第八十六話 小麦畑で捕まえて
薄闇の中、燃え立つ炎に浮かび上がった存在にレッジは息を呑んだ。
……骨だ。
矢筒を背負い弓を構えた骸骨が柵の外を駆け抜ける姿に、動揺しながらもレッジは弓弦を急いで鳴らす。
焦りを含んだ矢は骨から身一つ分外れて、闇の向こうへと飛び去った。
次の瞬間、唐突に足を止めた骸骨が弓を引き絞る。
咄嗟にレッジは、小麦の茎の影に身を伏せた。
正確に頭上を通り抜けた矢の風切り音に、若い盗賊は舌打ちをする。
お宝を抱えた奴が森へ逃げ込むのを防ぐだけの仕事のはずが、こんな相手が出てくるとは本当に予想外であった。
「……骨が矢を撃ってくるとか、なんて冗談だゾ」
屍使いの噂をチラリと思い出しながら、レッジは中腰のまま麦の穂を掻き分けて走り出した。
操ってる奴を倒さなければ意味はない。
だがそうしようにも、あの弓を構える骸骨が邪魔過ぎる。
小走りの姿勢のまま、レッジは弓を空に向けて矢を放った。
数歩進んでから、膝をついてゆっくりと弓を引き絞る。
山なりに飛ばした矢は、骸骨から数歩離れた柵に突き刺さって鈍い音を立てた。
即座に骸骨は、矢の飛んできた方角へ弓を向ける。
囮が上手くいったことに内心頷きながら、レッジは骨の頭部に的を定めていく。
あとは骸骨が矢を放った隙に仕留めるだけ――。
骸骨の弓弦とレッジの弓弦の響きは、ほぼ同時であった。
勝利を確信した盗賊は、その後の出来事に思わず声を上げた。
「何だぁ!」
矢を放った瞬間、骸骨は大きく頭を仰け反らせた。
寸前まで骨の頭があった場所を、レッジの矢が通り抜ける。
直後に弓を構え直した骸骨は、レッジの潜む方向へ矢の先をピタリと向けた。
釣られたのは己の方だったと気付く間もなく、骸骨の放った矢はレッジの耳を掠め帽子を吹き飛ばしていた。
「糞! ホントに誰かが操ってるのか? 今のはあり得ない動きだゾ」
慌てて麦の上を転がりなら、レッジは骸骨から距離を開ける。
生半可な駆け引きは命取りだ。
改めてそのことに気付いた盗賊の幹部は、大きく息を吸い込んで眼前の敵に意識を集中させた。
音を可能な限り消しながら、レッジは慎重に移動を始めた。
陽が落ちた今、周囲を照らすのは燃え上がる柵が放つ光だけだ。
その柵を乗り越えることもなく、骸骨は弓を下げたまま向こう側に佇んでいる。
不気味な骨の姿を眺めながら、レッジは相手の動きに当たりをつける。
「目で見てるとは考えられねぇゾ。だとしたら音か臭いか。この遠さで臭いがわかるはずもねぇゾ」
音で勘付いてるとなると……。
前屈みのまま、レッジは矢をつがえてヒョイと放った。
間髪入れず戻ってくる骸骨の矢を待たずに、転がりながら立ち上がりまたも矢を放つ。
やや遠すぎるせいか、二本とも手前の柵に当たってしまう。
再び矢が飛んで来る前に、レッジは素早く麦穂の間に潜り込んだ。
間違いない。
あの骸骨は、レッジの弓鳴りに反応していた。
「……だったら音を消せばいいだけだゾ」
呟きを漏らした盗賊は、息を潜めたまま時期を窺った。
レッジが先ほど放った二本の矢。
その狙いは骸骨本体ではなかった。あえて手前の柵を狙ったのだ。
すでに火のせいでかなり脆くなっていた柵は、ニ度の衝撃で火の粉をさらに舞い上げた。
そして下の横板が耐え切れず、柵から離れて焼け落ちる。
燃える板が地面にぶつかる直前、弓を引き絞ったままレッジは立ち上がった。
落下の音に合わせ、渾身の矢を放つ。
だが、それさえも聞き分けたのか、骸骨はまたも身を一歩退いた。
骸骨が居た場所を通り抜ける一本の矢。
「ハッ、化け物め。このレッジ様は甘くねぇゾ」
同時に放たれたもう一本の矢が、骸骨の肩を貫き弓を弾き飛ばす様に盗賊は唇の端を釣り上げた。
重ね矢――一時に二本の矢を放つレッジの隠し玉だ。
勝利を確信したレッジを前に、右腕を失った骸骨は己の胸を抱きかかえるような仕草を見せる。
止めの弦を引く若き盗賊に向けて、そのまま骸骨は左腕を振り抜いた。
白い何かが骸骨の手から放たれる。
回転しながら飛来するソレ――骸骨の肋骨を、レッジは余裕を持って一歩下がって避ける。
相手の仕草を真似てみせたレッジは、悪足掻きを終えた骸骨にもう一度弓を構え直した。
「なかなか、楽しめたぜ。骨野郎」
真っ直ぐに骸骨の頭部目掛けて矢を射ろうとしたレッジだが、なぜか指が動かないことにそこでようやく気付いた。
指だけではない。
腕全体が痺れていた。
いや、痺れはすでに体中に回っていた。
声を上げようとして喉が動かないことに気づき、レッジは顔を引き攣らせる。
その後頭部を強い衝撃が襲った。
何が起こったか分からぬまま、レッジの意識は闇に飲み込まれた。
▲▽▲▽▲
盗賊たちの中では一番年若いシュナックだが、その若さゆえ骨だけで動いている異常をあっさりと受け入れた。
慌てず構えた両手持ちの弩で、柵の飛び越えてきた骸骨の着地を狙い矢を射かける。
空気のぶれたような音が響き、次いで短く鋭い弩の太矢が二つに分かれて地面に落ちた。
「……嘘だろ。こいつの矢を切り落とすとか」
ガチンと大きく歯を打ち鳴らした骸骨は、シュナックの方へと向き直る。
骸骨との距離はざっと三十歩。
弩をつがえ直すには十分な距離だ。
いや、もっと余裕はあるだろう。
シュナックと骸骨の間に横たわる麦畑には、すでに麦の穂同士を結んだ括り罠がたっぷりと仕掛けてあった。
足を引っ掛けて転べば、さらに時間は稼げるという算段だ。
弩の先端の鐙に爪先を通し、弦を引っ張り上げようとしたシュナックは唖然として目を見開いた。
麦畑の向こうに居たはずの骸骨は、すでに目の前に立っていたせいだ。
――三歩。
たった三度の踏み込みで、骸骨は軽々と麦畑を飛び越えてしまっていた。
狼狽した若者は、巻き上げ終えたばかりの弩を落として後退る。
ガチンとまたも歯を噛み合わせた骸骨は、両手に剣をぶら下げたままゆるりとシュナックの方へ顔を動かした。
そして一歩、踏み出す。
その瞬間、シュナックは心の中で大きな笑みを浮かべた。
骸骨の足の下には、草に隠された穴が待ち受けていたからだ。
用意周到な若き盗賊は、前もって複数の罠を用意していた。
落とし穴自体は膝の深さ程しかないが、穴底には尖った杭が仕込んである。
踏み抜けば骸骨だろうが、足の骨が貫かれるのは間違いない。
「…………そんな馬鹿な」
眼前に広がる信じ難い光景に、若者は呻き声に近い悲鳴を上げた。
骸骨は確実に落とし穴を踏んだはずだった。
だが何事もなかったかように、骸骨はその上を通り過ぎてきたのだ。
一切の音を立てず草の上を滑るように近付いてくる骸骨の姿は、シュナックを酷く怯えさせるには十分だった。
「く、来るな!」
咄嗟に抜いた小さな短剣たちを、骸骨へ向けて闇雲に投げつける。
再び刃が空を舞い甲高い音を続けざまに発して、二振りの短剣は簡単に弾き飛ばされた。
焦った顔で後退ったシュナックは、つまづいて地面へ尻餅をつく。
「ち、ちくしょう、何でこんなことに!」
座り込んだ姿勢で、拾った足元の小石を投げつけるシュナック。
大きくずれた軌道を描く石は、骸骨を掠めることもなく斜め後ろへ飛んでいく。
もっとも当たったところで、何一つ損害を与えることは叶わないが。
だが、それはシュナックも重々に承知していた。
彼の狙いは、骸骨に石を当てることではなかった。
本当に彼が当てたかったのは、骸骨の背後に置いておいた弩の引き金だった。
あえて落とした振りをして、射線上に誘き出したのだ。
狙い通り引き金に命中する小石。
弾んだ音を立てて弩が動き出し、太矢が発射される。
それは狙い通り、骸骨の背骨へと――。
振り向きもせず、白い骨は無造作に剣を振るった。
何かが断ち切れた音に続き、真っ二つになった弩の矢がシュナックの前に落ちてくる。
「ヒッ、ヒィィ!」
情けない悲鳴を上げながら、シュナックは何とか逃げようと足を動かす。
そんな懸命な若者を見下ろしながら、骸骨はガチンと三度目の歯を鳴らした。




