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化け神さん家のお嫁ごはん  作者: 忍丸
昼ごはん
10/36

夏のマヨイガ、泡沫の夢

 マヨイガに、夏が来た。



 花がすっかり散ってしまった桜の木は、青々とした葉を茂らせ、霧混じりの風が吹くと、さわさわと心地よい音をさせる。ここの夏は、現世に比べると、随分と過ごしやすい。霧がいつも周囲に満ちているからだろう。まるで高原の避暑地のような、爽やかな夏だ。麦わら帽子を被って、群青色の夏空を見上げる心地よさ。暑い季節を喜ばしく思う心を、ここに来て初めて知った。



 けれども今日に限っては、その暑さにうんざりしていた。



 夏の空気に加えて、体の内から滲んでくる熱に、意識が朦朧としてくる。汗が絶え間なく噴き出し、シーツがしっとりと濡れている。



 浴衣の襟をくつろげ、はあと熱い息を吐く。いくら眠っても足りないのに、眠りすぎたせいで頭の芯の部分に鈍い痛みがある。



「夏風邪はしんどいよねえ。早く元気になってね」



 櫻子が、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。喉の痛みのせいで禄に食事もできない私に、果物を剥いて持ってきてくれたのだ。



「私、暫くお仕事でいないんだ~。看病できなくてごめんね」

「忙しいのにありがとう」



 けれども、どうにもそれに口をつけるのが億劫で、私は曖昧に笑うと、また目を閉じた。すう、と襖が閉まる音がして、櫻子の気配が遠ざかっていく。



 うっすらと目を開けると、サイドテーブルの上に、ガラスの器に盛られた瑞々しい黄白色が見えた。それは熟れた桃だった。柔らかく熟した桃は、辺りに甘い匂いを放ち、誰かに食べられるのを今か今かと待っている。



「美味しそうだけど。……今、欲しいのは――それじゃないんだなあ」



 私は大きく息を吐くと、またゆっくりと目を瞑った。

 すると、いつしか意識が沈み込んでいき――とろり、とろとろとすべてが溶けて、境が曖昧になり、夢の世界に迷い込んで行く。





 世界を薄い布越しで眺めているような、鈍い感覚がする。目は映像を捉えているものの、そのものに現実感がない。夢だとすぐにわかる夢――。その中で、幼い頃の私は、熱を出して寝込んでいるようだった。



「ああ、真宵は大丈夫かな」

「心配しすぎよ。ただの発熱」

「病院に連れて行かないでいいのかい? なんなら、隣から車を借りようか」

「小さい子がいきなり高熱を出すなんて、よくあることよ。それに、熱冷ましもあるし……焦って連れて行かなくても大丈夫。それよりも、ペーパードライバーの癖に。そっちの方が心配だわ」



 ――ああ。なんて懐かしい。



 夢の中には、見慣れたわが家の光景が広がっていた。幼い私が、アニメのシールを貼ってベタベタにしてしまった家具。少し黄ばんだ壁紙。天井から下がる、箱型の照明。そして、記憶よりも随分と若い両親の姿があった。



 今にも泣きそうなほど、情けない顔をした父。一方、平気そうな口ぶりの母。けれどその手は、まるで大切な宝物に触れるように、優しく私の頭を撫でている。



 その光景に、愛おしさと懐かしさが溢れて胸が苦しくなる。けれども夢だからか泣けないことに気がついて、どうにもやるせなくなった。



 すると、私が目覚めたことに気がついた母が、顔を綻ばせた。



「あ、起きたわ。真宵、喉が乾いてない? お着替えしようか?」

「汗をたくさんかいてる。暑いか? 母さん、氷枕が温いよ。新しいの持ってきて」

「はいはい。待っていてね。着替えも持ってくるわ」



 母が傍からいなくなると、いそいそと、父は乱れた布団を直したり、タオルで汗を拭ったりしてくれた。父はいつだって、私が体調を崩した時は甲斐甲斐しく看病してくれる。食堂を早く閉めることもあったくらいだ。娘が大病をしている(ただの風邪なのに)時に、料理なんてしてられるかというのが、父の口癖だった。



「母さん遅いな。ほら、父さんの手を貸してやろう」



 そんな父の自慢は冷たい手だった。父の大きな手が私の額に触れる。ひんやりとして、けれども冷たすぎないその手は、熱で火照った体を心地よく冷やしてくれた。



「気持ちいいだろう。手が冷たい人間は、心が温かいんだぞ。ぐっすり眠るんだ。風邪の時は眠るのが一番の薬だからね」



 まるで子どもみたいに、自慢気に語る父。そんな無邪気なところがある父が、私は大好きだった。するとそこに、母が戻ってきた。母は、着替えの他にお盆を手にしている。そこに乗っていたのは、ガラスの器に入った目にも色鮮やかな橙色。



 それは、風邪を引いた時の大定番。

 具合の悪い時にしか食べられない、大好きな一品だった。



「やった。食べていいの?」

それが堪らなく嬉しくて、起き上がろうとした――その時だ。

「……っ」



 プツンと映像が途切れ、懐かしいわが家から、マヨイガにある私室へと景色が塗り替えられてしまった。



 ――ミィン、ミンミンミン……。



 優しい父と母の声は途切れ、その代わりだと言わんばかりに、蝉の喧しい声が鼓膜を震わせた。温かな言葉も、心配そうに――それでいて、愛おしそうに触れる手もなくなってしまった。変わらないものと言えば、重だるい体だけだ。



 指で頬に触れると、知らぬ間に涙で濡れてしまっている。夢の中ではちっとも泣けなかったのに、現実ではしっかりと泣いていたようだ。



「……熱が出ると駄目だね。心が弱っちゃう」



 涙を拭って、なんとなしに視線を移す。すると、サイドテーブルの上に、眠る前まではなかったものを見つけて、思わず目を見開いた。



 襖越しに、室内に薄日が差し込んでいる。それを、鮮やかな橙色を抱いた、ガラスの器が優しく受け止めていた。果汁がたっぷり詰まった、透明感のある粒々。それがみっしりと寄り集まり、半月を形作っている。



 ――みかん。それも、甘いシロップに漬かった缶詰のみかんだ。それがまるで、私を誘うように、サイドテーブルに置かれていたのだ。



「どうして?」



 先ほどまでは、桃があったはずの場所に、私の大好きなものが置かれている。これが好物だと知っているのは、亡くなった両親くらいだ。一体、誰が――? 



 ……まさか。



「起きたのか?」



 その時だ。襖が開いて、誰かが部屋に入ってきた。

 それは朧で、彼は私から少し離れた場所に座った。



「これは、朧が?」



 思わず尋ねると、朧はゆっくりと首を縦に振った。



「……そうですか」



 ――なにを、がっかりしているのだろう。



 両親が死んでしまったこの世界こそが……夢なのではないかなんて、幻想を一瞬でも抱いてしまった。そんな、都合のいいことがあるわけないのに。



 苦い笑みを溢して、朧にお礼を言う。すると空腹を覚えたので、朧にみかんを食べてもいいかと尋ねた。



「それは、お前のために用意したものだ。遠慮なく食べるといい」

「ありがとうございます」



 シロップに漬かったみかんは、とても綺麗な色をしていた。それはまるで、もう二度とやってこない、家族の団らんみたいな温かな色。スプーンで口に運ぶと、噛み締めた途端に、ぷちんと甘い汁が口内に広がった。



 それは、甘くて――どこまでも甘くて。

 それでいて、奥にこっそりと酸味が潜んでいるような味。

 その懐かしい味に、喉の痛みも忘れて目を細める。



「美味しい」

「そうか」

「少し……元気が出ました」

「そうか」



 食べ終わった皿を受け取った朧は、私にまた横になるようにと促した。

そして――横になった私の額に、その大きな手を当てて言った。



「眠れ。風邪の時は、眠るのが一番の薬だ」

「…………っ、はい」



 夢の中の父と、同じ言葉。それに――なんて、冷たくて心地がいい手なのだろう。



 私は、ゆっくりと目を瞑ると――ふと、浮かんだ疑問を口にした。



「朧は、どうしてこんなに良くしてくれるんですか……?」



 すると、朧は「ああ」と小さく声を漏らして、やや平坦な声で言った。



「俺は――お前の夫だ」

「一年間、限定でも?」

「…………時間は関係ない」

「そう、ですか。朧は……優しいですね」



 ――ぽろり。

 その時、やけに熱い涙が一粒、溢れ落ちた。


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