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♪40 控え室からの序曲

 学芸会当日の発表順番待ち。遅刻寸前で駅での電車到着待ち。筆記テスト終了十分前で解答まだ半分。そんなやり場の無い焦燥感に、やたらと足元がむず痒くなる事は無いだろうか。


 私はある。あの時もそうだった。




 港町カオブリッツ。誰が呼んだか坂の町。坂の集合体はカオブリッツ港をスタートに、上がって下がってもう少し上がってという調子で最終的にカオブリッツ山の頂まで続いている。港から山に向かうとしたら、私が今いる場所は七合目ぐらいかしら。


 そんなカオブリッツ山七合目にあるのが、周辺住民のために建てられた多目的ホール。見てくれは小さいながらも、音楽好きが多い住民に合わせて防音設備はしっかりしているから、演奏会などにもよく利用される。例えば、今日のような知人を集めた仲間内の演奏会にはもってこいだろう。


 ホールの控え室にいる私は、壁際に立って小振りな窓越しに外の風景を眺めてみる。


 私が覗き込んだ窓は、海に向いて開けているおかげでとても見晴らしが良い。坂にそって段々畑のように立ち並ぶカオブリッツの町並みが、夕陽の朱色で均等に染めらているのが見渡せる。いや、よく見れば建物によって異なる壁の色で同じ夕陽色でも濃淡明暗さまざまだ。港に縁取られた海も、絶えず小波の煌きを湛えて美しく輝いている。


 でも、今の私にはこの時間だけ姿を見せてくれる美しい風景を愛でる余裕は無かったりする。いつもならインスピレーションの働くままに作曲をしていたかもしれないが、今は作曲のさの字も出てきやしない。


 そう、私は緊張しているのだ。


 歩行というものは人の脳を活性化させると聞いたことがあるけれど、どうやらそれは本当らしい。ホールへと続く坂道を歩いていた時の私の頭の中は、一歩一歩坂を上る足より早く回転し、ホールの玄関で一度立ち止まった時も脳内回転は止まらなかった。ホールに入ってからなどは、私の頭は落ち着くどころかさらに回転数を上げていろんな事に考えを巡らせている。


「というか、基本的にはコンサートの事がエンドレスで回っているわね」


「何?」


 緊張の沈黙から逃げるように呟いた私の言葉に、耳ざとい悪友フィオが尋ねてきた。


 私はなんでもないと首を振ってフィオを見る。


「フィオさんフィオさん。もうすぐ演奏だけど、心の準備は万全かしら?」


「もちろんでございますわよ。そういうトラムさんは随分と緊張していらっしゃいますわね」


 心なしか強張った私の問いに、同じ調子で答えるフィオ。どこが準備万全よ。あなたも緊張でガチガチじゃないのよ。


 フィオ・ディーンを知る者が今の彼女を見たら、総じて意外そうな顔になるに違いないわね。ただの仲間内の演奏会でこうも緊張するような肝の小さい子じゃないんだもの。


 でも、今日はお気に入りのヴァイオリンの命運がかかっている事もあって、さすがの彼女も落ち着いてはいられないみたい。


 うーん、まずいわね。二人してこんな調子じゃまともに演奏できるわけないじゃない。何か……何か、緊張を解きほぐす方法。


 定番は深呼吸かしら。吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー。


 急に深呼吸を始めた私を見て、フィオはちょっと驚いたけどすぐに私に続いて深呼吸。


「ヒッヒッフー……ヒッヒッフー……」


「って、ラマーズ法かい!」


 何を生むんだ。誰の子だ。


 気を取り直して。他に……ストレッチとか、よさげじゃないですか? 両手を組んで腕を上へ伸ばしてみたり、屈伸してみたり……。


「イタタ、アイタタタ! トラム、ヘルプ! 足つった! 両足もってかれた!」


 私の真似をして足の筋を伸ばそうとしたフィオが悲鳴を上げて椅子に座り込む。


 フィオ……何をするにも賑やかな子ね。


 フィオは涙目で足をさすりながら恨めしげに私を見上げる。


「まったくもう。トラムの真似してたら、落ち着くものも落ち着かないわよ」


 いや、私は落ち着いたわよ。深呼吸やストレッチが効いたのか、とっちらかるフィオを見ていたのが良かったのかはわかんないけど。


「それじゃあ、東洋に伝わるおまじないというのはどうかしら?」


 抗議の視線を向けられた私は、ふと思い出した緊張の解き方を提案してみる。


「東洋の神秘ねぇ……んー、急に怪しい手段になってきたわね」


「嫌ならやめておきましょうか」


 フィオがあまり乗り気じゃないようなので次の手を考えようとした私。でも、私の言葉を見放されたととったのか、フィオは慌てて私にすがり付いてくる。


「えー、おーしーえーてーよー、トラムちゃーん。キンチョーしてんのよー。心臓、口から飛び出しそーなのよー」


 ええい、鬱陶しい!


「わかった、わかったから、教えるから。だから抱きついたまま体重かけないでってば、重いから」


 最後の一撃、もとい一言にフィオは相当衝撃を受けたらしく、大人しく私から離れて再び椅子に座り込んだ。……あ、肩落ちてる。実は気にしてたのね。


「トラムさん……それで、おまじないというのは?」


「えーっと、確か……掌に人って字を三回書いて、それを飲むんだって」


 途端にフィオが眉根を寄せる。


「飲むって、手をまるごと? 口に入りゃしないわよ。そもそも腕つながってんだから、飲み込むなんて無茶よ」


「誰もそんなスプラッタな事しろなんて言わないわよ。掌に乗ってるものを飲み込む仕草でいいのよ」


「ああ、そういうこと。なんだ、思ったより簡単ね」


 私の訂正に納得すると、フィオは開いた手にペトッと人差し指を当てて……硬直。


「……ねぇ、人って字は何語で書いたらいいの? 東洋の文字なんて知らないわよ」


 掌を見たまま固まっていたフィオは、思案顔を私に向けて尋ねてくる。


 奇遇ね。私も知らないわ。


「普通に人って書けばいいんじゃない?」


「いいのかなぁ……」


「四の五の言わずに試してみなさいって」


 小首を傾げたフィオは、私に急かされて再び手にペトッと人差し指を当てる。


「えーっと……トラム・ウェット、と」


 フィオさん、私飲んでどうしますか。


「人、だから」


「うん、人だったよね。人、人、人……んぐ」


 フィオは掌を口元に寄せると、飲み込む素振りをして息をついた。


「どう? 少しは落ち着いた?」


「うーん……」


 私の問いかけに微妙と言わんばかりの表情を見せるフィオ。先ほどまでと比べれば緊張は解けてきているけど、まだ完全とは言いがたいみたい。


 さて、他に何か緊張を解く方法があっただろうか……。


 思案に暮れる私だったが、不意に控え室の扉をノックする音に考えを中断させられる。


「ひ、ひゃい!」


「フィオ、声裏返ってるわよ。はーい、開いてますよー」


 私達の返事に、半ばまで開けた扉から見知った顔がひょっこり出てくる。


 ワインレッドの髪と眠たげな目が印象的なお姉さん。今回の演奏会の特別ゲスト兼総合司会という特殊な立場に位置するヴィオナさんだ。


 控え室に入ってきたヴィオナさんは、私達を見て意味深な笑みを浮かべる。


「やあ、二人ともいい顔しているね」


「茶化しに来たんですか?」


 からかうようなヴィオナさんの台詞に口を尖らせて返す私。彼女はそれさえも楽しいようで、小さく肩を揺すらせながらクスクスと笑った。


「いや、失礼。笑った事は謝ろう。アタシはただ、演奏を前にした二人を激励しようと思って来ただけだよ」


 あわよくばヴァイオリンを取り上げてしまおうとしている人に、激励されるのも妙なものだわ。


「イマイチ信用できないなぁ」


「他意は無いよ。演奏が失敗しようが成功しようが、アタシは損をしないのだから。そして、どうせ聴くなら心地良い演奏を聴きたい。となれば、応援の一つもしてあげたいと思うのは自然な事だろう?」


 ヴィオナさんは私にそう言って微笑むと、笑顔はそのままにフィオへと顔を向ける。


「やあ、フィオ。その後、ヴァイオリンの調子はどうかな?」


 対するフィオの表情は優れない。ヴァイオリンを直してもらい、そのヴァイオリンを奪い去るかもしれないという恩も仇もあるヴィオナさんを前にすれば、その心境は複雑なものよね。


「おかげさまで、なんの問題もありませんです」


 表情に合わせたように言葉も硬い。やれやれ、せっかくフィオもリラックスし始めていたというのに、また緊張が戻ってきちゃったわ。


 本業美術商、顧客との応対が仕事なヴィオナさんがフィオの反応に察しが付かないわけがない。ヴィオナさんは、困り顔でワインレッドの髪をかきあげた。


「予想をしてはいたが、アタシの激励では逆効果になりそうだ。というわけで、代役を頼まれてくれるかな?」


 そう言ってヴィオナさんが振り返る。そして、ヴィオナさんが半開きにしたままだった扉から顔を出したのは、音楽堂の店員ズ。


「メローヌに、フルーちゃんも?!」


 ヴィオナさんに促されて控え室に入ってきた彼女達に私は思わず声を上げた。


 メローヌは、まあこの一件に少なからず関わっているしフィオとも面識あるからわかるけど、フルーまで付いてきたとはちょっと驚いたわね。


「なんだよぅ、アタシだってフィオの演奏聴いてみたいんだよ」


 私の驚き方が心外だと言いたげに抗議するフルー。


 確かに私が音楽堂に通うようになってから、フルーは少なからず音楽に興味を持ち始めている。ほとんど音楽堂で過ごしているフルーは、きっと今まで音楽に接する機会は少なかっただろうし、生の演奏を間近に聴く事などまず無かっただろう。


 音楽の楽しさを味わってもらうには今日の演奏会はうってつけだわ。フルーちゃんの為にも、いい演奏をしてあげなくちゃね。


 そして、いい演奏をしなくちゃ、というのはメローヌに対しても同じ。元がメトロノームなだけあって音楽にはうるさそうだし、下手な演奏はできないわよね。


 そのメローヌは私の事など見えていないかのように、部屋に入るやいなやフィオに擦り寄っていた。


「フィオ。私にはわかります。あなたなら、きっと皆が十分満足する演奏ができる」


「あ、ありが……ヒィィィッ!」


 礼を言いかけたフィオの声が、ズズイと近寄るメローヌに思わず悲鳴へと変わる。


「メローヌ、フィオに寄り過ぎ! フィオが驚いているじゃないの」


「おや、これは失礼を致しました」


 私の注意に一歩身を引くメローヌだけど、その熱い目線はフィオから外れる事が無い。


 フィオの緊張を解くためにメローヌを当てるのは逆効果ね。


「ねぇ、メローヌ。フルーちゃんと来たってことは、音楽堂はセロさんが店番?」


 当惑するフィオを助けるべく、私はメローヌに話題を振ってみる。メローヌは私に向き直ると、いつもどおりの無表情で首を横に振った。


「いえ、本日の音楽堂は臨時休業でございます」


「セロなら今頃会場の方にいるよ」


 メローヌの答えにフルーが横から補足説明を加える。


 セロさんまで来ているのね。ディンベルとドンベルの妖精コンビは音楽堂の守り手だから、さすがに留守にはできないでしょうけど。


「なんだかんだで、フィオの演奏を聴いてみたいという点では皆の意見が一致してね。あぁ、念のために断っておくけれど、ちゃんとトロ店長の了解はとってあるから」


 どうやら私達の知らないところで、またもやヴィオナさんの交渉技能が発揮されたらしい。


 音楽堂の面々が揃っていると思うと、これは私も下手な演奏はできないわね。いや、もちろんフィオの為に全力でバックアップするつもりだったのよ。必要以上に力が入っちゃいそうだという意味で。


「なんだか、私までまた緊張がぶりかえしてきたわね……」


 思わず洩れた私の呟きにヴィオナさんは微笑むと、耳元を覆うように片手をかざす。


「フィオの演奏の出来はさておいて、トラムにはちゃんと伴奏をしてもらわないといけないね」


 そう言ってヴィオナさんは耳から手を離すと、手の内のものを私に向かって投げてよこした。


 窓から差し込む夕日に一瞬キラリと煌いたそれを、私は取り落としそうになりながらもなんとかキャッチ。


 握り締めた手の内にある硬い感覚。開いた私の中にあったのは、十字架の形をした銀細工のピアス。これはヴィオナさんがいつもつけているものだ。それを証明するように、手元のピアスの片割れは今もヴィオナさんの片耳で揺れている。


「あの……これって?」


「お守りだと思ってくれていい。ヴァイオリンが欲しくないわけじゃないが、演奏の邪魔をする気は毛頭無いさ。伴奏が失敗してフィオがコケるなんてオチは、アタシの望むところでは無いから」


 私の問いに返すヴィオナさんの笑顔はセロさんのそれに通じている気がする。見た者を落ち着かせて穏やかな気分にしてくれる。


「そういう事なら、ありがたく……」


 そんな笑顔の魔法の効果なのか、手にした銀のピアスにも心を落ち着かせてくれるような錯覚を覚え、私は躊躇い無くピアスを耳につける。


 ヴィオナさんは私の耳で揺れる銀十字に満足げに頷くと、私とフィオを見て手を打った。


「さぁ、頃合だ。皆を素敵な時間へ招待しておくれ」


 それは、演奏会の始まりの合図。そして、まるで計ったかのようなタイミングで扉から顔を出すセロさん。


「トロ・リボーヌ楽器店の方々も揃いましたし、そろそろ始めましょうか」


 フィオはヴァイオリン片手に私に近寄り、軽く握り拳を作って私に向けた。


「さぁ、私達の演奏をお腹一杯聴いてもらいましょ」


 そう言うフィオの不適な笑顔は、演奏直前の土壇場で出た彼女本来のクソ度胸か。はたまた演奏前の緊張がメローヌとの遭遇で生じた緊張と相殺されたものか。どちらにしても今の彼女は緊張から解放されて、普段の彼女を取り戻している。


「ええ。フルコースでおもてなし、ね」


 私もフィオに笑い返しながら拳を差し出す。


 互いの拳をコツンと打ち鳴らし、私とフィオは音楽堂の面々に見送られながら控え室を後にした。




 私達が控え室を出てすぐのこと……。


「ヴィオナ。今、トラムさんの耳に銀の十字架が……」


 私達を見送ったセロさんは、物問いだげに姉に向き直る。でも、ヴィオナさんにはセロさんの声は届いていないようで、ふむと小さく唸るのみ。


「そろそろ頃合い……いや。もう少し後、か」


「はい?」


 ヴィオナさんの呟きにセロさんが問うと、ヴィオナさんはようやく彼に気が付いたとばかりにセロさんに向き直った。


「セロ。演奏が開始したらその銀縁眼鏡を外しなさい」


「え?」


 急な指示に戸惑う弟を置いて、ヴィオナさんは自分の片耳に残っていた銀十字のピアスを外した。



なんだかんだで演奏会に辿り着きました。

無事に演奏して終わる、などとは誰も思っていないでしょうね。

ええ、私も終わらせる気はありませんし、私が放っておいても誰かが何かやらかすでしょうし……。

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