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♪4 私だけの夜景

 人からどのように評価されようと知ったことではない。私はこれが好き。そういうものが無いだろうか。


 私はある。私の部屋がそれだ。




 港町カオブリッツの山沿いに建っているカプリオという名のアパート。その二階の一番端が私トラム・ウェットの小さな城だ。


 お風呂から上がった私は、濡れた髪をタオルで拭きつつ窓際へと歩いていく。


 山から港へ向けて家々が光の道を作り、港の外灯が入り江の縁をなぞり、町外れの岬からは灯台の光。満月になりきれない月が海の水面を照らしている。両開きの窓から広がるカオブリッツの夜景は、世界の夜景百選に入れてもいいでではないだろうかと思うぐらいに好きだ。


 私は窓枠にもたれて夜景を見ながら、軽い溜息を一つついた。


「落ち込んでいる時でも、はしゃいでいる時でも、この眺めはいつも綺麗」


 そう呟いてもう一度溜息。今度はさっきのよりも重い。


 生徒ティアン嬢の家に向かう夕方までの時間潰し。夕方まで何をしようか考えた結果、出た結論は「そろそろティアンちゃんチに行く時間だわ」だった。


 それはこの際どうでもいい。問題はそこからだった。


「メトロノームって、それほどに魅力的なのかしら?」


 心からの疑問を口に出していた。


 言いたくもなる。ティアンちゃんはピアノそっちのけでメトロノームをいじりまくっていたし、休憩に紅茶を持ってきてくれた彼女の母親も、なにやら物欲しげな視線をメトロノームに送っていた。帰り道に立ち寄ったピッコロベーカリーでは店員がメトロノームばかり見てなかなか会計が進まなかったし、その後歩いていてたまたまぶつかった見ず知らずの老紳士にもメトロノームを譲ってくれと頼まれたし……。


 そりゃあ、確かに見た目は悪くない。むしろ良いと思う。


 しかし、ここまで会う人会う人の心を射止めるほどに魅力的かと問われれば、私は首を傾げて答えに困る。そもそも、誰でも射止められるのなら、なぜ私を射止めない。


「持ち主は私だと言うのに……」


 その持ち主を蔑ろにするとは、なんたることか。まあ、メトロノームに射止められたいと思っているわけでは無いが、それでもこうまで仲間外れというのも寂しいもので……。


「どこがいいんだろうねぇ」


 もう一度疑問を口にすると、私は窓辺を離れて鞄を置いたテーブルに歩み寄る。


 検証……というほど大それた事をするつもりはないが、もう一度問題のメトロノームを見てみようと鞄を開けて中を探る。


「あ、れれ?」


 無い。


 もう一度中身を確認する。鞄の中は筆記具に教科書、ティアンちゃんの練習用に選んだ楽譜がいくつかと、音楽堂脱出後に生まれた未完成交響曲の楽譜等々……。


 やはり、鞄の中に入っていたはずの古いメトロノームの姿が無い。


 どこかで落としたか? ティアンちゃんの家で? いやいや、それならピッコロベーカリーの店員が見とれるはずが無い。じゃあ、そのピッコロベーカリー……。待て待て、それなら通りすがりの老紳士が譲ってくれなどと頼む事も無い。では、老紳士とぶつかった時ということに……。それも無いだろう。何度も頼み込む老紳士から逃げる時には、メトロノームの入った鞄をしっかり抱きしめていた。


「じゃあ、どこだっていうの?」


 自分の内なる記憶にもう一度問い返す。


 名も知らぬ老紳士と別れてから、私はバスに乗って真っ直ぐアパートに戻った。


 いや、待て。そういえば私は不覚にもバスの中でうたた寝をしていなかったか?


「つまり……」


 スリに遭った。でも、無くなっているのは財布ではなくメトロノーム。でも、あのメトロノームは人を魅了する物らしいし……。


「あ!」


 私はある事を思いついた。


「あの曲に足りないものって……」


 瞬時に私の頭はメトロノームから、未完成の楽譜を完成させる事に切り替わっていた。


 そうやって、大事な事を忘れてしまう事が多々あるとフィオに言われたのは、この話のもう少し後の事だ。もっと早くに忠告していただければメトロノームについて考えもしただろうに……。我ながら無責任な言い分だ。


「んー、変ね。余計に完成に遠のいた気がするわ」


 譜面と向かい合ってから五分と経たずに呟いていた。


 さらに考え込む事十分。開けっ放しの窓から気まぐれに吹き込んだ夜風が、楽譜を睨んで微動だにしない私の髪を撫でる。


 ああ、そういえば窓を開けたままだ。


 湯上りの体に夜風は涼しくて心地良いが、放っとけば湯冷めする。


 閉めようと思って窓を見た私。その視線が窓に向いた途端、椅子から立とうとした中腰の姿勢で固まっていた。


 窓辺には猫。若草色の首輪をした赤茶色の毛並みの子猫だ。


「ニャー」


 猫は私と視線が合うと、挨拶でもするかのように一声鳴いて見せた。


 急なことで少々驚いたが、なかなか可愛らしい猫だ。


「こんばんは、猫君。生憎だけどウチには君が食べられそうな食べ物は無いわよ」


 そう言いながら窓に近寄る。


 とにかく、部屋に入ってもらっては困る。いや、入るだけならまだ良いが、勝手に爪を研がれたり用を足されたりしたらかなわない。


「悪いけど、そろそろ窓を閉めたいの。そこを退いてくれないかしら?」


 窓際に立って猫に問いかける。その猫の方は、私がこれだけ近付いているのに動じた様子も無い。人に慣れていて首輪もしている。どこか近所の飼い猫だろうか。


 野良猫だろうが飼い猫だろうが、そういう可愛い顔でこっちを見ないで欲しい。こちらも追い払いにくくなるじゃないか。


「君にあげられる食べ物は無いけど飲み物ならミルクがあるわ。飲む?」


 そう言うと猫がまた「ニャー」と鳴く。欲しいってことかしら……。


「まったく、あの音楽堂のフルーちゃんといい、ティアンちゃんといい、君といい。そうやって可愛さを振りまくのは反則よ」


 冷蔵庫へ向かいながらぼやく私に聞き覚えのある声で返事が返ってきた。


「あ! アタシの事覚えていてくれたんだ!」


 慌てて振り返るが、声のした窓辺には猫が一匹座っているだけ。


「……君がしゃべった?」


 冗談めかして猫に問い掛ける私。猫は返事するように「ニャー」と鳴く。


 でも、にゃーって猫の泣き声じゃないの。さっきのは人の声で……。


「うん、アタシがしゃべった」


「そうそう、こんな声。って、え?」


 当惑する私の前に降り立った猫。体を軽く震わせると猫を中心に濃い靄がかかる。


「……フルー……ちゃん?」


 靄が消えて、さっきまで猫がいたはずの場所に立っているのは音楽堂の店員だった。


「トラム。ミルクは冷たいままでもらえると嬉しいな。アタシ猫舌なんだ」


 嬉しそうに言うトラムに対して、私はただ唖然としていた。


「どういうこと?」


「何が?」


「いや、だから猫が……えーっと……」


「アタシが?」


「あなたじゃなく、猫よ」


「だからアタシがどうかした?」


「フルーちゃんじゃないんだって」


 不思議そうにこちらを見ているフルーに、私は混乱する頭で何とか説明しようと言葉を考える。


「つまり……ひゃっ!」


 話し始めた私だったが窓際からの物音で中断される。


 音の元を辿ると、窓枠を掴む人の手。どこかのホラー映画のワンシーンに出せそうだ。


 フルーを庇うように立った私。でも、不気味さから足は少しずつ後ろへ下がっていく。


「まったく、一人で先に行っちゃって。少しは私のペースも考えてください、フルー君」


 こちらの緊張感はどこへやら。窓枠を掴んでいた手の主は、おっとりとした口調で話しながら窓からひょっこり顔を出す。


「遅いよ、セロ」


 なんとまあ、窓からの侵入者は音楽堂の店長ではないか。


「やあ、これはこれはトラムさん。夜分遅くに突然伺ってしまって申し訳ありません。それと、先日はうちの騒ぎに巻き込んでしまって、重ね重ね何と謝ってよいか」


 そう挨拶しつつセロさんは窓に足をかけて部屋に入ってくる。……ちょっと待て、ここは二階だぞ。いったいどうやって窓まで。


「ねえ、聞いてよ、セロ。トラムがミルクをご馳走してくれるって」


「その様子ではトラムさんの所に伺った事情も話せていないのでしょうね」


「あう……」


 セロさんの一言にフルーは言葉を失う。


 この二人、一体何なんだ。


 私は混乱する事以外の選択肢を無くした頭で必死に考えようとする。無駄な足掻きだ。余計に混乱するだけである。


 セロさんは改めて私に向かって深々と頭を下げてみせた。


「こんばんは、トラムさん。実はちょっとしたトラブルがございまして、夜分の、それも窓から上がらせていただいた次第で。誠にご迷惑をおかけします」


「いえ……」


 反射的にそう受け答えていた。


「トラブルというのは他でもありません。トラムさんが音楽堂に来てくださった時にさしあげたメトロノームについてで」


「メトロノームですか?」


 何事も無かったかのように問い返すが、私は内心冷や汗をかいていた。


 参った。今更返せとか言われたらどうしよう。


「あの、それが……」


「誰にお譲りになったんです?」


 セロさんは当然のようにそう尋ねてきた。


「え? なんで?」


「なんでとは?」


「なんで私が人に譲ったって?」


 私の質問に二人は顔を見合わせ、同時に「ああ」と納得の素振りを見せる。


「セロは鼻がいいから」


「それ、答えになってるの?」


「えーっと、つまりここにメトロノームが無いというのは、なんとなくわかったので」


 いまいち引っかかるセロさんの解答に首を傾げつつひとまず納得しておく。


「実はここに帰ってくるまでにメトロノームを無くしてしまったらしくて……。その、ごめんなさい」


 素直に謝る私に、セロさんはパタパタと首と手を横に振る。


「いいえ、お気になさらず。そもそも、アレを店頭に置いておいた私の落ち度なわけですし。事情がわかれば私もそれに見合った探し方をするまでで」


「それに見合った探し方?」


 またわかりにくい言い方をする。


「セロは鼻がいいから」


 フルーはフルーでわかりにくいフォローを入れてくる。


「さっきから状況が掴めていないのだけど」


 その言葉にセロさんが自分のおでこをペシッと叩く。


「ああ、これは失礼。話が飛躍しすぎでしたね。実はあのメトロノームは非売品で人手に渡してはいけない物だったのです。いや、今は渡してはいけない物と言うべきか……」


「それを知らなかったものだから、ついトラムにあげてしまったの」


「はあ……」


 理解しきれていない生返事を返す。


「今日になってフルー君からトラムさんに渡した話を聞きまして、こいつは一大事と失礼ながらこのお部屋に伺ったわけで……」


「良く私の住んでいる所がわかりましたね」


 驚きと感心の表情を見せる私に、セロさんに代わってフルーがちょっと胸をそらす。


「セロは鼻がいいから」


 だからさっきからなんなんだ? その鼻がいいというのは?


「探し物が得意ってこと?」


「まあ、そんなところですか」


 じゃあ、その鼻とやらで直接メトロノームを探せばいいものを、何故に私の所へ。


「最初はメトロノームの匂いを追ったのよ。でも、途中でわからなくなっちゃって。セロが言うには惜しいところまで行ったらしいのだけど」


 私の考えを見透かしたかのようにフルーが告げる。


「急に混線したといえばよいのか、ノイズが大量に混ざり始めまして。探せないことも無いのですが、トラムさんに聞いた方が手っ取り早いのでは、と」


「思ったから、私のところへ?」


「左様で」


 頷くセロさん。さて、困ったわね。私もバスの中で眠ってしまっていたわけだから、誰が持って行ってしまったのかはわからない。


「例えば、ゴミダメ漁ったとか。そういういろんな匂いが混ざりそうなところに近寄らなかった?」


 問いかけるフルーに私は苦笑い。


「野良犬じゃないんだから、そんなところに近寄ったりは……」


 言いかけて言葉が止まる。


 念のため言っておくが、ゴミダメを漁った心当たりがあるわけじゃない。それに近い場所を知っているのだ。


「まさか……」


「ゴミダメ漁ったの?」


「違う!」


「何か心当たりがあるのですね?」


 本人にはそのつもりは無いのだろうが、無意識に会話を混ぜっ返すフルーの口を塞いでセロさんが私に問う。


「確証は無いですけど、知り合いに一人」


「その方の住所はわかります? でなければ、その方の持ち物とか」


 住所はわかるが……持ち物?


「セロは鼻がいいから」


 フルー、それはもうわかったから。


「匂いで探すってこと?」


「普段はその方が手っ取り早いのです。今回のようなケースは住所を辿った方が早いかもしれませんけど」


 とはセロさんの言葉。


「ちょっと待って。その前に本人に聞いてみるから……」


 私は心当たりの人物に電話をかけた。

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