♪33 小波の中で
春の木漏れ日、夏の微風、秋の味覚に冬の毛布。そんななにげない日常の中に、小さな幸せを見つけた事はないだろうか。
私はある。あの時はホントに平和だった。
セロさんと私のメローヌおっかけ隊設立……つまるところ、フィオからヴァイオリンを預かった日から二日が過ぎた。私はというと、音楽堂店員のフルーと臨海公園でのんびりカオブリッツの港を眺めていたりする。
二日前、フルーは一人で店番をしたという事で今日は彼女が特別にお休み。でも、彼女だけ休みといっても音楽堂の中で何をするというわけでなし、下手に一人で店の外に放り出そうものなら何をしでかすかわからない。そんなわけで、ちょうど学校もバイトも休みだった私が今日一日フルーの遊び相手兼お目付け役という事になり、二人でこの臨海公園まで散歩に出たのだ。
今日の港町カオブリッツのお天気は晴れ。風は微風。そんな天気予報を証明するように空は青く、そんな空を映したように海も青い。港を出入りする船だけが、青い海に白い軌跡を残していく。
「のどかなものねぇ」
公園のベンチに背中を預けていた私は、青空に浮かぶ真っ白な綿菓子みたいな雲を眺めながら頭に浮かんだ言葉そのままを口に出していた。
だって、のどかなんですもの。
お日さまのポカポカとした日差しでほんのり温まった肌。その肌を撫でるように吹く潮風がヒンヤリと心地良い。母親に連れられた子供が三人ばかりキャッキャと笑いながら戯れている姿なんか眺めて、おまけにピッコロベーカリーのクロワッサンなんぞのんびりかじろうものなら、これはもうのどかだとしか言えないわよ。
見事なまでの平和空間。私は絶え間なく鳴り響く小波の子守唄に眠気を感じていた。ちなみにフルーはすでに私の膝に頭を乗せて眠りこけている。ついさっきまで隣で私と同じくクロワッサンにかぶりついていたと思ったのだけど、さすがに猫科だけあってこの陽気の中で日向ぼっことなれば眠らずにはいられないらしい。
別に何をするわけでもなく、学校やバイトの事から趣味の作曲の事まで何もかも忘れてこうしてぼんやりするのも、たまには悪くないかも。なんだか頭の中がリセットされてスッキリしていく気がする。
夢心地で目を閉じた私の頭の中で突然メロディーが流れ出す。この旋律は温かい日差しと少しくすぐったい潮風の中を表現したいのかしら? でも、作曲も忘れてと言ったばかりなのに何かしら曲が流れてくるというのだから、私の趣味はすっかり身についてしまっているみたいね。
私は少し笑って思いつくままにハミングを始めた。周りの人のお邪魔にならないように、今感じている小さな幸福感よりも小さな声で。
「素敵な曲ね……」
どれくらい歌っていたのだろう。私は不意にかけられた女性の声に歌を止め、閉じていた目を開けた。
最初に目についたのはフルーの顔。でも、今の声は彼女じゃない。フルーは未だに眠っていて、私の即興曲を子守唄にさらに眠りを深くしているわ。
少し視線を上げた私が次に目に留めたのは、黒の革靴。さらに視線を上げれば、濃紺のスーツに真っ白のワイシャツ、ストライプのネクタイ……。一瞬、声の可愛い男性かとも思ったけど、スーツ姿の上に乗る顔はやっぱり女性ね。
……すみません、うそつきました。ワイシャツの段階で、その白い生地の奥にある膨らみで女性だとは思いました。私の母ほどではないにしろ、あの胸元は女性のそれです。え? 私負けてる? うるさいぞ、そこ!
見上げた私を見返している彼女。私より少し年上だろうか。整った顔立ちの美人なお姉さんなのだけど、彼女の第一印象は色気よりも先に眠気。半開きの眠たげな目は、私を見ているようで、虚空を漂っているようでもある。潮風にサラサラと揺れる肩まで伸びたワインレッドの髪が背後に広がる青空の陽気とは対照的であり、活気の感じられない眠たそうな表情ともあいまって私に夜のイメージを与えていた。彼女の姿は月夜の薄明かりに透かしてこそ映える。そんな印象。
「ああ、邪魔をしてしまったか。悪かったね。で、お邪魔ついでにそちらいいかな?」
見知らぬお姉さんの登場に戸惑う私に、彼女は微笑み謝ると私達の座るベンチの空きスペースを指し示した。
「あ、どうぞ」
少し身を捩じらせてお姉さんが座れるスペースを広げると、彼女は「ありがと」と礼を言って私の隣に座る。
私は先程まで思いつくままに歌っていたハミングを思い出すと、隣に座るお姉さんがそれを聞いていた事が急に気恥ずかしくなってきた。
「さっきはすみません。とんだお耳汚しを……」
「いやいや、さっきも言ったけど素敵な歌だったさ。でも、聞き覚えが無かったな……なんという曲かな?」
私が謝ると彼女は笑って首を振る。そして、彼女の問いに私も首を振った。
「曲名はないです。思いつくままに歌っていただけなんで」
そう答えると、お姉さんは眠たげな目を心持ち開いて私を見る。そして、なるほどと納得して頷いた。
「思いつくままに……か。そうか。道理で聞いた覚えが無いわけだ。そうなると、先程の素敵な即興曲は今の君のココロそのものという事なのだね」
「そんな、私の心だなんて……」
……そんな言われ方したら、余計に恥ずかしくなるじゃないのよ。
「仕事柄、人や物を見る目はあるつもりだよ。あ、この場合は耳と言うべきか。あと鼻も利くかなぁ……。まあ、とにかくだ。アタシは先程の曲が好きだ。それは間違いない」
「えっと、すみません」
お姉さんの褒め殺しに耐えられなくなって俯く私。その様子にお姉さんは困り顔でワインレッドの前髪を掻き上げた。
「君は褒めると謝るのだね。アタシはむしろ、続きを聞きたいほどに気に入っていたのだけど……」
とことん恥ずかしい事を言ってくれるなぁ。でも、恥ずかしくても褒められて悪い気はしない。でもでも、なにぶん思いついたメロディーを適当に歌っていただけだから、メロディーが途絶えた今となってはお姉さんの望みは叶えられそうにない。
「ホントに思いつくままに歌っていたんで、続きと言われても思いつかなくて」
私がそう言うと、お姉さんはもう一度頭を掻く。
「そうか、これはアタシが迂闊だった。流れのまま歌い終えるまで待つべきだったな」
残念そうにするお姉さんに向かって、私はまた謝りそうになった口を閉じて言葉を飲み込んだ。そして、改めて口を開ける。
「ありがとうございます。思いついたらまた歌いますから、気長に待っててくださいな」
その言葉にお姉さんはクスリと笑い「承知した」と返してくれる。そして、彼女はベンチの背もたれに身体を預けると、胸ポケットから小さな箱を出した。
煙草とマッチだ。銘柄まではわからないけど。彼女は軽く振った箱から出た煙草を一本咥え、片手で器用にマッチを擦った。そのまま火種を煙草へと近付け、そこでようやく思い出して私へと顔を向ける。
「失礼。煙草を吸っても良いかな?」
そこまでやっておいて今更聞きますか。いや、聞いてくれる気遣いは嬉しいし、私も煙草を吸われたって気にしない。気にしないけど……あまりの手馴れた作業に止める間も無かったのだけど……。
「あの、この公園禁煙ですよ」
「うえっ!」
私の警告にお姉さんが情けない声を上げ、その口から煙草が落ちた。
「なんだ、ここもだったのか。やれやれ、音楽堂に辿り着くまでもうしばらく我慢するしかないのか」
火の点いたマッチ棒を振り消し溜息混じりでぼやくお姉さん。……って、ちょっと待て。
音・楽・堂?
「あ、あの!」
「おおうっ?!」
突然声を上げた私に煙草入れを片付けかけたお姉さんはビクリと身を震わせ、その眠たそうな目が幾分開かれた。
そりゃあ、急に大声出せば驚くだろうけど、私の驚きだって彼女に負けていない。お姉さんの半開きの目から覗く瞳に映っている私は、彼女以上に目を見開いているもの。
「すみません。あなたは、音楽堂を知っているんですか?」
「……いや、それはむしろアタシが聞きたい事だよ」
困ったような顔で髪を掻き上げるお姉さん。その拍子に露になった耳元で、十字架をあしらった銀細工のピアスが光る。
「あれ? ヴィオナ?」
私がひょっとしてと思いかけた矢先、膝元から発された声に私とお姉さんは揃って声の主フルーを見た。
「その声は……君、フルーだったのか」
ヴィオナと呼ばれたお姉さんは少し驚いたあと、フルーにニコリと笑いかける。
「いや、これは驚いた。しばらく見ないうちに大きくなったな。全然気がつかなかったよ」
「そういうヴィオナは変わってないね」
笑い返すフルーの頬をプニプニと突くお姉さん。フルーの無警戒ぶりからしても、彼女がセロさんの恋人、隠し子、愛人等々の噂になっている人ヴィオナさんだ。
「となると、だ……」
フルーのほっぺたプニプニを堪能したヴィオナさん。彼女は思い出したように私へ顔を向け、まじまじと私を見ると小難しい顔で唸る。
「うぅむ、気付かなかったよ。よもや君がセロだったとは……」
「いえ、断じて違います」
……この人、天然?
男装で眠そうなお姉さんヴィオナ登場のお話でした。
一応ここから新エピソードとしていますが、前の話と続きます。