そして父娘は……
「おとーさん、何してるの?」
冷たい夜風が頬を撫でる春の草原に、ヘレナの声が静かに響き渡る。
オスカーは何も言わずに、ただ考えを巡らせる。
ヘレナには全てお見通しなのかもしれない。父が何をしているのか、既に予想がついているのかもしれない。オスカーが思っているよりも遥かにヘレナは大人で、そして聡明だ。その事に気付けなかったのは、オスカーの大きな失態だ。娘の成長を一番近くで見てきたはずなのに、一番重要なことを見落としていた。まだまだ幼いままだと思っていた。幼く、自分が導いてやらないと生きていけないと思っていた。そしてそれが間違いだと、最悪の形で知ってしまった。
(だが、ヘレナの為にも、今の状況を何とかしなくては……)
「おとーさん。どうしてだまってるの?」
ヘレナは徐々に近づき、不信感をあらわにする。その目は、今にも泣き出しそうだ。泣きそうになるのを堪えるとき、決まってヘレナは昔から鼻をひくつかせる癖がある。今回もヘレナは、ひくひくと鼻を動かし、必死に我慢している事が、暗がりのなかでも月明かりのお陰でオスカーには、はっきりと見えた。
(俺は父親として最低だ。ヘレナの成長を見誤っただけじゃない。ヘレナがこんなに泣きそうになっているのに、何も言い出せず、そして今も、ヘレナに嘘を吐いてどうにかやり過ごそうと、必死に思考を巡らせている。仮に今ここで上手く撒けた所で、後々俺はヘレナを深く傷つける事になる。ヘレナの為と、宣いながら結局は俺の身勝手に付き合わせているだけだ。この子はきっと、不幸になる。娘を不幸にする父親なんて、この世に存在して良いはずが無い。でも、でもどうか……)
――神よ、どうかこの子が灰の獣を倒すその時まで、俺をこの子の側に居させて下さい。あの子が自分の足で、未来を切り開けるその時まで。俺がこの子にとって必要じゃ無くなるその時まで……。
オスカーは思い切り拳を握り締める。黒い革の手袋を着けてきていないその手は、爪が食い込み、血が流れる。
血は手を伝い、指を伝い、地面に落ちる。その時だった……。
「そこの御人! 『大烏』のオスカー殿がこの辺りに逗留しているそうなのですが、ご存知無いですか?」
突然、町の方から一人の若い男が馬に乗ってやって来た。鎖帷子の上からアイゼンブルクの紋章が刻まれた赤い布を纏っている。コンラートの使いだろう。
「……俺だ」
オスカーは静かに彼にそう告げる。
「貴方がオスカー殿でしたか! 総統閣下が至急お呼びです!」
若い兵は、そうまくし立てるようにオスカーに言った。息があがっている。相当急ぎの用らしい。
オスカーが「わかった」と言おうと口を開いたとき、ヘレナが声を張り上げ、こう言った。
「わたしもいっしょに行く!」
その声と、瞳には、強い意思が表れていた。幾分かの怒りと、覚悟が、その言葉に込められている。
「君はまだ――」
「この子は俺の娘で、旅の相棒だ。同行させてくれ」
オスカーは、ヘレナの言葉を、思いを汲み取り、若い兵の言葉を遮ってそう言う。ヘレナは反対されると思っていたのか、少し驚いている。
若い兵も、時間が惜しいと感じたのだろうか、本人が良いならと言って、了承してくれた。
オスカー達は服装を整えると、足音で目を覚ましたシュバルツと共に、若い兵の先導に従い、館へ向かった。
○
シュバルツはパカラパカラと街道を進む。月は少し西に傾いている。
「……おとーさん、どうして?」
「どうしてって?」
「わたしがいっしょに行くって言ったとき……」
「……わからない。でも、ヘレナが大事だから……かな?」
「じゃあ、どうしてさっきわたしを置いて……約束、守ってくれなかったの? それに、その血のにおい……なんで?」
「うーん……」
オスカーは少し押し黙り、言葉を選ぶ。
しばらくして、オスカーが口を開いた。
「……守るため、かな。約束よりも、守りたいものがあったから」
「守りたいもの?」
「そう。守りたいもの」
「守りたいものってなに?」
「大きくなったら、きっと分かるさ。お父さんも、昔おばあちゃんから言われた」
「教えてくれないの?」
「教えて分かるものじゃ無いからなぁ。自分で見つけて、初めて分かる。きっと、ヘレナにも分かる時が来るさ……」
「……そっか」
そこで会話は途絶えてしまった。目の前には、コンラートの館が見える。
結局ヘレナは、オスカーが何をしていたのか、聞かなかったし、聞けなかった。
そしてオスカーの方も、自分が何をしていたか言わなかったし、言えなかった。
二人が腹を割って話すには、街道は少し短すぎた。
二人は、聞きたいことも、話したいことも何もなす事無く、シュバルツを降りる。
そして今、父は娘に罪悪感を覚え、娘は父に一抹の不信感と父との若干の心のズレを覚え、そして互いに微かな、しかしはっきりとした父娘の亀裂を感じながら、シュバルツに背を見送られ、館の中へ向かっていく。
この時、互いの事をもっと話していれば、或いは互いの心の内を明かしていれば、結末はもっと違ったのかも知れない。
オスカーの胸元から垂れ下がる琥珀色の魔石は、独りでに淡く光を放っている。




