♪3 小鳥達の囀り
魚の小骨が喉の奥に引っかかったような。野菜の繊維が奥歯の隙間に挟まったような。そんな痒いところに手の届かないようなもどかしい思いをした事はないだろうか。
私はしょっちゅうだ。思えば、あの時もそうだった。
「ふう……」
私は聖フォンヌ音楽院の学生食堂で、今日何度目かの溜息をついていた。
「なーに、トラム? 辛気臭い顔しちゃって」
大して心配していなさそうに聞いてきたのは我が友人フィオ・ディーン。
「あ、ちょっと待って、当てるから」
彼女はサンドイッチセットとオレンジジュースの乗ったトレイを隣の席に置いて座ると、目を閉じて「うーん」と考える素振りを見せる。
「財布落とした?」
「ブー、外れ」
「太った?」
「違ーう」
「あ、宝クジで大当たりして使い道に困ってんなら私が協力するわよ」
「ご心配無く。当たっても黙って全部使い切っちゃうから」
「えー。欲しい服があるのにー」
フィオは諦めたのか考える素振りをやめてサンドイッチにかぶりつく。
「自分で買いなさいって。自分で汗水流して働いて手に入れる事は素適な事よ」
「汗水流さなくても、あの服が手に入れば充分素適だわ」
ショーウィンドウに飾られた服を思い出したのか、フィオは恍惚の表情で虚空を見つめつつ溜息をつく。
「残念だったわね。誕生日前にそれを言ってくれればプレゼントしてあげることもできたでしょうに」
「ご心配無く。プレゼントは年中無休で受け付けているわ。それで、今度の曲はどんな感じなの?」
冗談の応酬を切り上げた彼女が、少し真面目なトーンで尋ねてきた。
「なんだ。わかってたんじゃない」
「そりゃあ、今上げた事以外でトラムが頭悩ましているといったら、ねぇ」
ちょっと待て。確かに財布を落として落ちこんでいた事はあったけど、太ったり当選宝クジの使い道に困ったりした事は無いぞ。そもそも、私の悩みはそれだけだってのかい。
「フィオ、あなたが私の事をどう思っているのか非常に興味深い時があるわ」
「時々すごくからかいがいのある反応をする素適な友人ってところかしらね。それで、随分と悩んでいたようだけど、何か問題があったの?」
「うーん、まあね。何かしっくりこないのよね。何がおかしいのかしら」
昨日書き記した楽譜を見ながらぼやく私。フィオは隣からその譜面を覗き込むと、曲をハミングでなぞっていく。
「面白いけど、確かに何か足りないような」
「でしょ? それが何かわからないのよ」
言いつつフィオのトレイからサンドイッチを一つ失敬してほおばる。
「あ、トラム! それ、一番最後に食べるつもりで残しておいたのに!」
「え? あ、ごめん。代わりに私が最後に食べるつもりで残しておいた分をあげよう」
「それはアンタが嫌いだからって食べずに残しておいたやつでしょ」
私がトマトだけ残った皿をわたすと、彼女は文句を言いながらもそれを口にする。
「んー、この美味しさがわからないとは、アナタも不幸な女」
「不幸で結構。どうせ百年経ってもその味の良さはわからないわよ」
勿体無いとは思うけど、生理的に受け付けないのはしょうがないじゃない。
二切れ目のトマトに手をつけかけたフィオの手がふと止まる。それに気が付いた私は彼女の視線を辿っていく。
辿り着いたのは私の鞄。細かく言えば鞄からひょっこり頭が出ているメトロノーム。音楽堂で貰った例のヤツだ。
「どうしたの、それ?」
私が視線を辿った事に気付いたのか、彼女は不思議そうに尋ねた。
「ちょっと、イロイロとゴタゴタがあって、その時に貰ったの」
「説明する気無いでしょ、トラム」
なんとなく話すのを面倒くさがった私にすかさずツッコミが入る。
「備品が壊れてたでしょ? 代わりにこれを置こうかな、と」
鞄から引っ張り出してテーブルに置いてみせた。
「え? でも、昨日センセが新しいの出してきたわよ」
「ありゃ?」
小さな親切のつもりだったが、大きなお世話だったらしい。それもそうよね。先生が使えないメトロノームをいつまでも置いておくはず無いわ。
「なんだ。無駄になったわね」
「結構洒落てるわね。インテリアにでもしたら?」
言いながらフィオが古びたメトロノームの針を突っついた。カチカチと正確に金属音を刻み始める。
「でも、私はあんまり部屋を飾ったりするのは得意じゃないしねー」
私の友人達は「トラムの部屋は片付いているというよりは殺風景」と口を揃えて言ってくれる。
別にいいじゃないか。私はあの部屋が落ち着くのだ。
「いらないんなら、私貰っちゃっていい?」
「フィオの部屋のどこに置くの?」
針を左右させているメトロノームを飽きもせずに眺めているフィオに、私は問い返す。
私を含めた友人一同「フィオの部屋は生活感があるというよりは夢の島」と口を揃えて評価してあげている。
あの部屋で落ち着けると言うのだからフィオも大人物と言うのか、ズボラの極みと言うのか……。
「悪いけど、せっかく貰った物だし、ウチに置くことにするわ」
言っちゃなんだが、たぶんフィオの部屋に置くよりもウチに置いた方がメトロノームのためになるだろう。
「そう? 残念」
フィオはメトロノームの針を止めると、本当に残念そうにそのフレームを撫でる。
「なんだか気に入っちゃったかも。ねぇ、どこで手に入れたの? まだ同じ物が売られていたら買いに行きたいわ」
「これ、骨董屋で買ったヤツだから同じ物はたぶん無いわよ」
「あら。トラムが骨董品とは珍しい組み合わせね。雨でも降りそう」
「本日のカオブリッツの天気は晴れ。降水確率ゼロパーセント。絶好の洗濯日和。傘なんて持って歩いていたら笑われるわよ」
窓の外に広がる快晴の空を心配そうに見上げる彼女に言ってあげる。
「私が骨董屋に行ったのはたまたま偶然が重なっただけよ」
「いったいいくつの偶然が重なればアンタと骨董品がつながるのか数えてみたいわ」
ずいぶんな言われようだな、私。
不満の残る楽譜をテーブルに置いた私は、コーヒーのカップを手にとる。コーヒーと言ってもキリマンジャロだのエベレストだのと特別なこだわりは無い。自動販売機のカップコーヒーで充分だ。
食後のコーヒーを啜りつつ楽譜を視線でなぞっていた私だったが、友人の様子が気になってそちらへと視線を移す。
「なんだか随分とそいつにご執心ね」
針こそ動かさないものの、フィオは相変わらずメトロノームを撫でたり突っついたりしている。
私の指摘に少し驚いたように、彼女はメトロノームに触れている手を引っ込めた。
「そ、そうみたいね」
なぜ、慌てる。
「ねえ、ホントに貰っちゃダメ?」
小首を傾げる私に再び尋ねるフィオ。私は少し考えてから再び首を横に振った。
「やっぱりダメ」
さっきからの様子を見て想像すると、部屋に持って帰ったメトロノームを薄笑い浮かべながら撫でまわす彼女、という少々不気味な光景が浮かんだ。人の趣味に難癖つけるのはどうかと思うが、ここは友人として止めておいた方が良いさそうだ。
「……っと、やだ。もうこんな時間」
私は腕時計を見て驚いてみせると、慌しく楽譜とメトロノームを鞄の中に押し込む。
「こんな時間って、センセの真似事?」
挙動不審なフィオから、メトロノームの貞操の危機を守るために出してきた口上に、当のフィオが上手く話を合わせてくれた。
ちょっとした付き合いから知り合いの子供にピアノを教えるようになり、音楽の家庭教師をやらせてもらっている。
「うん、そう。今日もティアンちゃんトコにピアノ教えに行くの」
生徒である知り合いの娘の名をあげた。逃げの口実とはいっても、実際に今日は教えに行く日なわけだから嘘はついていない。ついてはいないが……。
「あれ? でも授業っていつも夕方ぐらいからやってなかったっけ?」
ばれてやんの。
そう、ティアンの家に伺うのはいつも夕方からだ。そして、今日もその予定だ。
「え? ああ。その前に、ほんのちょっと、少しだけ、僅かばかり寄り道するから」
「随分と些細な寄り道みたいね。かなり時間余るんじゃない?」
「いや、余らない程度に寄り道するし」
だんだんとしどろもどろになっていくのが自分でもわかる。
私はフィオに「じゃ」と片手をあげつつ挨拶をすると逃げるように食堂を出た。
さて、夕方までどうやって時間を潰したものか……。夕方までじっくり考えよう。