♪1 石畳と坂の街
いつ雨が降ってもいいように、鞄に折りたたみの傘を入れている。それがある日、うっかりその傘を鞄から出して出かけてしまい、そういう時に限って雨に降られる。そんな肝心な時に限って忘れてしまった、という事がないだろうか……。
私はある。例えば、あの時がそうだった。
「……あ、れれ?」
私、トラム・ウェットは歩道で立ち止まり、鞄の中をガサゴソとかき回していた。
うーん、細かな状況を話す前に、いくらか私の事を紹介しておく必要があるわね。
名前はトラム・ウェット……というのはすでに言ったか。
この港町カオブリッツにある聖フォンヌ音楽院の二階生の女の子。いや、子は付けてもらえなくなって久しい。
体格はスレンダーといえば聞こえはいいけど、出ているところが無いのもいささか考えもの。あのグラマーな母親から自分が生まれたと思うと、もう少し栄養を分けてくれても良かったんじゃないかしらと思う事もしばしば。セルフレームの眼鏡をかけている顔も、体型に似て細身。顔立ちの良し悪しに関しては、悪くは無いと思うのだけど褒められた事も無い。ポニーテールにしているイチゴブロンドの髪は、毎日しっかり手入れしているのでちょっと自慢したいかな。
さて、音楽院に行っているわけだから楽器の演奏もできる。母親の趣味で始めたヴァイオリン。父親の趣味で始めたピアノ。きっかけは他人任せだが、今は好きでやっているのだから主体性が無いとか親の言いなりだとか言わないで欲しい。
小さい時からいろいろと曲を聴いて育ったわけだが、何も音楽は外から入ってくるばかりじゃない。自分の内面から奏でられることだってある。突然頭に浮かんでくる曲を五線紙に書き起こすのが私の趣味。だから、出かける時はまっさらの五線紙を鞄に入れておくようにしている。そう、普段は……なんだけど。
でも、今日に限って頭に浮かんだ音色を書き記す五線紙が鞄の中に無かった。
「あ、そうか。昨日無くなったんだ」
昨日のことを思い出して、私は鞄を漁る手を止める。
うっかり忘れていた。昨日アパートに迷い込んだ大家の猫が、私の部屋で大暴れして買い置きの五線紙を全部破ってしまったんだ。その後、猫の喧騒をイメージさせるかのような曲を思いついて、鞄の中の五線紙を引っ張り出して使っちゃったんだわ。明日の朝にでも新たに買ってこなきゃいけないと思いながら眠りについて、今朝になったら何事もなかったようにいつもどおりの調子で出かけて……。ああ、そうだった、そうだった。
「あーもう、シンバルめ……」
シンバルというのが大家の猫の名前。ポテッと太った無愛想な顔の雌猫。飼い主に似るとは良く言ったものね。
大家の猫シンバルのおかげで、せっかく浮かんだ曲も頭の中で演奏を終えたら、日常の記憶の中に埋もれて消えていくのだろうな。そう思うと、とても勿体無い気がした。
いや、諦めるのはまだ早い。曲の演奏が終わる前に。日常の記憶に埋もれて消える前に五線紙を手に入れてしまえば……。そうよ、まだ間に合うわ。
「パウロ文具店」
目指すべき地を口にすると、私は足早に通りを歩き出した。
我が町、港町カオブリッツは音楽学校があることもあってか音楽に関わる店も多い。私の向かう店も類に漏れず、五線紙なんかも扱っている。
あそこに行けば問題無い。頭の中の曲もまだ続きそうな勢いだし、大丈夫。
そう言い聞かせながら向かったパウロ文具店は……。
「本日休業?」
下ろされたシャッターに貼り付けられた張り紙。思わずその文字を声に出して読み返していた。
そうだ。店長のジェーンお婆さんが商店街のクジで一等海外旅行引き当てたって噂で聞いたわね。
「何も今日行かなくたっていいじゃないのよぉ」
ジェーンさんの都合を無視した文句をこぼしつつ、次の店を当たる。
何も五線紙を扱うのはこの店だけではない。ふふん。婆さん、儲け損ねたな。南の島で日光浴でもしているがいいさ。チキショー、羨ましくなんかないぞ。
我が町、港町カオブリッツは別名坂の町。名前のある坂、名前の無い坂、急な坂、なだらかな坂、上り坂、下り坂。昔、山添の酒場で酔っ払って転んだ漁師が坂を転がり続けて海に落ちたという話があるぐらい、数多の坂の集合体である港町カオブリッツ。
石畳の坂達を綺麗と思える時間は、この町に来て一週間と無かったはずだ。こうして歩き回っている時は憎たらしくも思える。
「コルネット商店。トロ・リボーヌ楽器店。コラバ堂。ピッコロベーカリー……」
歩きつつ五線紙を扱っていそうな店をあげていく。失礼。最後のピッコロベーカリーには五線紙は無いわね。私のお腹が空いたからあげてみただけ。
とにかく、三つあげた店のうちのどこかで五線紙を買えば問題解決。それでピッコロ店長ご自慢のクロワッサンを食べつつ、五線紙に曲を書き込もう。
頭の中にカオブリッツの地図を描き出し、現在地と各店の位置に印をつけて線で結んでいく。……けっこうな道のりね。
道は遠いけどバスはあてにならない。この町のバスは時間に遅れるのは日常茶飯事。時刻どおりに来る方が不気味がられる程だ。今みたいに時間が無い時は、いつ来るかわからないバスを待つより自分で歩いた方が早い。
「まずは……」
頭の中の地図に引いた線に従って歩き出した。
コルネット商店。店長である親父さんが急性盲腸炎で入院中。奥さんも付き添いの為、店は休業。うーん、商店街一のオシドリ夫婦だから、そうなるわねー。
トロ・リボーヌ楽器店。店長の甥っ子初ライブ全面応援のためスタッフ一同出張中。本日休業。なんて甥思いの店長だ。それに加えてなんて店長思いのスタッフ。
コラバ堂。突然ながらしばらく休業させていただきます。開店日未定。浮気がばれた旦那が、怒って実家に帰っちゃった奥さんトコへ謝りに行っている。というのが近所のおば様達からの情報。旦那、アンタが悪い。
頭に描いたルートを全て踏破した私は、終着点ピッコロベーカリーを出ると近くの公園のベンチに座り込んだ。
「まったく、この町のお店は揃いも揃って! 少しはピッコロの親父さんを見習って仕事しなさい!」
愚痴りつつピッコロベーカリーで購入したクロワッサンにかぶりついた。
「他に、五線紙を置いている店かぁ……」
その言葉に、歩き疲れた足が動く事を拒絶する。
頭の中に流れ続けていた曲も何周目かの演奏を迎え、今ではゼンマイの切れかけたオルゴールのように途切れ途切れで弱々しく、雑踏の音達にかき消されそうになっている。
今回は諦めるか……いや、ひょっとすると今流れている曲は後世に残る大作になるかもしれない。私は世界の遺産を消し去ろうというのか! それはダメだ。音楽界の未来のため、なんとしても五線紙を手に入れねば!
無理矢理な理屈を付け、疲れた足を元気付けると再び立ち上がる。
「……あれ?」
立ち上がった私はそのまま止まった。
視線の先にはクロワッサンを買ったパン屋さん。問題はその店の横にある細い路地。
目を凝らして見ると路地の奥に一件の店がある。古めかしい印象を受けるその店が掲げている『音楽堂』と書かれた看板。
なんということだ。灯台下暗し。行きつけのパン屋の近くにこんな店があったなんて!
「あそこだわ!」
私は足の疲れも忘れて音楽堂の看板に向かった。
細い路地を通って店に近付けば近付いていくほど、その古さが目に付いてくる。
だが、外見などどうでもいい。店が開いているなら。五線紙を売ってくれるなら。
音楽堂の目の前までやってきた。休業の張り紙、準備中の札といったものは入り口には見当たらない。そして、私が待ち望んでいたものが扉にかけられている。
「営業中。ヨッシャ!」
小さくガッツポーズを取りながら音楽堂の扉に手をかけた。