♪6 あなた達と円舞曲を
「はーい、調子どう?」
メトロノーム騒動から数日後の聖フォンヌ音楽院の学生食堂。
私が相変わらず未完成の音楽堂脱走曲の楽譜と向き合って考え込んでいると、フィオがいつもと変わらない陽気なトーンで声をかけてきた。
メトロノームの暗示が効いたらしく、彼女はあの日の出来事は綺麗に忘れている。ちなみに、私も記憶を消すべきかセロに尋ねたところ、メトロノームの魅了にかからなかった以上、暗示も効かないだろうと言われた。フルーに言わせると……。
「トラムは鈍いから」
大胆に失言してくれる彼女に対し、私は笑いながら彼女の頬をつねってやった。大人気無いなんて言わないでもらいたい。一種のコミュニケーションだ。
「なーに? まだ出来上がらないの、それ?」
私の隣の席に座るフィオ。書いては消し、消しては書いてで真っ黒になっている譜面を見ると呆れたように言った。
「だーかーら、これは大作なの。ちょっとやそっとじゃ、出来上がらないのよ」
「ハハハ、よく言うわ」
私のもっともな反論に、フィオはなぜか大笑いしながらサンドイッチを一切れ口に放り込む。
そうだ、大作なのだ。きっとそうだ。だから時間がかかるだけで、別に失敗作というわけではないはずだ。……多分。
自分に言い聞かせながら、もう一度楽譜を眺める。
「ん? その曲は?」
「え?」
「今、トラムが口ずさんでたヤツ」
フィオに尋ねられて、自分が何やら歌っていた事に初めて気が付いた。
「ごめん。自分でも知らずに歌っていたみたい。どんな曲だった?」
フィオは「うーん」と思い出す素振りを見せた後、私の歌っていた曲をなぞった。
私はそのメロディーを聞いて驚いた。メトロノーム騒動の後でハミングしていた例の曲じゃないか。そういえば、あの曲はまだ五線紙におこしていなかったわ。
フィオのハミングが途切れそうになったところで、私は続きを思い出しつつハミングを続ける。
「いい曲ね」
「そう?」
ちょっと嬉しそうに笑って歌い続ける。静かに歌を聞いていたフィオがボソリと……。
「……優しい狼、陽気な虎」
「な!」
私は驚いて席を立つ。その様子にフィオの方も驚いた。
「どうしたの、トラム?」
私にじろじろ見られて居心地が悪そうにしながら彼女が問いかける。
「フィオ、今のは何?」
「何って、優しい狼、陽気な虎って言っただけよ。トラムの曲を聴いていたら、なんとなくそんな題名かなーって思っただけ。あ、その曲はなんて題名?」
彼女に聞かれて私は首を横に振る。
「無い」
「じゃあ、きっと優しい狼、陽気な虎ってタイトルなのよ。それ」
何も知らずに笑うフィオ。私は内心焦ったが、フィオの暗示が解けたわけではないと安堵すると椅子に座り直した。
「フィオ。あなた、時々凄いと思うわ……」
「……? ふむ。やっと、この私の偉大さがわかったみたいね」
少し不思議そうに私を見た彼女だったが、すぐにいつもの陽気な笑顔を見せた。
それにしても、優しい狼と陽気な虎。言われてみれば私は彼らの事を歌ったのかもしれない。
「あ!」
私はふと思いつき、テーブルに広げた楽譜を片付け始めた。
「何? ティアンちゃんの家? でも、確か夕方じゃなかった?」
「今日のレッスンはお休み。ちょっと行きたい所ができたから……」
楽譜を押し込んだ鞄を抱えて「じゃ」と軽くフィオに手を振ると私は学院を出た。
珍しく定時に来たバスに乗り込み、バスを降りたらピッコロベーカリーへ。そして、店の脇道を通った突き当たり。
優しい狼男と、陽気な虎娘が営んでいる骨董屋『音楽堂』。
私を悩ませる未完成の楽譜の答えはここで見つかるような気がした。
「こんにち、ヒャー!」
景気良くドアを開けたのが不味かった。店に入った私を、待ってましたと歓迎するかのように襲い掛かってきた雑貨の雪崩に、私はまたもや生き埋めになった。
「もしもーし。聞こえます? え? ええ、すみません賑やかで。どうも屋根から野良犬が落ちたみたいで……。それでティバンニさん。今月の家賃ですけど。え? 先月と先々月? 嫌だなぁ、払いましたってば」
セロさんは奥で電話しているらしい。
「セロー、大変だよー! お客さんが生き埋めになっちゃったー!」
雑貨の上から聞こえるフルーの声。
「わかっておりますよ。今月こそ……じゃなかった。今月もきっちりと払いますから。お客様が来ていますので、お話はまた後日。それでは失礼します。……だから、もう少し綺麗に棚を整理するよう言っておいたんじゃないですか、フルー君」
また君か、フルー。
「お客さんを埋めたのは骨董品達だよ。仮に埋めちゃった責任がアタシにあるとしても、そこから助けるのはアタシ達。これで差し引きゼロじゃない?」
そんなわけないじゃん、フルー。
「なんの躊躇いも無く無責任な発言ができる君が、時々羨ましく思えますよ……」
セロさんも溜息ついてないで……。
「早く助けてー!」
「おや? トラムさんですか?」
「ここ! ここから聞こえたよ、セロ!」
私の声に二人がようやく動き出す。
「あ!」
「どうしました、トラムさん?」
「ゴメン、トラム。踏んづけちゃった?」
作業の手を止めて骨董品の下にいる私の様子を探る。
「五線紙とペンを用意して! あ、でも、その前に助けて! うわー、もうすぐ曲が終わるー! 私の超大作がー!」
出会いは突然。でも、昔からの付き合いのように、自然に付き合っていける関係というものが存在するのだろうか。
私はあると信じる事にする。きっと、この二人とはそうなれる……。