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♪19 坂の下の悲劇

 ジュースを買おうと立ち止まった自動販売機の前で、うっかり落とした硬貨がコロコロと転がって近くのドブ川へポチャン。電話がかかってきて、うっかり受話器を取り落としてしまい、そのまま切ってしまう。そんな過失から不運の連鎖に見舞われた事はないだろうか。


 私はある。そして、我が親友にも心当たりがあるようだ。




 その日、私トラム・ウェットは、小さくハミングを続けながらペンを走らせていた。


 時折ハミングは途切れて、その都度サンドイッチを齧ったり、コーヒーを啜ったりと口元は忙しい。でも、もっと忙しいのはペンを握る手だ。テーブルに所狭しと広げられた五線紙達の上を、私のペンが縦横無尽に駆け回っている。


 聖フォンヌ音楽院内にある食堂。その一角に陣取った私は、趣味である作曲の真っ最中。


 今回浮かんだテーマは少女の恋の物語。淡い恋心を如何に伝えようかと奔走し、友人達に見守られ、時には焦れて涙も流し、最後に思いが成就するというハートフルロマンス。え? 自分の過去を題材にしてるんじゃないかって? 違うわよ。


 そして、曲は少女と少年がお互いの思いを伝え合うフィナーレへ向かい、ペンを握る手に力が入る。さあ、私よ。彼女達を幸せの野に送り出す天使となるのだ!


 ペンの走る勢いが増し、コーヒーの入った紙コップが倒れるのも無視し、幸福の階段を駆け上がる少女達を描く事にのみに集中する。


「んー……ヨシッ!」


 曲の終焉と共に書き上げた渾身の一作。私は作品を前に、タクトを振る指揮者の如くペンを構えたままで、しばらく楽曲完成の感慨にふけっていた。心の中では客席は総立ちになり、拍手喝采の嵐が巻き起こっている。


「何? 指揮科にでも転向する気なの?」


「あー、今の私なら出来るかも……って、フィオ!」


 背後から急に声をかけられ、私は慌てて振り返った。後ろに立っていたのは親友フィオ・ディーン。食器の乗ったトレイを持つ彼女は、私に向かって呆れ顔で溜息をつく。


「トラム……前々から言おうと思っていたけど、作曲は人のいない所でやったら?」


「……あ、そうね。そうよね。ここじゃ食事中のみんなに迷惑かかっちゃうわね」


 反省する私の向かいの席に座ったフィオは、もう一度溜息をつきながらそうじゃないと首を振って見せた。


「百面相。ニヤニヤしてると思ったら、急に泣きそうな顔になったり怒ったり、そうかと思えば晴れ晴れとしてって、見てる方が怖いわよ。ドン引きするわよ」


 私って、そんなことになっていたの?


 思わず赤面して俯く私に追い討ちをかけるかのように、フィオの深い溜息が響く。


「ま、それだけ打ち込めるものがあるってのは、良い事なんだけどさ。それで、できあがったのよね。見てもいい?」


 俯いたままの私は、彼女にねだられるがままに五線紙を渡した。羞恥心に打ちのめされそうな私は、黙って彼女の感想を待つ。


 そして、その沈黙の時間に違和感を持った。……おかしいわ。何かが違う。


 そう。今までにもフィオに楽譜を見てもらった事はあった。でも、そんな時、彼女は黙って読んだりしなかったわ。基本的にハミングしながら曲をなぞるし、褒めるところは褒めてくれるし、けなすところはけなしてくれる。こんな黙って譜面を読むなんて事は……。


 おそるおそるフィオを盗み見る。いつもと雰囲気は違うながらも、楽譜はしっかり見てくれている。ただ、その表情はどうも冴えないわね。


「……フィオ、何かあった?」


「うーん。あったねー。痛い目見ちゃったよ」


 私の問いに、フィオは気だるそうに返した。


「痛い目って、怪我でもしたの?」


 トレイを持っていた彼女を思い出す限り、包帯とか絆創膏とか怪我らしい痕は見られなかったけど。


「ううん、私は平気」


 それは何より。フィオの言葉に私はホッと胸を撫で下ろし……。


「でもねー、ヴァイオリンが壊れちゃったのよ」


 思わず言葉を詰まらせた。


 わちゃー。フィオのヴァイオリンって、結構な代物だったはずよね。


「壊れたって、修理するのにいくらぐらいしそうなの?」


「人通りでぶつかった拍子にケースごと落としてねー。そのまま坂を転がり落ちてって、私が追いついた時には車に踏まれてペシャンコ。修理不可能、再起不能。ご愁傷様」


 再び、わちゃー。あのヴァイオリンって、ずっと大事に使い続けてきた思い出の品だってフィオ言ってたわよね。


 これで、フィオの元気が無い理由がわかったわ。わかったのだけど……。


「フィオ……なんていうか、その。無理かもしれないけど、元気出してね」


 そんな当たり障りのない定番の励まししかできない自分が不甲斐無い。


「うん、ありがと。さすがに泣いたわ。で、泣いて寝て起きたら気が晴れた」


 そう言って気丈に笑って見せるフィオ。その笑顔は、作曲中の私の顔とは別の意味で見ていて痛い。


 沈痛な面持ちでいる私に気付いているのかどうか。フィオは読み終えた楽譜を整えると私に返してきた。


「女の子の恋を描いた曲よね。悪くないんじゃない? 最後の破局するところなんか、なかなかエキサイティングだし」


「待て」


 私は眉根を寄せてツッコんだ。曲のテーマは伝わっているくせに、なんで終盤のイメージが破局になってんのよ。


「最後はハッピーエンド。二人はめでたくゴールイン。典型的なバカップルが一組出来上がるのよ。どこをどう解釈すればエキサイティングに破局するのよ」


 そうか。今の彼女はヴァイオリンが壊れて極めてネガティブ思考なのね。だから、この乙女の甘酸っぱい恋物語さえ、ドロドロの悲恋歌に見えてしまうのね。


「えー? いや、だって、この流れはそうでしょ」


 猛抗議する私に対し、フィオは困ったように譜面を指差した。彼女の指の動きに合わせて、私は曲をハミングする。


 ほら、ごらんなさい。楽譜の中の少女達は互いの思いを打ち明けあって……あれ? いやいや。……おや? でも、だって……。あっれー?


「破局してるっぽいわね」


「でしょ?」


 ほらごらんと言いたげに私を見返すフィオ。なんてことなの。恋を成就させる天使である私が、彼女達を幸せの階段から蹴落としてしまっている。やっぱり自分の過去を題材にしているからじゃないのかって? 違うというのに。……いや、ホントに。


 呆然とする私の様子を見ながら、フィオはニヤリと笑みを浮かべた。


「まあ、実体験を元に作った曲なら、こういう結末は必然なわけよね」


「待て。それは断じて違うから」


「うん、知ってる。トラムって色恋沙汰の経験無いもんねー」


 そう言うと、フィオは悪戯っ子のようにニシシと笑う。


「フィオ! 知ってていうか、この子は!」


 私は頬を膨らませた。少女の恋物語、改め幼い失恋劇の楽譜を丸めて、笑うフィオの頭をポコリと叩く。


 それは、親友とのいつもどおりのじゃれ合い。ただ、今日のフィオはいつものように大げさに痛がったり、大笑いしたりしなかった。


「からかってゴメン。でも、おかげで元気出たよ」


 フィオは少し微笑んでくれた。


「そ。ならばヨシ。今日のところは勘弁してあげるわ」


 私も微笑み返す。少しは元気が出たみたいで良かった。例えその代償として、私の恋愛経験ゼロの事実が暴露されたとしても……。うぅ、フィオ。落ち込みたいのは私も同じよ。


「それでさ。事情が事情だからって学校の備品貸してくれたんだけど、ずっと借りたままってわけにもいかないじゃない? 新しくヴァイオリンを買おうと思うんだけど……」


「お金が無い? 言っとくけど、私だって無いわよ」


 先回りして結論を言った私にフィオが固まった。


 しばしの沈黙……。彼女が固まっている隙に、私は自分のサラダからトマトを摘出し、彼女の皿に移す。


「そうなのよねー。私達貧乏人にはおいそれと買える額じゃないのよねー。っていうか、どさくさに紛れて何してるのよ」


 自力で復活したフィオが私を睨む。


「いや、私がフィオにしてあげられる援助というと、これぐらいかと」


「だから、それはトラムがトマト嫌いなだけでしょうが。好き嫌いは良くないわよ」


 フィオは叱りながらもそのトマトを頬張った。


「正直トラムから借りようとも思ってなかったから、いいんだけどさ。代わりと言うのもなんだけど、仕事紹介してくれない?」


「それこそ学生に頼む事じゃないでしょうが。スーツ着て面接行ってきなさいな」


 私はフィオの頼みをあしらいつつ丸めた楽譜を開いた。今度こそ、この少女の淡い恋心を見事に成就させてやらねば。


「でも、この前家庭教師二つ掛け持ちは大変だって、トラム言ってたじゃないの。一つ私に任せてよー」


 食い下がるフィオの言葉に、私は食べかけたサンドイッチを喉に詰まらせた。急いで飲み物で流し込もうと、コーヒー入りの紙コップを掴む。空っぽ? なんで?


「さっきアンタがこぼしたんでしょうが」


 あたふたと慌てる私を見かねて、フィオが自分の飲み物を差し出した。私は彼女の優しさとか友情とかに心から感謝しながら、それを口に含み……そして、噴き出す。


「だー! 汚いなー、もう!」


 むせ返る私に抗議するフィオ。でも、私は咳き込むのに必死で返事もできない。


「フィオ……な、何を、飲んでるのよ」


 ようやく話が出来るようになると、私は息を荒げながら彼女に問う。


「何って、トマトジュース……あ」


「あ、じゃないわよ! 私トマトがダメだって知っての狼藉なの?」


「まあまあ、喉の詰まりは収まったんだし、いいじゃない。それで、家庭教師の話だけどさ」


 怒る私を宥めながらも話を戻そうとするフィオ。彼女には悪いが、その相談に対する私の答えは決まっている。


「悪いけど、それはできないの。二つ掛け持ちって言っても、片方は私がボランティアでやってるんだから」


 私が家庭教師として教えているのは二箇所。一つは小学生ティアン・メイソンのピアノ。そして、ボランティアで教えているのが音楽堂店員フルーの読み書き。もう一つおまけに音楽堂店長セロさんの音楽。この中で私の収入になっているのは、ティアンちゃんだけなのだ。


「そうだったの……」


 私の言葉にフィオが諦めたように呟いた。


「トラムにもボランティアの精神があったなんて、驚きだわ」


 この子は、ちょっと元気になったと思ったら……。


「まったくもう、私の事をなんだと思ってるのよ。とりあえず、私の方でもバイトとか探してみる。何か見つけたら連絡するわね」


 言いながらテーブルの上を片付け始める私。


「なに? ティアンちゃんチへ稼ぎに行くの?」


 私は尋ねるフィオに向かって首を振りつつ席を立つ。


 フィオと話し込んでいたら、危うく忘れるところだった。もっとも、今日の生徒は私の遅刻を望んでいるかもしれないけどね。


「残念。それは明日。今日はボランティア精神をお見せする日よ」


 今日は音楽堂でフルーの勉強を見てあげる日だ。


 私はフィオに手を振って別れ、一路音楽堂へと向かった。




 恐れるという事は臆病かもしれないが、恐れて臆病になるからこそ学習し、進化できる事もある。


 私は音楽堂の看板を見上げながら、そんな事をふと考えた。そして、こうも考えた。


 良くあろうと思う向上心もまた、進化する為の起爆剤となりうる。


 何が言いたいかと言うと、目の前の扉のこと。音楽堂の入り口。


 この店の扉を開けるたびに災難に見舞われている気がする。いや、見舞われている。それでも、私は行かねばならない。フルーの学力向上の為に。


 私は意を決して扉に手をかける。


 そっと音楽堂の扉を開き、中の様子を窺う。良かった。今日は何も雪崩れてこない。


「こんにちはー」


 安心して店の中に入った私は、店内を見て驚いた。


 なにこれ? なんで? どうしてこんなに店の中が片付いているの?


 店の入り口に立ちすくんだまま困惑していた私だったが、店内にいた女性を見てもう一度驚いた。


 この店にもお客さんが来るのね。


 豊かな黒髪をポニーテールにした長身の女性。スタイルも良くてモデルみたい。目元で光る細めの眼鏡が知的で、澄ました顔はクールビューティーという言葉が良く似合う。


 思わず見とれしまった私。そんな私の視線に気付いた女性は、こちらを向いて深々と頭を下げた。


「いらっしゃいませ」


 その言葉と彼女の身に付ける音楽堂ロゴ入りエプロンに、彼女が店員である事を知った私は更に驚いた。


 ……って、誰?


新エピソードに入りました。

フィオ再登場の今回のお話はいったいどうなることやら……。

私にもわかりません。

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