝からずっと降っていた。私は頼りない足取りでトイレの洗面台前まで行った。
鏡には酷い顔の女が現れた。顔の肌は荒れていて、ニキビが目立つ。おまけに瞼の下が赤く腫れていて、さっきまで泣いていたことが丸わかりだ。
顔自体もかわい気がなく、生意気そうな顔立ちをしている。
私の顔だ。産まれてからずっと付き合って来た顔なのだから忘れるわけがない。これが私の顔だ。
「はあ……」 何気なくため息が出る。それが合図だったかのように私は一気に蛇口を捻り、水を勢いよく放出させる。少しでも腫れが引きますように、そう祈って顔を洗った。
顔に水を叩きつける様にして洗う。制服の襟が、袖が顔に弾かれた水によって濡れていくのがわかる。だけどそんなこと気にならない。何なら一層頭から水を被ってもいい。そっちの方がすっきりするような気がした。私は蛇口の水を止める。
頭から水を被るなら打って付けのものがあるじゃないか。今は雨だ。
私はトイレを出て、三階から一階に移動することにした。頭から水を被るために。とち狂った考えなのはわかっている。でも、今の私は止められない。そんなことしたって何にもならないのはわかっていた。ただ、この時の私は自棄になっていた。
ちょっと小走りで階段を降りる。手も拭かずに出てきたせいで指先からはポタポタと水滴が垂れている。顔も拭いてない。そのせいで、首を伝って制服の中にまで水滴が流れてきている。でもそんなの気にならない。今から全身びしょ濡れになるのだから。三階から二階へ、二階から一階へ、私は水滴を廊下に垂らしながら移動する。正面玄関に来たところで、私は外履きに履き替え、傘もささずに駐車場へと出た。
雨は望んでいたように私を頭から濡らしてくれる。一分もしない内に制服に水が染み込んできた。
あ~あ、何してるんだろう。これじゃあ、まるで安っぽい物語の悲観的なヒロインだ。自分がかわいそう。雨に濡れれば誰か助けに来てくれるって? 馬鹿馬鹿しい。
「馬鹿みたいだ」 思わず自分でもそう口にしていた。私は雨に濡れるのをやめて、再び校舎の中へと戻った。今度は靴の中までぐっしょり濡れている。気持ち悪いのを我慢して、内履きに履き替えた。とりあえず拭かなくては。私はポケットからハンカチを取り出す。これでは事足りないとは思うが無いよりましだろう。
全身を拭いた後、私はふと思い出す。母の好きな作家である太宰治の「人間失格」のことだ。母に無理やり勧められて、仕方なく読んだことがある。主人公の大庭葉蔵はどうしようもなく他人の考えていることが家族を含めてわからない。そんな彼が周りとコミュニケーションを取るために会得したのが道化だった。彼は得意の道化を駆使して上手く周りとのコミュニケーションを取り、クラスの人気者の座まで登りつめる。そんな話が一部にあったはずだ。つまりこういうことだ。あの有名な大庭葉蔵ならばこの雨に濡れたことを道化に利用しただろう、ということだ。私にはそれすら出来ない。
仮に私が雨に濡れたことを良いことに道化になりすまし、母に行ったとしよう。そんなの母には通用しないだろう。ただ、濡れたことを怒られ、何を言い訳しているのか、と問い詰められるだけだろう。
大庭葉蔵のモデルは太宰治とされているが、そうだとすると太宰治はよっぽど器用な人だったんだろう。そう言えば大庭葉蔵は賢い人のように描かれていた。だとすると、太宰治は賢く要領の良い人だったんだろう。私なんかとは比べ物にならないくらいに。現に今を活躍する作家たちにも大きな影響を与えている。私の好きな現代のとある女性作家も言っていた。
「私はとても太宰治が好きなんです。彼の作品を読んで、私は小説を応募しました」と。でも彼女は太宰治が成しえなかったことを成しえている。世の中分からないものだ。そんなことを考えながらも私はまだ家には帰りたくないらしい。とぼとぼ歩きながら私は図書室へと向かっていた。図書室に行くのは久しぶりだ。恐らく三年生になってから初めてだろう。そう言えば生涯において中学生から高校生の間が一番図書館を利用しない年代だというのをどこかで聞いたことがある。それは本当のことなのかも、と今の自分の状況を考えて確信する。
私は図書室のある校舎の二階に上がり、図書室前まで行く。少しでも服が乾くまでは図書室にいさせてもらおう、そう思いながら図書室の引き戸を開けて中に入った。
図書室に入ったすぐそばにカウンターがある。だけど司書の先生はいなかった。他の生徒の姿もない。司書の先生は隣の教室の図書準備室にでもいるのだろう。私はカウンターを後にし、図書室の奥へと進んだ。カウンターからは見えないと思われる場所に来ると近くにあった椅子に座った。
「ふう……」 何となく落ち着く。元より本は嫌いではない。むしろ好きな方だ(現代小説に限るかもしれないが)。入って来た時は気づかなかったが、こうやって少し落ち着くと本の匂いがする。懐かしい図書館の匂いだ。昔はよく家族で行ったものだったけど……、最近は家族でというのがない。別に今の家族で何かをしたいなんて露程も思わない。母は勉強のことばかり、姉は一緒にいると自分の存在が霞む。父はどこにいるのかわからない。もう、何年も会ってないどころか会話すらしていない。最後に話したのは私が高校に受かった時で電話を通しての会話だった。
「……瑠香、合格おめでとう。進学校なんてすごいよ……。大変なのはこれからだから、しっかりとね……」
「……うん……、そうだね。……ありがとう……」
お互い言葉少なで会話は弾まなかった。あの時すでに父は私のことなんかどうでも良かっただろうし、私も父と話なんてしたくはなかった。
話しは変わるが特に本が好きだったのは父だ。あの人が連れて行ってくれる場所には必ず本があったようにも思える。図書館、本屋、古書店、そんなところばっかりだった。本好きの二人だから出会った父と母、彼らのお気に入りは共通して、太宰治だった。母の心が父から離れた今も母は太宰治が好きなんだろう。彼らを繋ぎ合わせたものが、彼らが引き離れた後も彼らの気に入り。
なんだかそれって、虚しいように感じる。
思い出さないのだろうか? 母は太宰治を読むことで父を。父も同様に母を。
私は思い出してしまうからあまり本は読まなくなった。
……そうか、そのことが無意識に私を図書室から遠ざけさせていたとも考えられるか。
私はふと立ち上がり、小説の置いてある9番台の棚へと移動する。自分のお気に入りの女性作家、あの太宰治が好きだという女性作家の本が置いてある箇所へ。
彼女の本はだいたい読んだ。現にこの図書室に置いてある作品はすでに読んだことのあるものばかりだった。私は彼女のデビュー作の本(単行本)を手に取り、元の席に戻った。彼女が十七歳の時に書いた小説だ。太宰治に憧れて書いたという小説……。
この作品の主人公は作者と同じ十七歳の女の子、そんな彼女は私と同じく、母と上手くいってないようで、自棄になったように部屋の中の物を全て捨ててしまう、という場面が冒頭にあったはず。そこからその時捨てた中のある物から出会いがあり、物語は始まっていく。だけど私が気になったのはそこではなく、物を捨ててしまい、その子の部屋には何もなくなってしまっているのにその子の母親がそのことに気づくのは物語の最後の方だった、という点だ。
どうしてこんな物語を思いついたのか、当時十七歳だった彼女が。私なんかとは考えていることが違う。全然違う視点でこの世界を見ているんだ。拝読した後に感じた感想がそれだった。今でもそう思う。
まただ。私はこの小説の主人公である女の子にもなれはしない。私にはこの子みたいに部屋の中の物を全部すてるような度胸は無い。捨てたりしたらそれこそ勘当されてしまうだろう。道化を演じる度胸も無ければ逆らう度胸もない。
……私には何にもない……。
何でそんな飛躍した考えになるのかはわからない。でも悔しくてまた涙が出てきた。
ふん、ふん、ふふん、ふん。
三年生の二組の教室。誰もいない、僕しかいなかった教室から出た僕は上機嫌で鼻歌なんか歌ってる。体育館、美術室、柔道場、音楽室、弓道場。運動部、文化部の順番にそれぞれの場所を見てきた。いずれも誰もいなく、聞こえるのは雨の降る音だけ。やっぱり、雨の降る日は力が溢れてくるような気がする。名前の力か。
次はどこへ行こうか。今日は雨が止みそうにないからどこにも行ける。せっかくだから色々見ておこう。テスト期間だから人目を気にしなくていいからね。
そうだ、図書室。図書室にまだ行ってないじゃないか。僕は二階にある図書室に向けて闊歩し始めた。
図書室に入室すると、司書の先生の姿はカウンターにはなかった。僕はそのまま本棚の本を眺めながら図書室の奥へと進んだ。
あっ! 僕は咄嗟に本棚の後ろに姿を隠した。僕が見たもの、それは女の子なんだけど、泣いていたように見えたんだ。僕は覗く様にしてもう一度その子を見る。
やっぱり、泣いている。それも声を出さないようにするためか、下唇を強く噛んでいる。小さくえづく様な声は聞こえるが、ほとんど声には出ていない。その子の両目は赤く腫れていて、しっかりと開いているのに、絶え間なく涙が流れてきている。
尋常じゃない泣き方だ、と率直に思った。何があったんだろう? しばらく考えたけど、すぐに諦める。僕が考えたってわかるわけがない。泣いているのは僕じゃないのだから。話掛けようか? でも、どうやって? 拒否されるかもしれない。「ほっといて! あっち行って!」って言われたら、どうしよう? 今度は僕が泣く番だろうか。
まあ、僕が泣いて済むんだったらそれでいい。心配なのは彼女の下唇だ。あれじゃあ、いつ噛み切ってしまってもおかしくない。それに今日は雨の日だ。だから大丈夫だろう。心が決まった僕は本棚に隠れるのを止めて、彼女に近づいて声を掛けた。
「ねえ、何で泣いてるの?」 泣いていたら急に話しかけられた。しかも男の子にだ。それにしてもおかしい、図書室の引き戸が開けられた音なんてしなかったはずなのに…。視界が潤んでいて上手く、男の子の顔が見えない。私は慌てて目を擦った。
目元の涙を拭っている間は一分もないはずなのに、恥かしさからか長く感じる。やっと顔を上げると、初めて見る男の子が私の前にいた。
「―えっと……、初めましてだよね?」 泣いている理由を聞かれているのに私は反対に質問していた。
「そうだね」 何の戸惑いもなく彼は平然と答える。
「何年生?」
「三年生だけど……」
「うそ!」
同じ学年だ。クラスが違うとしても顔すら見覚えがない。二年と数か月の間、同じ高校で過ごして来てそんなことありえるだろうか。
「まあ、目立たない顔だから、見覚えなくても仕方ないよ。それより、何で泣いていたの? ……あ、話したくないなら別にいいんだけど……」 彼は申し訳なさそうに語尾を濁す。
「いや…、そんな、こと、ない、よ」 緊張してのことか、言葉が上手く続かない。いや、待て。私は何に対して緊張している? 話してる相手が男の子だからか? 馬鹿な、それは違う。話すのが初めての相手だからだ、と思い至る。
「今日のテストが上手くいかなかったからかな。……私、中村瑠香。はじめまして」 気づけば自己紹介をしていた。
「僕は黒木流雨。はじめまして」 くろきながう? 黒木は合っているとして、ながう、はどんな漢字を書くのだろうかと疑問に思い、気づけば聞いていた。
彼は答える。流れるに雨と書いて、ながう、と読むのだと。
「へえ~、名前に『雨』が入るのって何かいいね」 素直にそう思った。
「僕もそこは気に入っているんだ。だから僕は雨が好きなのかなぁって思って……」 そう話す流雨くんはどこか嬉しそうだった。
「雨が好きなんだ……。何となくだけどその気持ちわかるな~」
私がそう答えた時、「しまった」と思った。なぜなら流雨くんの目が見つめる先は私の濡れた制服にあったからだ。
「それって、泣いてたからじゃないよね? 自分から雨に濡れに行くほど雨が好きなんだね」 そう言う流雨くんの言葉は嫌味が込められたものではなく、同じ雨好きに会えて嬉しいといった思いが込められているように感じた。
「えっ?」 私は驚きで思わず声が出る。だって雨に濡れに行った変な子だと思われると思っていたから。
「でもね、どんなに雨が好きでも、濡れに行ったら風邪ひくよ。受験生なんだしさ、もうちょっと、体調にも気を使った方がいいよ。テストの出来が悪くて泣くくらいに一生懸命なんだから」 私の驚きなんか気にならないらしく、流雨くんはどこかの親戚のおじさんみたいに私を注意する。その様子がどこかおもしろく、私を笑いに誘う。
私が笑っている姿になぜか満足したかのように流雨くんも口元に笑みを浮かべた。
「何を読んでいるの?」 流雨くんの興味は本に移ったらしく、私が手に持っていた本を指差して聞いてくる。
私は答える。私の好きな女性作家の本だと。彼女は太宰治に憧れて小説を書いて、作家になったんだということを。
「ふーん、太宰治ね」 流雨くんは興味がないといった感じで答える。
「読んだことある? 太宰治の作品。……あ、そっか、教科書に載っているから読んだことはあるか。『走れメロス』ならあるよね?」 私は「走れメロス」が中学校の教科書に載っていて、授業で扱われていたのを思い出して、そう尋ねる。
「あるよ。なんなら『人間失格』とかも読んだことはある。その中村さんが持っている女性の作家の本はないけど」
「どう思った? 『人間失格』読んでみて」 私は積極的に彼に尋ねていた。同級生なのに今まで顔も知らない、今日初めて知り合った雨が好きだと言う不思議な流雨くんの意見が聞きたくなったのだ。
「―どうもこうも。……そうだなぁ、汚いって思った」
「えっ?」 私は本日二回目の驚きで声が出る。彼の意見には驚かされてばかりだ。
「えっ? って言われても…。汚いって思ったんだから仕方ないよ。大庭葉蔵だよね。モデルが太宰治自身だって言われている。なんなら、彼の遺書だとも言われている。だけど、僕に言わせれば言い訳だね。自分の人生の過ちに対する言い訳の文章。まあ、『人間失格』っていうタイトルなんだから、読み手の僕に汚いっていう感想を持たせたのは小説としては成功なんだろうね」 今までの雰囲気とは変わって流雨くんは忌々しそうに自分の意見を述べた。どうしたんだろう? 何か不快になることでも言ってしまったかな、と思ってしまう。
「―でも、太宰治だよ。日本を代表する文豪の一人だよ?」 私はなぜか太宰治をかばうような形で流雨くんに言う。
「……うん、そうだね。太宰治は小説家としては素直に凄いと思うよ。だけど、僕は嫌いだね。太宰治自身も彼の書く小説も…」
「……!」 私は驚きというよりも、そんな考え方が果たして世の中にあったのか、という気づきで言葉が出なかった。太宰治をそんな風に言う人に初めて会ったからなのかもしれない。だって、太宰治は父の…母の…、私の好きな女性作家の……。
太宰治が嫌い、母にそんなこと言ったら発狂しそうな言葉だ……。
「……でも、……そんなの、太宰治にとっては失礼じゃない?」 私は母の怒った様子が脳裏に浮かぶようで怖くて、そう尋ねていた。
「失礼? 一体何が? 太宰治は作家としては成功者だけど人間としては最低だね。ほら、本人も言ってるじゃないか。人間失格だって。だから何も失礼なことはないよ。本人の承認済みだよ」 彼はさも当たり前のように言う。
「でも、亡くなった人だし…」
「本人の希望でね。本人が望んでそうなったんだよ、他人を巻き込んで。いいかい? 僕は命を大事にしない奴なんか大嫌いだよ」 私が何も答えられないでいると、
「じゃあ、逆に聞くけど、中村さんはなんでそんなに太宰治の肩を持つの? そんなにファンだった? 気に障ったら謝るよ。僕はただ太宰治が嫌いなだけで、その小説が好きだという人たちのことを否定するつもりは決してないから」
「……私は……、両親が……好きだった……から……」 消えてしまいそうな小さな声で答える。
「中村さん自身は?」 私、自身? 私は太宰治が好き? 彼の小説が好き?
答えは……、NOだ。
私は無理やり母から読むように言われただけだ。そう、あの頃は父も母も仲が良くて、母と父が好きなものを否定するなんて考えられなかった。だから、仕方なく読んだ。読んでどう思った? 私が好きな女性作家のように太宰治に憧れを持ったか?
いや、それは無い。じゃあ、どう思った?
「私は……、どうも思わなかった……」 私はやっと呟くように言った。
そう、どうも思わなかった。大庭葉蔵がどんな人生を送ってきたかなんてどうでも良かった。なんでこんな古臭いものを読まなくてはならないのか、そればかり考えてひたすら文字を追っていた。読んだ時はどう思わなくても、ストーリーはどうしても頭に残ってしまう。だから、私は比べてしまう。自分自身と。
「それでいいと思うよ」 流雨くんは満足そうに言った。
「本当に? それでいいと思う?」 私はなぜか聞き返していた。
「それは僕にもわかりかねるな。太宰治はさ、なにを思って人間失格を書いたと思う? 自分の失敗談を他人に知ってもらいたいから? それとも本当に彼にとっては遺書として書いたとか? 僕にはさっきも言った通り、自分の人生の過ちに対して言い訳を長々と文章に書き起こしているとしか思えないんだ。だからそれを読んだ中村さんの感想がどうも思わなかった、というのも正しいと思うよ。それを聞いた太宰治がどう思うかなんて知ったことじゃないよ。……中村さんは両親が好きだったから無理やり読んだんだよね?」
「……う、うん」 急に口に出していない「無理やり」という言葉が出てドキッとした。
「なるほどね……、よしっ。中村さん、こんな話はやめよう」
「えっ?」
「だって、中村さん、また泣きそうだし。僕も太宰治の話なんてしたく無いし……、これじゃあ、いいことなんて一つもなさそうだから。とにかく難しく考え過ぎなんだよ、中村さんは。どうせ、両親のことだけじゃなくて、その女性作家が太宰治のこと好きだから、その作家が好きな中村さんも太宰治のことが好きじゃないと、とか思ってるんでしょ?」 言葉には出さなかったが図星だった。
「比べなくてもいいんだよ、自分自身なんかと」 何でそんなことわかるんだろう? 私が小説の登場人物と自分を比べていたこと。
「わかるよ。僕にもそんな風に考えてた頃があったから。だから、勉強もあんまり思い詰めないでやった方がいいよ。顔色悪いから、あんまり寝てないんじゃないの? ダメだよ。帰って寝た方がいいよ。両親も厳しいみたいだけど、きちんと話し合った方がいい。僕みたいになりたくなかったらね」 最後の言葉の意味はわからなかったが、どうやら私の体調を気づかってくれているのは間違いない。なんだか、人に優しくしてもらったのは久しぶりな気がしてちょっと泣けてくる。
「ほら、泣かない! 中村さんはちょっと泣きすぎだよ」
「……だって……、」 私は子どもみたいに甘えた声が出る。
「だってじゃないよ。泣いてしまうのはそれだけ君が弱っている証拠なんだから。自覚しないと。こんな映画知ってる?『スタンド・バイ・ミー』って言うんだけど…」
「ドラえもん?」
「違うよ。何でドラえもんがスタンド・バイ・ミーなのかはわからないけど……、まあ、のび太にとってはそうなのかもな……。じゃなくて、アメリカの映画でそういうのがあるんだよ。その主題歌もスタンド・バイ・ミーで同じなんだけど、そこの一節に I wan′t cry. I wan′t cry. って繰り返し歌うところがあるんだけど。いい歌だから一度聴いてみなよ。きっと今の中村さんにピッタリな歌だと思うから」
「……なんか、わからないけど……ありがとっ!」 涙があふれ出してくる。人の前でここまで泣いたのは初めてのことかもしれない。いつの間にか、流雨くんにしがみ付き、鼻水を垂らしながら泣きじゃくった。
その後、私は流雨くんに泣き止むまで、傍にいてもらった。私がやっと落ち着くと彼は私を校舎の玄関まで見送ってくれた。
「流雨くんは帰らないの?」って聞くと、「僕はもう少しここにいるつもり」と答えた。私は「わかった、今日は本当にありがとうね」と何度も言い、彼と別れた。
家に帰ったら私は真っ先に母に塾を辞めたいと訴えた。塾の課題のせいで、あんまり勉強できていないこと、などを真剣に話すと、母は「わかった」とだけ答えた。あからさまに機嫌は悪くなっていたが、これでいい、と割り切った。その日の勉強は明日のテスト勉強だけで済まし、早めに就寝した。
次の日、学校に行き、黒木流雨くんを探して各クラスを行ったり来たりしたが、そんな名前の男の子はどこのクラスにもいなかった。
もしかしたら学年が違うのかと思って、一年生、二年生のクラスも覗いたがそんな子はいなかった。途中で名前も知らない二年生の二人組が話しているのが聞こえた。「そうだ、知ってる? 雨の日にだけ現れる男の子の幽霊の話……」
これ以上は何だか聞かない方がいい気がして私は自分のクラスである二組に戻った。
今日のテストは調子が良かった……。