神さまとの約束
私を嫁にと望んだのは、まるで化け物みたいな神様だった。
――あの後、混乱したまま朧の屋敷に招かれた私は、朧と正式に婚姻を結ぶに至った。式も挙げた。それは神前式で、白無垢を着て臨んだ。
ちなみに、着付けをしてくれたのは、顔に白い布――面布をつけた女性たちだった。彼女たちは、この屋敷では「面布衆」と呼ばれているらしい。
これから、私の細々とした世話は、彼女たちがしてくれるのだそうだ。
面布衆たちは、口々に「おめでとうございます」と祝いの言葉を口にしながら、手際よく私を着付けてくれた。
「奥方様は、随分と小柄でいらっしゃる。可愛らしいですね」
「奥方様の御髪の手触りのいいこと!」
「奥方様は色白で、なんて滑らかな肌をしているのでしょう」
口々に私を褒めそやす面布衆たち。しかし、それを素直に喜ぶことはできなかった。今の私にとっては、それはまるで、調理前の食材を褒めているようにしか思えなかったからだ。
「――さあ、できた。奥方様、どうぞ」
鏡に映った白無垢姿の自分を見た時は、それが自分かどうか、正直わからなかった。強張った顔をしている鏡の中の自分に、心の中で語りかける。
――脂下がった親父のほうが、マシだったかもね。
まさか、お金に目が眩んで婚姻を了承したら、神様に嫁ぐことになるなんて、誰が想像しただろう?
皮肉なものだな、と思わず苦い笑みを零して、泣きたい気持ちを懸命に堪える。同時に、亡くなった両親のことを頭の隅に追いやった。花嫁姿を見せたかったなんて考えたら、涙腺が崩壊するのがわかり切っていたからだ。
すると面布衆のうちのひとりが、私に言った。
「色々と不安でしょう。ですが、旦那様……『化け神さん』は、とてもお優しい方ですから」
その人はクスクスと笑うと、私の手を握って言った。
「あの方はお顔が……『ちょっぴり』怖いだけ。どうか、奥方様と旦那様との結婚生活が、幸せなものになりますように」
その人の言葉が終わると同時に、するすると閉ざされていた襖が開いていく。襖の向こうでは、ある人物が私を待っていた。
それは人形に変化した朧だった。花婿らしく、紋付袴を着ている。しかし、全身から放たれる存在感が、あの霧の中で邂逅した化け物と同一であるとまざまざと語っていた。人間の姿になっているとはいえ、見上げるほど大きい。
もしかしたら、一九〇センチはあるかもしれない。私自身が一五〇センチしかないからか、ギラギラと輝くオッドアイで見下されると、正直、恐怖しかない。
「……」
恐怖のあまりになにも言えないでいると、朧はうっすらと目を細め、おもむろに手を差し伸べてきた。
――すべては、あの家を守るためだ。
もしかしたら、どこかのタイミングで逃げ出せるかも知れない。食べられる前に、なんとかしなければ。
私は覚悟を決めて、彼の手を取った。
神の花嫁にも、初夜というものは存在するらしい。
神前式が終わった後、簡単に夕食を済ませた私は、面布衆に全身を清められて、朧の寝室に通された。ふわふわの布団の上に座ると、なんだか落ち着かなくて、辺りを見回す。
すでに太陽は沈み、空には大きな月が昇っている。障子越しに冷たい月明かりが差し込み、室内をぼんやりと浮かび上がらせていた。
格子窓から外を覗くと、面布衆が明かりを持って見回っているのが見えた。今、部屋から逃げ出したとしても、すぐに捕まってしまうかも知れない。
――どうしよう。今日は初夜だ。化け物と朝までふたりきり。あんなのと一緒にいたら、なにをされるか……。
夜着の袂を手でギュッと握りしめて、どうすれば逃げられるか考える。しかし、どうにも、いいアイディアが浮かばなくて焦りばかりが募る。
するとその時、障子戸の向こうを大きな影が横切った。それは、巨大な化け物の影だ。恐ろしいほどの巨躯を持つそれは、ギシギシと床板をきしませながら、ゆっくりと廊下を歩いている。
「……ひっ」
手を口で塞ぎ、悲鳴を飲み込む。すると、小さく漏れた悲鳴が聞こえてしまったのか、影が一瞬立ち止まった。しかし、それはすぐに歩みを再開すると、部屋の前まで来て止まった。
「……待たせたな」
室内に入ってきたのは、人形に変化した朧だった。あの化け物姿でないことに安堵して、ホッと息を漏らす。朧は、私から少し離れた場所に座ると、なにも語らずこちらをただじっと見ている。
――私を、食べないのだろうか。
朧の態度を不思議に思って、いつでも逃げられるように体勢を整えながら様子を窺う。しかし、朧は無言で座っているだけで、なにもしてこない。
「……あの」
重苦しい沈黙に耐えきれず、思わず声を上げる。すると、朧は僅かに首を傾げた。
「わ、私を食べないんですか……?」
震える声で尋ねると、朧は一瞬目を見開き、また小さく首を傾げた。
「なぜ、花嫁を食わねばならない?」
「だって、食べるために嫁にしたのでしょう……?」
「何故そう思う。お前は、家に受け入れるために娶ったのだ。食うためではない」
思わぬ正論を吐かれて、言葉に詰まる。
勝手に食べられるのだと思っていたけれど、それは杞憂だったようだ。とりあえずの危機(?)を脱して、安堵のため息を漏らした。
けれど、そうなるとまた、別の疑問がムクムクと頭をもたげてきた。
――どうして私みたいな、絶世の美女でもない、普通の女を嫁にしたのだろう。
少し警戒が解けてきた私は、続けて朧に尋ねた。
「なら、どうして私を選んだのか理由を聞かせてください。私は、神に見初められるような女ではありません」
すると、朧はすぐには答えようとはせずに、色違いの瞳を薄っすらと細めて私を見つめた。ドキリとして、思わず身構える。その瞳は、まるで「忘れたのか?」と問いかけているようだったからだ。
すると、ふいに朧が視線を外した。そして、彼は言った。
「……お前を気に入った。ただ、それだけだ」
「そ、そんなの。答えになってな――」
思わず食い下がろうとすると、朧はおもむろに立ち上がり、障子戸に向かい始めた。そして、戸に手をかけると「出かけてくる」と、出ていってしまった。
「ちょっ……待って‼」
焦った私は、朧の後を追いかけた。頭の中では、今までにないくらいに思考がフル回転していた。とんだ化け物と婚姻する羽目になったと思ったけれど、どうもこの感じだと違うようだ。
ならば、話し合えば私を帰してくれるかも知れない……‼
夜着の裾が足に絡み、転びそうになりながらも、ようやく障子戸に手をかける。そして、思い切り外へと身を乗り出して、辺りを見回した。
「……っ‼」
すると――視界に、なにか大きなものが入り込んできた。
見たこともないほど大きな月を背景に、それはそこにじっと佇んでいた。
黒々とした体毛は、青白い光に照らされて白く輝いて見える。天を衝くかの如く巨大な角は、月光を反射して辺りに冷たい光を放っていた。
巨大な体を広い庭で窮屈そうに丸めて座り込み、四対の真紅の瞳を光らせて、長い尾をゆらゆらと揺らしている、それは……。
――朧、だ。
あれは、私を食べないと言ってくれた、夫であり神様だ。
恐らく、今すぐに私に害を与える類のものではない。獣とは違い、理性を持った存在。話し合えばわかるかもしれない――そう、理解していたつもりだったのに。
「あ……ああああ……」
腰が抜けてしまった私は、その場にへなへなと座り込んでしまった。
――その時、私を支配していたのは「恐怖」だ。
脳内では、けたたましく警報が鳴り響き、逃げろと私に呼びかけている。あれは危険だ、今すぐ逃げ出せ――私の本能が、そう告げている。
なぜかわからない。その必要はないと必死に自分に言い聞かせても、逃げなければという想いに駆られる。それは、絶対的捕食者に対峙した、被食者のようだった。
「……真宵」
すると、朧が口を開いた。そして頭を横に振って、多すぎる瞳を一斉に閉じると、ぽつりと言った。
「お前もまた、俺を恐怖するか」
すると、朧はゆっくりと立ち上がった。そして、ぐんと背を伸ばしたかと思うと、空を覆わんばかりに巨大な黒い翼を広げて言った。
「この度の婚姻は、神の気まぐれ。幼気な人間の娘を、このような恐ろしくおぞましい化け物の傍に置いておくのは、可哀想だ」
朧が翼を軽く動かす。すると、辺りには暴風が吹き荒れ、私は思わず目を瞑った。
「――一年だ。一年経ったら、俺から解放してやろう。季節が一巡する間、妻としてここにいろ。それ以上は望まない」
その瞬間、一層強く風が吹いた。息を吸えないほどの風に翻弄されて、体を縮こませる。そして、ようやく風が収まった頃――恐る恐る目を開けると、そこにはもう、黒い巨大な化け物の姿はなかった。