♪29 魅せられて
言動の勘違い。金銭的問題。痴情のもつれ。食べ物の恨み。端から見れば些細とも思える事をきっかけに、人柄がすっかり変わってしまう。そんな人の変貌の場に立ち会った事があるだろうか。
私はある。作曲中の私も、ある意味それかもしれない。
音楽堂二番目の店員、メローヌ。艶やかな黒髪のポニーテールとモデルばりのスタイルの持ち主。手足もスラリとしなやかで、なんともうらやましい限りだ。
そんな彼女の白く細い手が掴んでいるのは銀の鎖。そして、その銀の鎖に吊るされた銀の懐中時計は、彼女の所作に合わせて静かに揺れていた。
柱時計の振り子のようにチクタクチクタク。寸分違わずリズムに合わせ、右へ左へチクタクチクタク……。
ゆらゆらと揺れる懐中時計を前に、我が友人フィオは気が抜けたようにぼんやりと立ち尽くしている。催眠術の効果は絶大のようね。
「ねぇ、セロさん。やっぱりコレ止めたほうが良くないかな?」
私は隣にいたセロさんに躊躇いがちに尋ねた。だが、彼は口元に人差し指を立て「お静かに」のジェスチャーをするだけ。私の意見には賛同する気はないみたい。
どうしよう。セロさんがそうするように、私もこのまま黙って見守っていれば良いのだろうか? そう思いながら私は店の奥にある防音室へと目を向けた。
私達がこのトロ・リボーヌ楽器店に入る前から、防音室では店長のトロさんとその甥(フィドル君だっけ?)の二人が次のライブに向けて猛特訓中だった。それをあろう事かメローヌは、店番をしていたフィオが席を外した隙を突いてその防音室へ踏み込み、二人を催眠術で眠らせてしまったのである。そして、今度は戻ってきたフィオにも懐中時計を突きつけたのだ。
フィオが防音室にカチコミをかけた時はセロさんも私も戸惑い、メローヌを止めたものかどうか悩んだ。でも、セロさんはヴァイオリンを手に戻ってきたフィオを見るなり表情が変わった。
あの時のセロさんの顔は驚いたような、納得したような……どうしたんだろう? とにかく、そのままセロさんは口を開こうともせず、静かにフィオとメローヌを見守っている。いや、目線はフィオの持っているヴァイオリンかしら?
「フィオ、こちらを向いてください」
メローヌの抑揚の無い声に呼ばれ、フィオは銀時計からメローヌへと顔を向けた。
でも、フィオの視線はメローヌには合っていない。すっかりメローヌの催眠術にかかってしまっているようで、どこに焦点を合わせる事も無くただただ虚空を漂っている。
「フィオにお聞きします。あなたは手にしているそのヴァイオリンを使いましたね。その時の事を教えてください」
メローヌは自分へ顔を向けるフィオに向かって、そう問いかけた。
「……私は、トラムと練習室で……思いつく限りの曲を……演奏しました。とても……心地良くて……夢の中にいるようで……」
止まりかけたオルゴールのようにポツリポツリと言葉を紡ぐフィオ。あの練習室での一時を思い出し反芻しているのだろうか? ぼんやりと話していたフィオの頬が次第に緩み、恍惚とした表情に変わっていく。
「気持ち良かった……澄んだ泉に身を浸して……そのまま溶けてしまいそうで……」
同じく練習室で演奏していた私にも彼女の感想は良くわかる。あの澄んだ泉のような音色を思い出せば、思わず恍惚としてしまう。
「もう一度……味わいたい……何度でも……感じたい……」
でも、こうして今のフィオを客観的に見ているとなんだか怖いかも。演奏の後で音楽堂のみんなに感想を話していた私もこうだったのかしら? それはちょっとイヤだな。
がっちり催眠状態のフィオには、引き気味の私など見えていないのだろう。今すぐにでもあのヴァイオリンの旋律を奏でたくなったのか、両手に抱えていたヴァイオリンケースに手をかけ……。
「……え?」
声が漏れたのは私か、フィオか。
まさに一瞬の事だった。店内に一陣の風が生まれ、風はフィオをかすめて彼女の背後で止まった。
「……あれ? ヴァイオリン……無い……」
手元にあった革の質感が消え失せ、フィオは不思議そうに両手を見る。
そして、私の隣から飛び出た一陣の風、セロさんの手元にはフィオの持っていたはずのヴァイオリンケース。まさに、電光石火の早業というヤツね。
「フィオさん、あなたがこれを手にするのは止めたほうがいいですよ」
ヴァイオリンケース片手に困り顔でフィオに言うセロさん。
だけど、催眠術にかかっているせいなのか、今のフィオは彼の声に振り返るという事もしない。両手で虚空を握っては放し、何も掴めていない両手を見てはまた握るの繰り返し。まるで、そこから先の行動への移り方がわからないかのように。
「フィオ。あのヴァイオリンはあなたには過ぎた代物です」
メローヌもまた、懐中時計を振りながらフィオを諭す。
「……どこ? ……ヴァイオリン……」
対するフィオはメローヌの言葉も届いていない。両手からようやく顔を上げたフィオは、自然と眼前のメローヌへ向く。
「あなたに災いをもたらすモノなのです」
「……ヴァイオリン?」
「ですから、あれは私達が……」
「……ドコニ、消エタ?」
わずかにフィオの声色が変わる。先程までの抑揚の無い声ではない。もちろん、いつもの陽気で元気な声なんかじゃない。底の無い沼の底から響くような、聞いた者をその泥沼に絡めとってしまうような。
どうにも事態は愉快とは言えない方向に進んでいる。私は説明を求めるようにセロさんを見つめる。セロさんは困り顔で溜息をつくと、私を見返した。
「いやはや、私も現物を見るまではまさかと思っていたのですがねぇ。フィオさんはどうにもこの手の引きが良いのか悪いのか。このヴァイオリンは――」
そこまで言いかけて、セロさんの困り顔が眉根を寄せて苦い物でも噛み潰したような渋い表情へ急変する。
「メローヌ君!」
セロさんが声を上げ、ヴァイオリンケースを私に向けて放り投げた。私は慌ててそれを受け止めようと手を伸ばし、視界の端に見えた光景にドキリとする。
つい今まで呆けていたのが嘘のように、フィオはメローヌに飛び掛っていた。
「ちょ、ちょっと、フィオ!」
「ヴァイオリンヲ、ドコニヤッタ!」
慌てる私の声など聞いちゃいない。フィオはとても彼女とは思えない唸り声を上げながらメローヌに押し倒した。尻餅をつくメローヌになおも掴みかかろうとするフィオを、間一髪でセロさんが組み伏せる。
フィオの変貌に戸惑う私。でも、頭のどこかは冷静に、彼女の変わりように思い当たる出来事を記憶から引き出していた。そして、記憶から打ち出された仮説は、ワンテンポ遅れて手元に飛び込んできたヴァイオリンケースの感触に立証される。
指先がケースの黒革に触れた途端、初めてこれを見た時に感じた寒気が再び全身を襲う。私のうちから響く本能の警鐘。メローヌを前にしたフィオが感じるような、捕食者を前にした獲物だけが感じる恐怖。
コイツには私の中の何かが喰われる。メトロノームだった頃のメローヌと同じ。いや、フルーに言わせれば『鈍い』私さえ恐怖するのだから、そのチカラはメローヌ以上か。
「トラム先生、放さないでください!」
すっかり逃げ腰になってヴァイオリンケースを放り出そうとした私にメローヌが叫ぶ。って、そんな無茶な事言わないでよ! 今にも噛み付こうとする狂犬を抱きかかえる程の物好きじゃないわよ、私は!
「トラムさん、放しちゃダメですよ……。フィオさんが今にもその子を取り返しかねないんです」
そう言うセロさんの下で、フィオは言葉になってない声を張り上げ、手足をばたつかせて暴れている。常人に勝る腕力を持つセロさんをしても、押さえ込むのがやっとという感じだ。
私は小さく弱々しく頷きヴァイオリンケースを持ち直した。
怖いはずだったそれは、目の前の変わり果てた友人の姿を見る痛ましさによって消えてしまった。恐怖が消えた? 違うわね。怖いものは怖い。でも、それ以上にフィオを変貌させたコイツが憎くなったのだ。
世にも奇妙なヴァイオリンめ、アンタの好きにさせてなどやるものか。
私はヴァイオリンケースを締め上げるように抱き込むと、フィオから離れようと後ずさる。
「で、でも、セロさん? 私は大丈夫なの?」
私はフィオのようにヴァイオリンに魅了されないのだろうか?
「それは心配御無用です」
それってつまり……私が鈍いから?
「基本的にそのヴァイオリンは演奏する者のチカラを糧として聞く者を魅了する。聞けばもう一度使いたくなり、使えばさらに魅了が深まるという悪循環なのです」
その言葉を聞いて納得。同時に私の頭にいくつかのオペラが浮かんだ。
百発百中の弾丸を得た者。その者が最後の一発を撃った時に何が起きたか。全ての願いを叶えてやろうと言われた者。その者が最後に禁忌を言った時に何が起きたか。では、このヴァイオリンを堪能しきった者の末路は……。
「つまりは、使わない限りはただの骨董品ですよ。……って、メローヌ君。早いとこフィオさんを催眠術で落ち着かせてください」
「そうしたいのは私も山々です。ですから、店長はフィオを揺らさないでください」
「いやぁ、私もそうしたいのは山々なんですけどね……」
眠らせようと四苦八苦するフィオとセロさんだが、暴れる彼女を相手になかなか進まない。
「どうしちゃったのよ、セロさん! いくら元気が取り柄のフィオでも女の子よ? セロさんが抑えられないわけが……」
「トラムさんは人の持つチカラの強さをご存知ないようですね。普段は無意識のうちに自分の力を半分以下に抑えているのです。ですが、今のフィオさんはヴァイオリンの魅了とメローヌ君の暗示によってタガが外れてしまっている」
「店長、それは失言です。私の暗示はフィオを沈静させるように行ったのですよ」
セロさんの説明にメローヌが不満そうに抗議した。
「あっと、すみません。そうですよね。しかし、それでもこの暴れようなのですから、それだけフィオの演奏が素晴らしかったのでしょう」
「演奏が素晴らしいと……暴れる?」
確かに、あの時のフィオの演奏は魅了されても納得できるものだったけど。
「そりゃあ、そういうものですよ。いくら持ち主のチカラを喰らうとは言っても、これは楽器です。使う人のセンスによって魅了する力も変わってくるってもんです。あ、メローヌ君! フィオさんの顔が止まった。今です、今!」
「つまり……」
「フィオはフィオ自身の演奏によって、深く濃く魅了されたのです。昨日の演奏一回でここまで魅了したフィオは、相当の腕前のようですね。って、ですから! 先程から動かさないでくださいと言っているじゃないですか、店長!」
メローヌの言葉は褒めているのか、皮肉ってるのか。
私は遅々として進まないフィオの再催眠から手元のヴァイオリンケースへ視線を移す。
一か八か……やってみるか。
「いやはやなんともはや、この暴れようは小さい頃のフルー君を思い出しますね」
「フルーお姉様の幼少期については非情に興味深いですが、今は真面目に対処してください、店長!」
目下悪戦苦闘中の二人に向かって歩きながら、私はヴァイオリンケースに手をかけた。
「セロさん!」
「は、はい!」
怒鳴るような私の呼び声に、セロさんはもちろんメローヌも一緒になって顔を上げた。私はケースからヴァイオリンを引っ張り出すと、彼の鼻先に突きつける。
「これ、弾いてください」
「……はい?」
目の前のヴァイオリンと私の顔を見比べながら戸惑うセロさん。
「店長、弾いてください」
私の考えを読み取ったのか、メローヌもまたセロさんにそれをせがむ。
「いや、しかし……」
私とメローヌ、それにヴァイオリンとあちらこちらへ視線を移しながら、なおもセロさんは躊躇う。そうね。音痴だってみんなに知れ渡っているのに、弾いた事もないヴァイオリンを演奏しろと言っても無理よね。恥ずかしいよね。
でもね、だからこそなのよ。私だって自分で弾きたい衝動と戦っているのよ。だから……。
「早く弾きなさい!」
「は、はい!」
セロさんは私の剣幕に慌てふためき、急いでヴァイオリンを受け取った。それと同時に私はセロさんに代わってフィオの押さえ込みにかかる。
セロさんが必死になって押し留めていた狂気のフィオに、私が太刀打ち出来るとは思っていない。わずか一音鳴らすだけの間だけでもいい。私が時間を稼がないと……。
「ウガァァァァァッ!」
「あれ?」
意気込んでフィオに覆い被さった私だったが、彼女の手によって軽々と放り投げられてしまった。うーむ、人間の潜在能力恐るべし……。
だけど、私は宙を舞いながら自分の役目が終わった事を確認し、少し安堵した。
私を投げ飛ばしたフィオは、続いて目標をセロさんに定めている。でも、そのセロさんはすでにヴァイオリンを構え、手にした弓を弦に乗せていた。
呪われたヴァイオリンよ。
汝は、演奏する者のチカラを得て聴く者を惑わせる旋律を生む。汝は、演奏者の技術に比例した魅惑の魔曲を紡ぎ出す。
ならば、心して奏でられるがいい、ヴァイオリン。おまえを手にした彼の者は、音痴の塊。破壊的な負の旋律を生む不協和音の化身なり。
「王手よ」
私はニヤリと笑みを浮かべ、両手でしっかりと耳を塞いだ。
今回は少し毛色の違う話になってしまったような……。とにかく、フィオはこの手の引きは悪いようですね。
さて、このエピソードも大荒れする事無く……ええ、荒れる事無く、終盤に向かっております。でも、ここから先どう書いていくつもりだ、私。