第六十四話 少年は走る
アルデッドは臆病な少年であった。
夜の闇を恐れ、雨で溢れそうな流れに怯え、村を取り囲む森の奥を想像しては震えた。
おねしょが治ったのも、ごく最近の話である。
そんな意気地がない少年には、無鉄砲な幼馴染みがいた。
アルと同じ年に生まれた少女の名はロナ。
ロナは愛らしい外見には似つかない行動力を秘めた娘に育った。
何にでも怖気付くアルとは、正反対の性格である。
対照的な気性の持ち主同士であったが、二人は仲良く大きくなった。
ただし仲良くといっても、突っ走るロナに懸命について回るアルという有り様がほとんどであったが。
そして何かしらの問題が起きた時に、いつも尻拭いに走り回るのもアルの役目だった。
畑の水路を勝手に開放事件やダルトンさん家の豚逃亡事件など、ロナがやらかしたことは数知れない。
その度にアルは必死で水を掻き出したり、豚に跳ね飛ばされて尻に青痣を作ったりする羽目になった。
そんな目にあっても、アルは勇敢でちょっと考え足らずな少女が大好きであった。
ロナはいつだって尻込みするアルの手を、ギュッと掴んで引っ張ってくれたからだ。
それにアルが泳げるようになったのも、ロナに付き合って何度も川に落ちたおかげだし、人前に出てもどもらずハッキリ話せるようになったのも、ロナの大声にかき消されないように頑張ったおかげである。
ちょっとした打ち身や怪我はロナと一緒に居れば日常茶飯事だったが、それも傷口を少女に撫でて貰えたら痛みなんてすぐに消し飛んでしまった。
それほどにアルにとってロナは、とても大事でかけがえのない存在だった。
だから少女がこっそりと双子を連れて川伝いに森へ向かったのを見かけたアルが、心配して後をつけたのも仕方ない。
野犬に襲われたロナたちの前に咄嗟に飛び出して庇ってみせたのも、アルにとって至って当たり前の行為だった。
もっともその後は藪から現れた化け物が、全てを持っていってしまったが。
ロナはその動く骸骨を御使い様と呼び、心酔し熱を上げるようになってしまった。
何度かその間違いを指摘したのだが、聞き入れて貰えないのでそのうちアルも諦めてしまった。
それに骸骨さんは、なぜかその恐ろしい見た目とは裏腹にアルたちに危害を加えようとはしなかった。
むしろ魚を取ってくれたり、森の実りを分けてくれたりと、とても親切であった。
さらに骸骨さんは、アルに魚を釣るという奥深い行為まで教えてくれたのだ。
その日からはアルは、骸骨さんを師匠と呼ぶようになった。
それに師匠に出会ってから、アルの身の回りに不思議なことが起こり始めていた。
村の近辺にいた盗賊団が消えてしまったり、龍の雨季なのに川が凄く大人しかったりと。
森の呪いで骨の見た目になってしまったが、心はそのまま残った寂しがり屋で子供好きな旅の人。
そして不思議な力で、困ったことは何でも解決してくれる。
いつしかアルは、動く骸骨をそんな風に考え始めていた。
だがそんな少年の想像は、彼の仲間に無理やり連れて行かれた洞窟を見て粉々に砕け散ることとなる。
薄暗がりの中を、ウロウロと歩き回る恐ろしい骨々の群れ。
そして洞窟の奥にあった禍々しい黒い箱。
あれはきっと地獄に通じる門に違いない。
アルはそう確信した。
師匠は師匠だが、同時にやはり恐ろしい死の使いであったと。
ここは、生きた者が決して近づいてはならない場所だと。
少年が現実を自覚したその時、村でもまた恐ろしい事実が突き付けられていた。
男爵様の徴税官が村を訪れていたのだ。
徴税官の言い分はこうであった。
今まで見逃していたが、この土地は男爵様のものであり勝手に住まうことは許されない。
だが地代を払うというのであれば、村の存続を許可してやらんでもない。
来月の末までに、銀貨四十枚の支払いか小麦の大袋四十を求める。
支払いが無理な場合、賦役の人足として男十人を半年の間、提供せよと。
徴税官が去った後、村落の集会は大いに荒れた。
「おらたちが逃げてきた時、受け入れて下さらなかった男爵様だぞ。信用できる訳がねえべ」
「ああ、大方、今年は川の増水がなかったから橋の守り賃が入らなかったとかで、代わりにおらたちから巻き上げようって魂胆だべ」
「だが地代を払えば、ここの土地は俺たちの物になるんだろ?」
「いや元から男爵様の物でもねえべ。ここは狭間の場所だて、誰のモンでもねぇはずだ。そうだろ、村長?」
「ああ、国境のこの場所は、ハッキリ持ち主は決まってない。だからといって、俺たちみたいな庇護のない農夫風情が訴え出るわけにもいかん」
「男爵様の下に入ったら、もっとマシな暮らしが出来るんじゃないの? 私しゃもう逃げ回るのはゴメンだよ」
「ハッ、取るだけ取ってそれだけさ。こんなとこまで、兵隊を寄越してくれる訳もなかろうよ」
「だったら断るつもりかい? それこそ兵隊がやってきて滅茶苦茶にされるよ」
「そもそも銀貨なんぞ、ある訳もない! 小麦を持って行かれたら、どうやって明日から食っていく?」
「…………男たちを差し出すしかないのか」
「うちは無理だべ。働き手がおらんようになったら、立ち行かん」
「それはおらのとこもだ! 村長、どうするつもりだ?」
「蓄えなら少しはある。小麦も少しなら出せよう。足りない分を人で賄うしかない」
「だったら、俺ん家は――」
「いや、そんなら――」
集会は夕刻まで続き、結論を出せないまま閉幕となった。
その日の夜、村長の家に村の有力者が集まって、再び合議は続けられた。
こっそりと戸の後ろに潜んだまま、アルは聞き耳を立てる。
「どうすべきだと思う? 村長」
口火を切ったのは、村で唯一の鍛冶屋を営むウンド親方だ。
「今、分かっているのは、断るのは無謀だということだ」
「しかし実際に金を払えばそれで解決など、わしには到底思えんぞ、村長。あの男爵は、まるで信用できん」
村で一番の財産を持つダルトンが不信感を露わにする。
「かといって、払わない選択肢は選べないでしょう? 村の方に危害が加えられるのを、私は見過ごせません」
ダルトンを諌めたのは、村の教会兼宿屋を営む教母シュラーであった。
彼女はロナと双子の母でもある。
「シュラー様の言う通りだ。俺たちに出来るのは精々、要求された分の減額を願い出るくらいだろう」
「だったらそれこそ、シュラー様の出番ではないか。あの徴税官に宿に泊まってもらって――」
「その話は、今すべきか? ダルトン」
ウンド親方の制止に、合議の場は再び静かになった。
しばしの沈黙のあと、ゾーゲン村長がおもむろに口を開く。
「実はな、換金できそうな物があるにはある……」
集まった面々が訝しそう顔を上げたのを見計らって、ゾーゲンは言葉を続けた。
「お婆、例の物は仕上がってるか?」
「ああ、何とかモノになったよ。ホレさ」
それまで全く言葉を発していなかったのは、村外れに居を構える薬師のエイサン婆だ。
逆らった人間をカブに変えてしまったとか、彼女の薬草畑には泣き叫ぶ案山子が居るとかの、数々の恐ろしい噂の持ち主でもある。
「何だこの糸は?!」
「真っ黒だけど、この手触り……」
「俺は布っきれには詳しくないが、これがたいした物だってのは分かるぜ。一体、どこで手に入れたんだ?」
口々に驚きの声を上げる三人に、ゾーゲンは重々しく頷いた。
そして覚悟を決めて、種を明かす。
「それは、俺の息子が拾ってきたものだ。…………上流の川原でな」
「まさか!」
「それは本当なのか……? あの森に入っただと……」
「ああ、事実だ。その黒い絹糸なら、銀貨を出しても惜しまない人間は多いはずだ」
「た、確かにそうだが、その、大丈夫なのか?」
「もし呪いがあるとするなら、とっくの昔に俺は息絶えているぞ。ダルトン」
「う、うむ。その点は信用しよう。しかしこれっぽっちでは、銀四十枚は難しいぞ」
その言葉に大きく頷いた村長は、再びテーブルを見回した。
「そうだな。そこで相談だ」
「ひょっとして、探しに行く気か?! 正気の沙汰じゃないぞ!」
「だが黒絹糸がもっと見つかれば、村を救うことが……。この土地をまるごと買い上げるのだって夢でなくなるぞ」
「私は反対です! とてもじゃありませんが、危険すぎて賛成できません!」
「このまま若い衆を持っていかれたら村は終わる。俺は村長を支持するぜ」
「わ、わしは……」
合議の結論を最後まで聞き届けずに、アルは足音を殺して自分の寝床まで戻った。
穏やかな寝息を立てていた弟の顔を覗き込み、それから村人たちの顔を出来るだけ思い浮かべる。
最後に浮かんできた少女の顔を思い返しながら、少年は震える手を力一杯握りしめた。
「…………ロナと一緒にいれる場所は、僕がきっと守ってみせる」
そして少年は、再びあの恐ろしい場所へ足を運ぶことを決意した。
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「なるほど、それで黒芋虫の糸がほしいと」
少年から粗方の説明を受けた吾輩は、肩を竦めて頷いた。
何か大事かと思って、慌てふためいたのは本当に間抜けだったな。
うむ、もう忘れよう。
「それは前に釣り糸で使えないか、少年に渡しておいたやつだったな。ふむ、人間には貴重な品だったのか」
「ここじゃ、絹糸まで生成できませんものね」
「倒す!」
「ああ、ネバネバが厄介だったな、ロクちゃん」
正座したままのアルが、吾輩に縋るような視線をぶつけてくる。
はいはい、分かった分かった。
「この間の花園遠征の収穫品に、粘糸を木の皮にまとめたやつがあったな。あれで十分だろう」
「只で上げるんですか?」
「今のこいつらが、何か差し出せると思うか? それに最初は只でいいんだよ、最初はな」
「なるほど、もっと欲しくなった時こそ狙い目ってやつだな」
「そういうことだ、クックック」
「変な笑い方をする吾輩先輩も可愛いですね」
粘糸がべったりとついた木の皮を渡すと、少年の目が真ん丸になり壊れたように頭を上下に振り始めた。
「ついでだし、川原まで送ってやるか」
「ああ、どうせならこの脚も持たせてやるのはどうだ?」
「それはネズミの餌にしようと思っていたが、一本もあれば十分か」
切り落とした猪の後ろ脚を、少年の背中に括りつけてやる。
「あ、ありがとうございます。師匠!!」
何度も振り返り頭を下げながら、少年は戻っていった。
自らを犠牲にしてまで守ろうとした場所へ。




