宵街の女達~英美①~
俺が皐月さんの店で働く事になった頃の彼女は非道く薬物に体を蝕まれており、薬の効いている時は誰よりも一生懸命に業務をこなしていたのだが、ひとたび薬が切れてくると極度の被害妄想に陥ってしまい、突然キレて暴れ出すといったそれは酷いありさまだったのである。
そしてこの時も、つい数時間前まで、にこやかに業務をこなしていた彼女がまるで別人になったかのように彼女の行動に落ち着きが無くなってきたかと思うと、少しの物音にも過剰に反応し始めるのだった。
そしていよいよ、本格的に言動と行動がちぐはぐになりかけた時、俺はフロアで接客中の麻奈美さんと智恵子さんそして皐月さんの三人にアイコンタクトをとって俺を含む四人全員で英美さんを抑えると後は俺と皐月さんの二人でとりあえず英美さんを控室に連れ込む事にするのだった。
「英美…あんたまだ止めれてへんかってんなぁ?薬?なぁ…どっちかにしてくれへん?薬止めるか…店ぇ辞めるか……」
従業員控室の中、少しだけ中毒の発作が治まった英美さんに皐月さんが引導とも取れる一言をかけた。
再び、情緒不安定になりかけた英美さんがそこにいたのだが、皐月さんの策略の意図がよめた俺はさらに強く彼女を叱責した。
「……もういいや…このまま薬から手ぇ切れねぇんなら辞めちまえよ!このまま店に居続けられてもはっきり言って迷惑なだけだし何よりも…俺はシャブ中の人間、一番嫌ぇなんだよ!」
この後、我ながらに少しきつく言いすぎたかなとも思ったが、これくらいの事を言わなければ、彼女はこのままダメになって行くだろう。そう考えての言動だった。
案の定、この後彼女は火でも点いたかのように号泣したのだが、この時明確に彼女の口から薬からの脱却を宣言する言葉を、俺も皐月さんもはっきりと聴くのだった。
相原英美、彼女の生家は広島市内にある仕出し屋だと聴かされいた。けれど両親は彼女が物心ついた頃に離婚。母親に育てられたらしいのだが、実際彼女は母親から虐待を受けた覚えこそあれ、愛情を受けた覚えは一度も無かったと話してくれた事があった。そして、自分の転落人生が始まったのもこの時だったらしい。広島市内でも評判の美女に成長していた彼女だったがゆえに、言い寄って来る男は数知れずだったらしいが、如何せん彼女は天性のように男運が悪く生まれ育った広島を追われるように飛び出した時には、警察の世話になった事も何度かあったらしくこの岐阜に流れ着く頃には、完全な薬物依存性に侵されていたようだった。
「……ほうよねぇ…ウチの人生広島ぁ飛び出した時に終わっとったんかもしれんねぇ……けんど…今は違う!こいで店辞めてしもたらウチはほんまの人生の負け犬になってまう……そんなんだけは絶対嫌やぁ!薬からは金輪際手を切ります!じゃからぁ辞めさせんといてつかぁさい」
一頻り泣いた後彼女は、俺の顔を汚れのとれかけた澄始めた瞳で見据えて、深く頭を下げるのだった。この時の彼女の決意は過去にした決意の何倍も堅いものだったらしく、この日以来彼女が薬物に手を出す事は一切無かったのである。
今思えば、この一件も要因の一つだったのかも知れない。あれから幾年か過ぎてたまにふと思いを巡らせる事がある。自分は何故、己の命の危険も省みずあの氷上という男の仕組んだ鉄火場に乗り込んで行ったのかを。
全ての意図をつなぎ合わせてみると二つの応えに辿り着く。一つは自分が多少なりとも彼女に好意をもっていたのと、もう一つが彼女の薬物脱却宣言だったように思う訳で、その証拠に彼女が清廉潔白な体になって生まれ故郷の広島に戻り、彼女の結婚を報せる葉書を受けとった時何故か涙の止まらぬ自分がいたからである。
ただ、薬物依存性から脱却できたのはよかったのだが、俺に対する忠誠心が誰よりも強くなりすぎてしばしば他の従業員とトラブルになる事が多くなってしまい、それはそれでまた一つ俺の頭痛の種が増えたかにも見えたのだが、彼女のその心意気は何故かほとんどの従業員に浸透しており、何時しかこの店の幹部クラスの従業員達を一枚岩の結束でまとめ上げていたのだった。
「麻奈美…チー子ぉ…百合子ぉみんなほんまごめんなぁ……これからはウチ…裕さんやこん店んためにせえいっぱい頑張るけぇよろしゅうしたってつかぁさい!」
主力メンバー全員の前、英美さんはそう言って深く頭を下げるのだった。
「英美さん…頭を上げてください……今のあなたのつらい胸の内…何の約にも立ててないこのあたしが一番よく解ります……あたしもせえいっぱい頑張るんで
一緒に頑張りましょうよ!」
そう言って、みんなの前で頭を下げ続ける英美さんに泣きながら縋り付いたのは、全てがうまくいかず、自分自身も進退をかけて悩んでいた。昨日からメンバーに加わったばかりの舞原百合子さんだった。
「百合子ぉ…あんたぁちゃんとでかい声出るやないのぅ……ほうじゃねぇ一緒にちぃっと気張ろうかいねぇ……」
英美さんもまた、目いっぱいの涙を浮かべながら百合子さんの手を力いっぱい握りしめるのだった。
かくしてそれから以降の二人の活躍ぶりには目を見張るものがあり、英美さんも、百合子さんも獅子奮迅の活躍を見せてくれるのだった。
その甲斐あってかその年は、文香さんだったり、百合子さんの妹紗子さんだったりと、優秀な人材が多数入店してくれたのである。
しかしその年は、激動の一年の幕開けでもあった訳で。
ヒロさんが若頭を勤める初代飛炎会の代がわり、二代目を引き継いだ木下正明氏の道化を演じた様子見も相まって、先代の力で抑え付けられていた、氷上一派が暴走を始めるのだった。
二代目が道化を演じた様子見を止めるまでには、氷上一派の暴走はとどまる事無く、飛炎会をまっぷたつに割らん勢いにまで成長していたのである。
これに業を煮やしたヒロさん達、初代幹部連は道化を演じ続ける二代目会長、木下正明氏に緊急幹部会の召集を嘆願するのだった。
当然、氷上一派はこれに反対すると思われたのだが、彼等はこれを好機と捉えたのだろう。すんなりと幹部会召集に、応じたのである。
「会長幹部会始める前に一言えぇですかいのぅ……この席にカタギのガキが混ざっとるゆうんはどう言った了見ですかいのぅ?」
彼、氷上龍次はそう口火を切ると、初代幹部連の末席に座る俺を睨むのだった。
「……勘違いするんじゃねぇぞ氷上よぅ……あいつはカタギとちゃうぞ…列記としたこの飛炎会の幹部やぁ……それも…先代の時からのなぁ……」
飛炎会、二代目会長木下正明氏は声を荒げる訳でも無く、腹の底にずっしりと響く低い声音でそう言うと、再び腕を組み目を閉じるのだった。
「それじゃあこの緊急幹部会は何の意味があるんかいのぅ…カシラよぅ……」
この氷上という男、どれだけ上昇志向の強い人間なのだろうか。この緊急幹部会が召集されるまでに自分のしてきた悪事の数々を棚上げして若頭であるヒロさんに怒りの矛先を向けるのだった。
「そんなもんは決まってんだろがよぉ…おめぇの悪事ぃ暴き出すための緊急幹部会よぅ……まだぁついこの間だったかなぁ…兄弟……こいつんとこのチンピラがおめぇにつまらねぇちょっかいかけてきたのはよぉ……」
氷上の顔を見据えながらも、俺には時折笑顔も見せながら、ヒロさんが静かに口を開くのだった。
「朝倉のぉ…そいつはとんだ言いがかりだぜ……それによぅ…カタギのガキを幹部扱いってよぅ…それこそ会のルールに反するんじゃねぇのかい……」
ヒロさんの言葉に氷上が噛みついたのだが、この時の氷上の微妙な感情の変化を、俺もヒロさんも見逃さなかったのである。
そして、俺とヒロさんの両者と氷上一派がざわめきだし一触即発の空気が幹部会の会場を包みかけた時だった。
「……そこまでやぁ!双方手を退けぃ!」
腕組みをして目を閉じていた、二代目が目を見開き、睨み合う俺達を止めるのだった。
「氷上よぅ…てめぇの悪事の数々はこっちとらとっくに裏取れてんだよぉ……それでもまだぁ四の五の抜かしやがるかよ……」
何か言葉を返そうとした氷上だったが、二代目の間髪入れぬ一言には、黙るしかなかったはずたが、この氷上という男、薬のやりすぎで相当頭の巡りが悪くなっていたのだろう。事もあろうか、二代目にまで噛みつく始末だったのである。
「二代目ぇあんたぁバカじゃねぇのか?こんなカタギのクソガキ幹部扱いするだけでも気に入らねぇのによぅ……そのガキの言う事信じて俺は邪魔モンですかい?あんたなんかに破門にされる前に自分から抜けさしてもらいますわぁ…どうもお世話になりましたぁ!」
彼はそう吐き捨てると自分付きの数人の組員を引き連れて会場を出て行くのだった。
「兄弟…大事無いとは思うけどよぅ…充分気をつけてくれぇ……これでもう…奴を遮る物は何も無くなっちまったも同じだ…それに奴の事だ…またどんな手ぇ使って兄弟にちょっかいかけてくるかわからねぇ……」
ヒロさんがそう言ったのは、幹部会の帰りに立ち寄った市内の喫茶店だった。
「ありがとな兄弟……」
ヒロさんが俺を心配してくれたのは、確かに痛いほど嬉しい事だったのだが、この件に関してはもう一つ別の意味で心配な事があった。
それは、英美さんの事だった。氷上が彼女にシャブを売り付けようとしていたのを俺と栄二さんが阻止した事によって、また、何らかの策を講じて奴が英美さんに接近するのではないかと言うものだった。