表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/42

♪24 新しくて古い

 朝のまどろみの中で呟く、もう五分だけ。お菓子が美味しくて、もう一つだけ。そんな『もう少し』が、気が付いたらとんでもない量になっていた事は無いだろうか。


 私はある。あの時の私とフィオは、まさにそれだった。




 ここは聖フォンヌ音楽院。言わずと知れた音楽を学ぶ学校。音楽界の明日を担う者になろうと生徒達が日々精進する場所。当然のように音楽の練習用に設けられた部屋も多い。


 練習室の並ぶ廊下を足早に進むフィオは、予約してあった一室を見つけるとそそくさと中に入っていく。彼女に少し遅れて私が練習室に入ると、彼女は早速ヴァイオリンケースを開いていた。


「さて、このヴァイオリンの記念すべきデビュー一曲目。何にしようかしらねー」


 鼻歌混じりでヴァイオリンを爪弾く姿からは、手にしたヴァイオリンを早く奏でてみたくて仕方ないという意思がありありと見えた。その気持ちは私にもよくわかるわよ。私がフィオと同じ立場だったら、きっと同じように浮かれているだろうし。


 でも、今の私はフィオじゃない。つまりは、浮かれる側じゃない。


 私は、浮かれているフィオと彼女の手にしたヴァイオリンをどこか冷めた目で見ている。このヴァイオリンを初めて見た時に感じた違和感が未だに肌に残っているものだから、それは尚更というものだ。


 そんな私に気付く事もなく、フィオは緊張と興奮の混ざった顔でヴァイオリンを構える。


「ねぇ、明日にしない?」


 今まさに弦の上を弓が滑ろうとしたタイミングで私はフィオに尋ねた。当然のように、出鼻を挫かれたフィオは不満そうな顔を私に向けてくる。


「ちょいちょい、トラムさん。ここまで来てそりゃないっしょ」


 それもそうか。フィオはこのヴァイオリンを弾く為に練習室を借りて、私達はその練習室に来ていて、フィオの手にはヴァイオリンがあって、私の前にはピアノがあって……イヤだと言うには遅すぎるわね。


 私は観念して椅子に座るとピアノの鍵盤を前にした。


「ゴメン。あまりにもフィオが浮かれているから、つい意地悪を言ったわ」


 そんな軽口を言いながら。


「ひっどいなぁ。上手くいけばこのヴァイオリンが手に入るかもしれないのよ。そりゃ、浮かれもするでしょうよ」


 私の冗談に苦笑いを返すフィオ。


「よし。せっかく協力してくれてんだから、ここはトラムのリクエストに答えちゃおう」


 フィオは抗議こそしたものの、私が乗り気じゃない事は見抜いたらしい。私の機嫌を直させようとそんな提案をしてきた。


 フィオのヴァイオリン奏者としての腕前はなかなかのもの。演奏可能な楽曲も私より豊富で、私が弾ける曲なら彼女も弾ける。これで普段「車のドップラー音を極めてやる」とか馬鹿な真似をせず、真面目に練習すればコンクールなどでもきっと良い成績が出るだろう。いわばダイヤの原石のような子だ。


 そんな彼女の演奏を聞けるのも悪くないわね。こっちは一度弾くと決めたのだし、ここはヴァイオリンの事は深く考えずに演奏を楽しませてもらいましょうか。となると、何を演奏するかってのが問題で……。


 私が考え込んでいると、しばらく見ていたフィオが突如思い出したように手を打った。


「そうだよ! あれなんかどう?」


「あれって、どれよ?」


「この前トラムが口ずさんでいたやつ。確か……優しい狼と陽気な虎だったっけ?」


 彼女が提案したのは私が作曲した曲だ。というか、リクエストに答えるとか言っておいて自分でリクエストしますか。


「ちょ、ちょっと、それを選んでくれるのはありがたいけど、もっと他にも演奏できる曲ならあるでしょ? それをわざわざあの曲って……」


「いいじゃん。私、あの曲結構気に入ってんだ」


 う、嬉しい事を言ってくれるじゃないの。


「……いいの? あの曲、譜面も無いけど」


「私の耳コピーを侮ってもらっちゃあ困るってもんよ、トラム。それに、万一間違えても譜面が無いなら間違いかどうかもわかんないし」


 嬉しい反面、弾ききれるかどうか悩む私に、ニシシと笑いかけるフィオ。彼女の方は自信満々で今にも演奏を始めそうだ。


 フィオが褒めてくれたのだし、あの曲で良いかな。私は彼女の提案に同意するように頷いてみせた。


「うん、わかった。それじゃあ、あの曲で行きましょ。でも、譜面が無くてもあの曲は私の頭の中にガッチリ入ってるからね。間違えたら指差して笑ってあげる」


「うひー、プレッシャー」


 私の言葉にフィオが悲鳴を上げてみせる。でも、その顔はどこまでも楽しげだ。彼女の演奏に向ける姿勢はいつも楽しそう。このどんな演奏でも楽しめるお気楽さは、私も見習うべきかもしれないわね。


 私はフィオに笑い返す。それが始まりの合図であるかのように。


 ピアノに向き合った私は伴奏を開始した。鍵盤の上を私の両手が跳ね回り、紡がれた一音一音がメロディーを生んでいく。


 目を閉じて私の演奏を聞いていたフィオは、自分の出番が近付くとゆっくりと目を開けてヴァイオリンを構え直した。彼女の手にした弓が弦に触れる。


 そして、ついに奏でられたフィオのヴァイオリン。練習室に響いたその音色に思わず聞き入ってしまった私は、危うく演奏の手を止めるところだった。


 一言で言えば、深い。


 新たにフィオの手に渡った古いヴァイオリン。彼女が手にする前には、いったいどれだけの人の手にあったのだろう。そんな歴史を感じさせる洗練された響き。澄みきった湖のようでありながら、それでもその底が見えない程の深み。


 私がこのヴァイオリンを一目見て感じた寒気は、この底無しの音色を直感してのことだったのかもしれない。


 綺麗過ぎるというのは、時に恐怖さえ感じさせるものなのね。聞いている私がそう感じるのだから、奏者であるフィオはもっと強く感じているに違いない。


 私はちらりとフィオの様子を盗み見た。フィオは私の視線など気付く様子も無く、演奏に熱中している。彼女もこうも心地良い音を出せたら、演奏が楽しくてしょうがないだろう。


 曲の終盤に差し掛かる頃には、私もフィオもこのヴァイオリンの音色をすっかり気に入ってしまっていた。


 そして、名残惜しいけど演奏は終焉へと進んでいく。


 最後のピアノ伴奏を私が弾く中で、一足早く全パートを弾き終えたフィオは最初と同じように目を閉じて演奏を聴いている。ただ、その心境は大きく変わっているだろう。演奏を終えた私とフィオは、お互い目を閉じたまましばらくの間無言で余韻に浸っていた。


「すごいわ、この子」


 やがて目を開けたフィオが溜息混じりに呟いた。その顔は上気していて、未だ興奮冷めやらぬといった御様子。


「だね。私もビックリした」


 かく言う私もフィオの事をとやかく言える状態ではない。だって、こんな超絶美麗な音色を耳にしたら、誰だって穏やかじゃいられないわよ。


「そんなトラムに提案だけど……」


 そういうフィオの目を見れば、提案の内容はすぐに理解できた。そして、聞くまでもなく頷き返した。


 もう一曲やらない? これが彼女の提案。もうワンテンポ遅れていれば私の提案になっていたに違いない。それほどにフィオとの演奏が楽しい。ヴァイオリンの調べが美しい。


 クラシックの定番やら、流行のポップスやら、私達はお互いの思いついた曲を休む間もなく次から次へと、時間の許す限り演奏し続けた。




「うひー、まずい! 遅れた! 大遅刻ー!」


 日が暮れた港町カオブリッツ。街灯に照らされた石畳の通りを、私は情けない悲鳴を上げながら全力で走り続けている。


 いや、だって今日は例によって夕方から音楽堂でフルーの勉強を見る約束をしていたんだもの。そして、いまは夜だもの。急がなくてどうしますか。


 音楽院でのフィオとのセッションは練習室の使用時間ぎりぎりいっぱいまで続き、その後も私達二人して演奏の余韻に浸っていた。そして、気が付いたら夕日の影も形も見当たらない時間になっていたのだ。


 私は息を荒げながら腕時計を見る。走っているせいで上下に揺れる時計の針が指し示す時間を見て、私は溜息をつきそうになる。実際に溜息が出なかったのは、それだけ全力で走る事に集中していたせいだ。


 別に仕事としてやっているわけじゃない。でも、だからと言って教えると約束しておいて、遅れるわけにはいかないよね。ようやくフルーもやる気になってくれたんだし。


 私は悲鳴を上げる両足を鼓舞すると、もう一度全力疾走。ピッコロベーカリーの店先に漂うパンの芳しい香りに、ちょっと寄り道したくなるけど我慢して通り過ぎる。店の角を勢いよく曲がった私は、躓きそうになりながらも目的地を視界に入れた。


 骨董屋音楽堂。ほんの少し前までは、その存在すら知らなかったお店。それが今やすっかり常連さん。もっとも、ほとんど冷やかしなんだけど。


 音楽堂に向かってひた走る私の存在に気付き、出迎えるかのように店の扉が開く。


 でも、そんな器用なお店があるわけないわよね。たまたま偶然、別の理由で扉が開かれただけ。その証拠に店の中からひょっこり顔を出したフルーが、扉にかけられた営業中の札を準備中にひっくり返している。


 それでも、今の扉が開かれたのはありがたい。ここまで休み無しで走り続けていた私は、扉を開ける元気も無いほどに疲弊していたのだ。


「フルーちゃーん!」


 用を済ませて店内に引っ込もうとするフルーに私は声をかけた。突然名を呼ばれたフルーは少し驚いた顔で辺りを見回し、夜の通りに私の姿を見つけて不満顔になった。


 不満顔になった理由はわかっている。わかっているから、先に謝っておこう。


「ごめん! 遅れ……って……たわぁっ!」


 油断した。いや、フルーの姿を見て安堵してしまった。そんな私の気の弛みは即座に足に伝わり、一瞬走る事を忘れた私の両足が石畳に引っかかる。結果的に、私は謝りながら派手に転んだ。


「あわわ! ちょ、ちょっと、トラム! 大丈夫?」


 鞄の中身をぶちまけながらゴロゴロと転がる私に、フルーが慌てて駆け寄る。


 大丈夫じゃないです。痛いです。とても痛いです。泣きたくなる程、痛いです。


「怪我とかしてない?」


 それでも、心配そうに見つめるフルーに気を使わせたくなくて。


「うん、大丈夫。いやー、見事に転んじゃったよ、アハハハ」


 強がってみたりする。


「って、おでこから血が出てるじゃないの!」


 やっぱり大丈夫じゃなかった。


「ごめん。実は凄く痛い」


「そうだ、絆創膏! 確かお店の棚にあった!」


 そう言ってフルーは踵を返し、音楽堂の中へと駆け込んでいく。


 骨董屋の棚に並べる類の物じゃないだろうに……。でも、この店にならあっても不思議じゃないと思えるのが不思議なところだ。


「って、慌てて走ると転ぶわよ!」


 今経験したばかりの私が言うんだから間違い無い。特に、この店の中は危険だ。何せ、転ぶと漏れなくオマケが付いてくるのだから。


「わきゃー!」


 言っている傍から音楽堂の中から響くフルーの悲鳴と転倒音。そして、その声と音とを押しつぶすかのような骨董雪崩の大音響。


 ああ、またやってしまったのね……。


 開けっ放しだった扉から流れ出る骨董品達を目にしながら、私は深い溜息をついた。


 ……あ、絆創膏発見。


うぅ、風邪を引きました。

来週更新分、間に合うだろうか……。大ピンチです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ