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化け神さん家のお嫁ごはん  作者: 忍丸
夜ごはん
28/36

『主はいらぬ』

 それからというもの、私は朧の傍に居続けた。



 冬の寒さは厳しくなるばかりで、空からは絶え間なく雪が舞い降りてくる。美しかった庭も、立派な屋敷も、雪はなにもかもを白く塗りつぶしていった。



 更に、朧の不調が原因なのか、外の霧は濃くなっていく一方で、客室棟などはどこにあるかすらわからなくなってしまった。不思議と、そこに繋がる廊下も消えていて、「消滅させる」と面布衆が言っていた意味をようやく理解した。



 カタカタと、窓が風に揺れて鳴っている。

 時折、ひゅうと風の音が聞こえる以外は、大多数の面布衆がいなくなってしまった屋敷は、しん、と静まり返っていて、私の他に動くものがなにもいないような感覚に陥りそうになる。そんな時は、朧の体に抱きついて呼吸音に耳を傾けるのだ。



「ひゅ……ひゅ……ひゅ……」



 朧の、まるで笛みたいな呼吸音を聞くとホッとする。

 私の好きな人の生命がまだ尽きていないのだと、実感できるからだ。



「……起きて」



 朧の長い毛に手を這わせて、すうと撫でる。滑らかだったり、ごわごわしていたり、癖のある朧の体毛を、優しく労るように撫で、そして反応が返ってこないことを知りつつも語りかけた。



「起きて、朧……。起きてくれないと、私の気持ちを伝えられない」



 静かに語りかけながら、朧のお腹の辺りに寄りかかる。ふわふわの毛に埋もれていると、どこか懐かしい感じがするのは何故だろう。



 ――朧が目を覚ましたら、私の気持ちを伝えよう。



 いや、まずは謝るのが先かもしれない。朧ときちんと向き合わなかったことを謝罪して、それから私の気持ちを伝えるのだ。



「でも……朧は、私を気まぐれで選んだんだよね? もしかしたら、振られちゃうかなあ。一年後に別れようって、初日に言われるくらいだもんね」



 そうしたら――私はどうするんだろう。



 ふと考えを巡らせて、あることを思い出してハッとする。

 そうだった、私は両親が遺した店を再開するんだった。



「……ハハ。忘れてた。どうしようもないな」



 ひとりごちて、ため息を零す。朧で頭がいっぱいになっていて、そんなことすっかり忘れていた。そうだ、私は食堂を再開するのだ。お客さんに料理を振る舞って、笑顔になって貰いたい。ずっと、そう思っていたのに。



「あ。でも――朧のための新しいお嫁さんを捜すのもありだな」



 私が駄目だったら、きっと新しいお嫁さんが必要だろうから。でも、そんなことを元嫁の私がしたら、迷惑がられるかもしれないな、なんて笑みを零す。



「ねえ、朧。新しいお嫁さんは、どういう人がいい? 凛太郎の嫌味に耐えられて、櫻子ちゃんより美味しくごはんを作れる人でなくちゃ駄目だよね。もちろん、朧を怖がったら失格。朧の優しさを理解できない人には……お、よめさんには……」



 声が詰まって、顔を盛大に歪める。びっくりするくらい、大粒の涙がボロボロと零れて、慌ててハンカチを取り出して拭った。その時、ぴりぴりとした痛みを感じて動きを止める。目の端の部分がおかしい。頻繁に擦っていたから、肌が炎症しているようだ。もしかしたら、瞼も腫れているかも知れない。



「……こんな顔、朧に見せられないな」



 朧の体に顔をくっつけて、クスクス笑う。そして、次の瞬間には震える声で言った。



「他の人が、朧のお嫁さんになるのは嫌だよ……」



 そしてまた、思考が堂々巡りし始める。気持ちを伝えて、万が一にでも上手く行った時を想像して安堵し、最悪の状況を妄想して苦しく思った。



 ……気持ちが不安定で、落ち着かない。



 こんなに泣いたのは、両親が亡くなった時以来かもしれない。

 ウジウジ考えるのはできないタイプだと思っていたのに、あまりにも後ろ向きな、自分の一面に驚く。正直、知りたくはなかったが、これもまた私なのだろう。



 柔らかな黒い毛に頬ずりをする。朧の体温が心地いい。まるで、私を慰めてくれているみたいだ。でも――こんなにも近くにいるのに、どうしてこうも遠いのだろう。



 すると、廊下に誰かの気配を感じて、顔を上げた。ゆっくりと襖が開くと、そこから、やたら仏頂面をした凛太郎が顔を覗かせた。



「……起きていたのですか」



 そして、部屋の一角に視線を向けると、はあと深く嘆息した。

 そこには、手がつけられていないままの食事があった。



「食事くらいはきちんと食べてください。朧様が目覚めた時、どういう管理をしていたのかと、僕が怒られてしまうではないですか」

「……食欲ないんだ。ごめん」

「ごめんではありませんよ……。こんなに痩せてしまって」



 凛太郎は私の傍へとやってくると、懐からなにかを取り出して私に握らせた。それは、手のひらに収まるほどに小さく、色鮮やかな橙色をしていた。



「みかん……?」



 驚いていると、凛太郎はどこか気まずそうに言った。



「以前……キミが寝込んでいた時に、朧様に言われて買い物に行ったことがあります。みかんが好きなのでしょう。安っぽい缶詰よりも、こちらの完熟みかんの方が美味しいですよ。少しでも、なにか口に入れるんです」



 私はまじまじと手の中のみかんを見つめると、プッと噴き出した。



「凛太郎、私が好きなのは缶詰で、みかんじゃないよ」

「……知りませんよ、そんなもの。どんな違いがあるんですか。みかんはみかんでしょうに」

「全然違うよ」



 すると、凛太郎は私の隣にどかりと座ると、そっぽを向きながら言った。



「――先日は、申し訳ありませんでした」

「え?」



 そして、ちょっと不満そうに唇を尖らせると、横目で私をちらりと見た。



「……帰れと言ったことです。まったく、察しが悪いですね」



 すると、ドカン! と、廊下から大きな音がして、ふたりして体を竦める。すると、凛太郎は小さく咳払いをすると、私に向かって言った。



「僕はてっきり、奥方様が帰ると我儘を言ったのだと思っていました。でも、本当は朧様からの提案だったそうですね。あの時の非礼、お詫びいたします」

「……っ、べ、別に気にしてないよ。凛太郎の言うことはもっともだったしね。私は、朧の……神様の妻としての自覚が足りなかったの」

「まあ、それは確かなのですが」



 ――ドカン!



「……っ、というのは冗談ですけれども!」



 額に浮かんだ冷や汗を拭った凛太郎は、私をまっすぐに見つめると笑みを浮かべた。



「こうやって、朧様のことを心配している奥方様を見ていれば、その気持ちがどこにあるかなんて一目瞭然です。僕は色恋沙汰には疎い方ですが、それくらいはわかりますよ」



 そして、どこか困ったような顔をすると、ぽつりと言った。



「僕は……昔から、知らないものに対して臆病なところがあります。奥方様に対しても、ずっと心を開けなかった。本当に朧様の妻として相応しいのか、疑ってばかりいました。……でも今は、朧様にこれほどまで心を寄せられるのは、キミしかいないと思っています」



 凛太郎は、一瞬だけ躊躇すると、私に向かって頭を下げた。



「……どうか、朧様をよろしくお願いします。僕は、このまま朧様が死んでしまうとは考えていない。もう一度、目覚める余地はあるはずです。そしてその時は、この寂しがりやの神を、キミの腕で抱きしめて上げてくれませんか」



 凛太郎の言葉に、胸が震える。すっかり緩んでしまった涙腺から、ポロポロと涙が溢れた。すると、途端に凛太郎が慌てだした。



「どっ……どうして泣くんです‼ やめてくださいよ、櫻子にまた怒られるじゃないですか‼」



 そして懐を手で探って、一瞬だけ渋い顔をしたかと思うと、大きくため息をついた。



「……泣かないでください。まったく、キミという人は」



 凛太郎は、ゆっくりと私の頬に手を伸ばすと、指で直接涙を拭った。そしてそのまま、ポンと私の頭に軽く手を乗せた。



「……ッ」



 ――それは、朧と同じ仕草。



 私は、またぽろりと、大粒の涙を零した。



「だあっ! なんで泣くんですかっ‼ 理解不能だ……‼」

「だって……朧ぉ……」

「ちょっと⁉ 凛太郎ちゃん⁉ なにしてるのー‼」



 すると小気味いい音がして、勢いよく襖が開いた。同時に、外で待機していたらしい櫻子が乱入してきた。凛太郎は、大慌てで近くにあった座布団を頭から被ると、その場に蹲った。けれども、そんなのにお構いなく、櫻子は嬉々として凛太郎に襲いかかっていく。



 私は、じりじりと後退して、朧のお腹の辺りにちょん、と座ると、ふたりの様子を眺めた。



「痛い! 櫻子、お前‼」

「女の子を泣かす凛太郎ちゃんは悪い子!」



 ふたりは、朧がすぐそこで眠っているのにも関わらず、お構いなしに大騒ぎしている。その姿を眺めていると、ふとあることを思い出した。



 それは天岩戸の伝説だ。須佐之男命のあまりにも酷い行動に怒った天照大神が、自身を天岩戸に隠してしまったという有名な話。そのせいで、高天原や葦原中国(あしはらのなかつくに)が暗闇に覆われてしまい、困りに困った神々は、天照大神をおびきだそうとするのだ。



「勝手に泣いたんだよ!」

「凛太郎ちゃんが泣かしたんでしょ!」



 ふたりの様子は、朧がこうなる前とまるで変わらない。



 この賑やかさは、ここのところ私の心を覆っていた闇を祓ってくれるようで、とても心地いい。こんなに大騒ぎしているのだ。もしかしたら朧が起きるかも知れない。わが家の天照大神は、いつ顔を出してくれるだろう?

私は、小さく笑うと、朧に向かって声をかけた。



「……朧。早く起きて。前みたいに、みんなで一緒にワイワイやろう?」



 そして、その体に自身を寄せると、ぽつりと零した。



「私、朧の声が聞きたいよ……」



 するとその時だ。いきなり襖が開いて、誰かが入ってきた。それは、褐色の肌を持った、異国の神だった。



「随分と賑やかなことだ。朧の馬鹿たれが起きたのかと思ったぞ」



 獣頭の神は、頭からすっぽり被った獣の皮の奥から、私にちらりと意味ありげな視線を向けると、手の中に持ったものをゆらゆらと揺らして言った。



「嫁殿もいたのか。感謝するがいい。この我が、愚かな友を叩き起こすための薬を持ってきてやったぞ」

「……‼ 本当ですか‼」



 思わず腰を浮かして尋ねる。すると、獣頭の神は大仰な仕草で頷くと、部屋の中にずかずかと入ってきた。



「これは、中国の仙人が作った霊薬でな。神の力を一時的に高めることができる。コレクションとして、長年、我の宝物庫で眠っておったのだが……それを朧に使ってやろうというわけだ」

「あ、ありがとうございます‼」



 感激して、勢いよく頭を下げる。

 そして、興奮のあまりに熱い息を漏らし、とくとくと激しく脈打ち始めた胸を手で押さえた。



 流石、朧の親友だ。その薬を使えば復活できる。けれど、「一時的に」と言っていたから、問題を解決したことにはならないのだろう。

その後は、私たち夫婦の問題だ。私の気持ちを伝えて、それを朧が受け入れて貰えれば、現状を打破できるはずだ。



「……っ」



 つきりと胸が傷んで顔を顰める。けれども、小さく首を振ると、私は気を取り直して顔を上げた。もし、私の気持ちを受け入れて貰えなければ、新しいお嫁さんを貰えばいいことだ。凛太郎や櫻子を置いて、朧がこの世からいなくなるなんて、絶対にあってはならない。あれだけの魂を救ってきた神なのだ。そのうち、神としてまっとうに信仰されるようになるかも知れないのだし。



 すると、そんな私の下へ、獣頭の神が近寄ってきた。彼は畳の上に座っている私を見下ろすと、ぐいと腕を掴んで立ち上がらせた。



「――嫁殿。こちらへ」



 獣頭の神は、私の腕を強い力で掴んだまま、おかまいなしに襖に向かって歩き出した。私はわけも分からず、獣頭の神の後について歩く。凛太郎も櫻子も、そんな私たちをぽかんと見つめている。



 獣頭の神は、私をあっという間に襖の前に連れてくると、ようやく立ち止まった。



 私は、少し不安に思って、かの神に尋ねた。



「あの、薬を朧に飲ませるんじゃ……?」



 すると、獣頭の神は襖を勢いよく開け放った。外の冷気が触れて、僅かに肌が泡立つ。相変わらず、外は一面霧で覆われている。そこに立ち入れば、二度と戻ってこられないのではと思いたくなるほどの濃厚な霧。それに得体の知れない恐ろしさを感じていると、獣頭の神は、にこやかな笑みを浮かべたまま言った。



「嫁殿、帰っていいぞ」

「へっ?」



 言葉の意味が理解できずに、思わず素っ頓狂な声を上げる。すると、獣頭の神はいやに面倒くさそうに首を振ると、私の背中に手を当てて言った。



「聞いておらなんだか? 主はいらぬと言った」



そして、おもむろに私の背中をとん、と部屋の外へと向かって押した。



「――ご苦労であった。しばし休め」

「わっ、とっ……」



 たたらを踏んで、すんでのところで転ぶのを堪える。そして、なにをするのかと抗議をしようとした――その時だ。あまりのことに、固まってしまった。



「……え?」



 勢いよく振り返った先、そこには、ある意味、見慣れた光景が広がっていたのだ。



 ――空気が違う。

 初めにそう思った。

 やたら乾燥していて、排ガスと他人の生活の臭いが入り混じった、雑多な臭いが鼻についた。マヨイガの、あの高原のような澄み切った空気ではなく、色々なものが、生き物が、想いが、あらゆるものが混じったくすんだ感じ。



「どうして……」



 そこにあったのは、私が小さい頃から過ごした、見慣れた下町の風景だった。



 慌てて辺りを見回してみても、あの立派なお屋敷も、朧も、凛太郎たちの姿もなにもない。霧のひとかけらすら見つけられずに脱力する。思わず天を仰ぐと、その眩しさに思わず目を眇めた。



 まるで凛太郎にマヨイガに誘われた春の日のように、世界が夕日で真っ赤に染まっている。けれども、春の温かさは微塵もない。往来の人々は揃って厚着をして、寒さから逃げるように足早に通り過ぎていく。身を寄せ合うようにして立ち並ぶ家々は、都内の一等地に比べると随分と古ぼけていて、そこに住む人の暮らしぶりを思わせる。



私は、その風景がすぐには受け入れられず、呆然と立ち尽くしていた。



「……コホッ」



 咳が出て、ハッと現実に立ち戻る。そして、自分がいる場所を頭の中で再確認して、恐る恐る後ろを振り返った。



 そこにあったのは、両親が長年守り続けてきた、思い出の詰まった実家だった。



「あ……」



 私は、その場にへたり込むと、おもむろに頬を抓る。そこから伝わる鈍い痛みに、盛大に顔を顰めた。



『……主はいらぬ』

「コホッ。ケホッ……」



 ――何故だろう。咳が止まらない。



 頭の中では、獣頭の神の声が何度も何度も繰り返し響いている。咳き込むたびに、気管や肺が痛む。私は、手で口を押さえ、背中を丸めてその場に蹲った。



 その時、ひゅうと冷たい風が吹き込み、むき出しの私のうなじを撫でて行った。その瞬間、体の芯から体温が奪われて行ったような気がして、固く目を瞑る。そして、朧の温かい毛並みを、心から恋しく思った。



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