儒教と「官僚制」の関係と「科挙」の弊害(小室直樹『宗教言論』の読書まとめ)
小室直樹『宗教言論』より、中国の儒教と官僚政治との関係と、科挙の弊害について。それと、科挙の弊害をそのまま引き継いだ現代日本の受験システムの問題点についての論評。
◆ 儒教と「官僚制」
原始儒教は極めて素朴な宗教で、初期の儒学者は、社会的地位も低く、屋根の上にのぼってほうほうと大きい声を出して魂を呼び出したり、儀式の進行役をなどをやっていた。
しかしそんな状況が大きく変わったのが、孔子の出現から。
孔子は自ら「述べて作らず」といって、自分は儒教の祖なのではなく、昔の聖人がいったことを総合して述べているだけだと語ったが、しかし別な意味では、孔子が儒教を作ったといっても過言ではない。
孔子は、それまでは屋根の上にのぼってほうほうなどといっていた儀式屋のような、そんな原始儒教を受け継いで、体系的な宗教にした。
儒教の目的とは、「高級官僚を作るための教養を与える宗教」。
当時の中国でよい政治を行うには、その中間層として発達した「官僚制」が不可欠だった。
中国では紀元前1500年頃に「殷」という古代国家が成立して、そこにはもう官僚制があったという。
古代中国において早くから官僚制が整備されたのは人口からくる問題で、巨大帝国は官僚制なしではすまされなかった。
そして、紀元前4世紀あたりの戦国時代には、中国の官僚制は現代における近代官僚制と同じような形を取るまでになった。
戦国時代では戦国七雄といわれた7ヶ国がしのぎを削った時代だが、その頃にはもう、近代ヨーロッパ列強並みの人口規模を持ち、製鉄などの技術も開発され、商業も盛んで、経済も発達していた。
戦国七雄は近代列強並の富と力を持ち、また近代列強と同じく、領域国家(領土の確定した国家)になって、そして、戦争専門の兵で組織する常備軍が完成されていった。
王の権力も大きくなり、王の周りには封建的諸勢力に代わって体系的な官僚制度が形作られていった。
古来、王の周りの統治階級は、王家親族、有力貴族だった。
ところが、戦国時代に名君と呼ばれた王は、奴隷たちから宰相(総理大臣)を選んでいた。
歴史上有名な、殷の傅説(ふえつ、武帝丁の宰相)、秦の百里奚(ひゃくりけい、穆公の宰相)、は、奴隷だった。
斉の桓公に仕えた管仲も、捕虜となって死刑を赦された奴隷の身分から宰相に抜擢された。
「宰相」とは、もとは奴隷の一種、という意味だった。
料理人や羊飼い、そういった者たちが総理大臣に抜擢された。
なぜ、奴隷なのか、それは、貴族はときに王に口答えするが、奴隷は無条件で従ったから。
専制君主に従う人間こそが官僚としては有能。
もちろん能力は必要だが、その統治能力さえ認められれば、宰相として就職できた。
孔子の起こした学校(孔門)は、その統治能力と、古代王朝を栄えさせた礼を教えようとした官僚予備校だった。
これが大きな注目を浴びるようにんり、これが儒教の起こりといってよいものだった。
儒教は、政治をよくして民を救うという集団救済の宗教で、病気を治すとか、長生きいしたいとか、個人の救いなどには何の役にも立たない。
◆ 儒教と「科挙」の関わり
儒教が重く用いられはじめたのは、紀元前2世紀頃の前漢の時代、七代皇帝・武帝のときに、董仲舒という儒学者が抜擢され、儒学が前漢の国境となってから。
ただし国教といっても当初はまだ、国民みんなが必ず信じなければならないというものではなかった。
この時代、官僚への登用には「選挙」という制度が採用されていた。
これは現代でいう選挙ではなく、地方名望家の推薦による選抜方法で、この推薦基準は、親孝行かどうか、行いが正しいかどうか、という儒学的項目を基準にしていた。
そして、役人あるいは皇帝による考査を経て官僚に登用し、その官僚制を充実させていった。
ところが、6世紀末に、巨大帝国・隋が誕生すると、隋では、それまで推薦によって選んでいた官僚を、ペーパーテストでも選ぶようにした。
このテストは"科"目による選"挙"ということで、「科挙」と名付けられた。
これが科挙の始まり。
科挙は次代の唐以降にも受け継がれたが、この時代ではまだまだ貴族が生き残っており、貴族出身高級官僚と科挙出身高級官僚との二本立てだった。
唐の貴族たちは、科挙の制度に猛反発した。
科挙では、身分に関係なく誰にでも「公平」に官僚への道がひらかれ、かつペーパーテストによって「公正」に評価・登用される社会の仕組みで、貴族制度とは相容れず、長い唐王朝時代を通じて、科挙と貴族制度は壮絶なる戦いを繰り広げた。
しかしその後、中国では相次ぐ戦乱によりほとんどの貴族が死に絶えてしまった。
そして960年、中国に再び巨大帝国の宋が誕生すると、貴族が一掃されて平民しかいなくなっていた宋では、高級官僚の登用は科挙一本になった。
このようなペーパーテストで高級官僚を選ぶという制度はかなり異様なもので、フランスの啓蒙思想家を中心に、ヨーロッパ諸国では、これが理想だともてはやされた。
当時のヨーロッパでは、高級官僚は貴族に限られていた。
ふつうの役人でも貴族か、せいぜい準貴族、人口のわずかにしか門戸は開かれていなかった。
革命前のフランスなどはとくに酷く、役人は原則として貴族、準貴族、もしくは金持ちに限られ、売官などは日常茶飯事だった。
その結果、革命直前の課税状況は、ものすごく不公平で、高収入層はあまり払わないのに対して、最低所得層の農民がほとんどの税金を負担した。
・科挙の強いドグマがもたらす弊害
ヨーロッパで合理的と評価された科挙の制度だったが、ところが、科挙の出題科目は、儒教の古典に限られていた。
科挙は、千数百年にわたり儒教一辺倒の出題だったが、だんだんその儒教のなかでも出題範囲が狭まるようになってきて、明や清の時代になると、南宋次代に現れた大儒者・朱熹の哲学である「朱子学」一辺倒となった。
そのため、儒教では、ヨーロッパ式の宗教弾圧ということを行っていないが、中国においては、科挙に道教や仏教、イスラム教といった他宗教を入れなかったというのが、最大の宗教弾圧になったとさえいえるほどだった。
さらに、15世紀初頭に明第三代皇帝に即位した成祖永楽帝が、朱子学に基づいた、科挙の国定教科書『四書大全』『五経大全』を作ってしまう。
四書とは、「論語」「孟子」「大学」「中庸」、五経とは「易経」「詩経」「書経」「礼記」「春秋」を指し、いずれも朱子が選んだ儒教古典。
永楽帝といえば、北京城を作り、万里の長城を完成させ、鄭和に大航海させた名君だったが、永楽帝は、
「科挙は良い制度である。朕が完成させてつかわす」
と、受験の主催者にして、しかも最高権力者である皇帝自らが、科挙のための教科書を定め、受験問題の解説書を作り、そのうえ、永楽帝は「八股文」なる答案の書き方まで指導した。
いわば皇帝が作ったアンチョコで、これが社会に与えた影響は甚大だった。
これさえ勉強すればよいという指針ができたが、そのためにかえって官僚の質の低下を招く結果となった。
永楽帝が、唯一の高級官僚登用試験に、皇帝が受験教科書や答案の書き方まで指導するようになる以前までは、儒教倫理に適うテキストがいろいろ使われてきた。
科挙を首席で合格した者を「状元」と呼ぶが、宋代までの状元には、まさに大国の宰相にふさわしいような人材が多数輩出された。
13世紀中頃、弱冠20歳で首席合格を果たした文天祥は、南宋の滅亡に際し最後まで抵抗を続け、名臣中の名臣と称えられた人物だった。
が、初めは本当に総理大臣にふさわしい人物が出ていたが、だんだん堕落して、単にテキストどおりに解答の書ける人間のみが合格するようになっていった。
さらに、そうした形で科挙に合格した人間が試験管になり、自分と同じような者を官僚に登用する。
ここにおいて、科挙は官僚の自己増殖の過程となり、このことはまた、科挙のみならず、儒教という宗教の宗教的堕落をもたらす要因ともなってしまった。
◆ 日本に輸入された科挙の弊害
中国における科挙の歴史はまた、まさに明治以降の日本の教育問題、官僚堕落の歴史そのものとなった。
科挙の受験地獄は、日本のそれとは比べようもないほど過酷なものだったが、かつての帝大(帝国大学)卒が、それだけでエリート官僚という特権階級入りができたという点において、日本の教育制度は科挙の趣旨を見事に具現していた。
・日本の受験競争は、学歴による「階級社会」を作り上げた
江戸時代、幕府や諸藩では儒教(朱子学)を武士たちの学問として採用したが、科挙は取り入れなかった。
しかし明治時代になって、近代化のための政策として導入された「試験」制度は、中国において腐敗した科挙の制度の弊害をそのまま発生させる結果となった。
日本の官僚制は、近代ヨーロッパ、とくにドイツの官僚制を手本にしたこといなっているが、本当は中国の「科挙制」(ペーパーテストによる高級官僚の公募制度)を手本にしたもの。
日本は中国から、科挙、宦官、纏足、人肉食は輸入しなかったが、しかし、科挙については、徳川時代までは輸入しなかったが、明治以後に中国を真似て作った。
そしてこの受験スステムは、現代日本においてむしろ徹底され、明治時代、ごく一部の高等教育機関にのみ見られた「受験競争」は、今や小学校や幼稚園に浸透するまでになった。
そして、日本の受験競争は、単なる学力競争にとどまらず、わずか100年足らずで、日本に見事な「階級制度」を作り上げてしまった。
日本が手本とした中国の科挙は、永楽帝の死後、官僚国家をとことんまで破壊し尽くした。
皇帝自ら教科書を作り、答案の書き方まで指導した受験制度によって、それが知性や志より受験技術を磨くことに没頭する仕組みをつくり、志も良識もない官僚を大量生産することとなった。
中国が歴史に刻んだ奈落への道を、日本は猛スピードで追いかけている。
決められたレールの上だけを走るように飼い馴らされた人間は、現実適応能力を失ってしまう。危機に対処できない。
・「依法官僚制」と「家産官僚制」
マックス・ヴェーバーは、巨大帝国に官僚制は不可欠だと指摘してるが、しかし、資本主義下における官僚制は「依法官僚制」でなければならないとした。
「依法官僚制」とは、法律に従って機能する官僚制のこと。
絶対主義時代のヨーロッパにも官僚制は存在したが、それは「家産官僚制」だった。
国家のものは王のもの、王のものは私(官僚)のものと思っていた家産官僚には、賄賂と給料の区別もなかった。
科挙によって強大な官僚制を築き上げた中国も、家産官僚制から脱することができなかったために腐敗を極め、朽ち果てていった。
◆ 官僚制度の腐敗を抑えるために必要な「カウンターバランス」
官僚制がまともに動くための条件の一つとして必要不可欠なものは、官僚制と競合する「カウンターバランスシステム」。
中国において、科挙のみに基づいた官僚制が千年近くも長く続いたのは、このカウンターバランスシステムがあったから。
そのカウンターバランスシステムとは、「宦官」の存在。
皇帝のプライベートな部分を世話する宦官は、後宮に入る必要性から、男性器を切除されていて(去勢)、もともとは古代において罪人の職務だった。
しかしその権力と能力はなかなか侮れず、宦官は高級官僚ではないから、科挙は受けなかったが、権力につながるヒエラルキーをつくり、その組織は官僚化した。
宦官制は科挙による官僚制とは全く異なる組織で、中国には、科挙の官僚制と宦官の官僚制の二つが存在し、
その二つが相互に「チェック・アンド・バランス」をしあっていた。
これが、中国の官僚制が長く存続した大きな理由。
・宦官に劣った無責任な科挙の官僚たち
人生のエネルギーを受験勉強に吸い尽くされた高級官僚の「行動様式」はどのようなものになってしまうのか。
明の英宗帝は、1449年、蒙古の土木堡で大敗し、捕虜として連れ去られた。そのとき、受験秀才で固められた明の高級官僚は、
「ただ周章狼狽、策の出るところを知らず」と、うろたえるばかりで何もできなかった。
この危機を収拾したのは、宦官たちだった。
宦官は、南京へ逃亡しようとする敗戦主義を一喝して退け、兵部侍朗(陸軍次官)の于謙指揮官にして、断固として北京城を死守して蒙古軍を撃退させて、蒙古と交渉して捕虜になった英宗帝を取り戻した。
また、明王朝の世も末になったころ、北京城は流賊の李自成の大軍に囲まれるところとなったが、北京城は難攻不落の堅城と思われていたにもかかわらず、なんと裏切り者が中から城門を開いて、やすやすと敵の無血入場を許してしまった。
しかもこのとき、明の高級官僚たちは、
「李自成万歳」と叫び、彼の馬前にひれ伏してこれを迎えたという。
明の最後の毅宗皇帝は自殺した。
このとき、十数人の宦官が殉死したが、高級官僚で殉死した者は一人もいなかった。
高級官僚の受験のテキストたる儒教(朱子学)の古典のテーマは、「忠臣義士」の養成にあった。
が、いかにこの古典の道徳や倫理を暗記し、最難間たる科挙に合格しても、結果はこの有様だった。