第二十四話 わんわん再び
いやはや、吾輩またも早とちりをしてしまったようだ。
まず子供の群れと言ったが、正確には四人しか居なかった。
次に戯れると言ったが、正しくは全く逆の状態であった。
幼子たちは今まさに、川っぷちに追い詰められているところだった。
青ざめた顔で子供たちの先頭に立つのは、十歳前後の男の子だ。
くすんだ茶色の髪の少年は歯の根を震わせながら、手に持つ太めの木の枝を懸命に持ち上げている。
その背後に庇われているのは、先日この川原に放流した少女にそっくりだった。
金髪の少女の剥き出しの脚に、よく似た二人組の幼女が目を固く閉じて懸命にしがみつく様が見える。
そして子供たちの対面には居たのは、真黒な犬であった。
一回り大きい体格からして、先日の野犬とは別の犬だとすぐに分かる。
それに一目で分かる違いがあった。
黒犬の首には、太い荒縄が巻き付いていたのだ。
どうやら誰かに飼われている、もしくは飼われていた犬のようだ。
黒犬は背を低くしながら、獰猛な唸り声を喉元で響かせる。
完全に臨戦体制に入ってるな。
対する子供たちの表情は、この世の終わりのような絶望に覆われていた。
うーむ、ここで賢明な判断をするならば、黙って引き返すの一択だろう。
子供が食い殺されたあとで、食事中の犬を背後から狙えば無力化は出来るかもしれない。
だがあの黒犬に飼い主がいる場合、余計なリスクを招く恐れがある。
と、己の心に言い聞かせてみたが、どうにも無理であるようだ。
今にも殺されそうな人間の子供たちを前に、吾輩の感情は抑えきれないほど高まっていた。
……ああ、勿体ないと。
あの子供たちは、これから吾輩たちの為に技能を磨いてくれるいわば金の卵とも言えるのだ。
ここで犬に食わすには、余りにも惜しい。惜しすぎる!
吾輩の内にふつふつと怒りがこみ上げてくる。
ロクちゃんの時もそうであったが、吾輩の理性は損失が絡むと簡単に溶け去ってしまうようだ。
犬が発する威嚇の声は、さらに迫力を増していた。
少女が息を呑むように小さな悲鳴を発し、少年の持つ木の枝の先が小刻みに震える。
その有り様に吾輩は覚悟を決めた。
茂みを抜き足差し足で移動しつつ、こっそりと石を拾い上げる。
そして射程距離まで近付いてと――。
喰らえ、投げ当て熟練度7段階の投石!
空気を切って飛んだ石は、今まさに飛び掛かろうとしていた黒犬の耳の後ろへ見事に命中した。
目の前の獲物に夢中になっていた犬は、間抜けな悲鳴とともに大袈裟に跳び上がる。
振り向いた犬は、吾輩のいる茂み目掛けて激しく吠え声を放った。
よし、二投目。
あっさりと横に飛んで躱された。
流石に距離があると、避けられてしまうな。
だがこれで新たな脅威が発生したことは、犬に十分伝わったはずだ。
とっとと尻尾を巻いてって、あれ?
…………逃げないぞ、この黒犬。
蜘蛛の奴は、さっさと逃げ出したのに。
犬は吠え立てるばかりで、子供のそばを離れようとはしない。
完全にこちらへ体を向けながらも、視界の端に子供を置いて両方を警戒しているようだ。
逃げ出したり眼の前の獲物を放棄してこっちへ向かってこないのは、野生ではなく訓練されているということか。
不味いぞ。
このままだと、仲間の犬や飼い主が駆けつけてくる可能性が非常に高い。
今すぐ、この場を離れるべきか?
いや、吾輩の臭いを追跡されて、洞窟の場所がバレる危険性もある。
……なんてこった。
姿を見せずに軽く手助けするつもりが、大幅に計算がくるってしまったぞ。
判定から見た黒犬の魂力は、最低でも5から7。
今の吾輩で勝てるかどうかは、微妙なところだ。
だが、やるしかないようだ。
まあ最悪、頭部だけでも無事なら、書き置きを見た五十三番らが回収してくれるだろう。
意を決した吾輩は、黒曜石のナイフを握りしめ川原へ足を踏み入れた。
吾輩が姿を現した瞬間、犬は吠えるのを止めた。
身構える間もなく、猛然と十数歩の距離を駆け抜けてくる。
――速い!
反射的に、ナイフを持つ右手を持ち上げる吾輩。
一瞬で距離を詰めた犬は、その体を跳ね上げ吾輩の腕に飛び付いてくる。
手首に牙を立てた犬は、勢いそのままに身体を捻った。
なるほど。
まず速度で不意を突いて、武器を持つ手を狙い攻撃手段を押さえる。
さらに体重を掛けて引き倒すことで、地面に転がし動きも封じてしまうと。
いや、感心している場合じゃないな。
このまま地面に引き倒されたら、向こうのフィールドになってしまう。
腕力増強が付いた今なら抵抗できるかもしれないが、あえて吾輩は腕の力を緩めた。
犬の強烈な引っ張りに、あっさりと肩関節から腕が引き抜かれる。
右腕がすっぽり取れてしまったことで、犬は勢いを殺しきれず、やや体勢を崩しながら地面に着地して吾輩を睨みつけてくる。
その全身がグッと力を溜める様に、吾輩はロクちゃんの首が噛み切られた瞬間を思い起こす。
なら、その前に――。
飛び上がる寸前の間を捉えた吾輩は、左手首を素早くしならせた。
下手投げから放たれた小石は、真正面から犬の眉間に命中する。
驚いて口を開く黒犬。
怯んだせいか、尻餅をつくような姿勢になる。
その好機を逃さず、吾輩は肩の関節から伸ばしていた念糸を一息に手繰り寄せた。
当然、その先に繋がっている右腕が元の位置へと戻ってくる。
腕ごと武器を取り戻した吾輩は、即座に犬の顔目掛けてナイフを振るった。
三回斬りを狙ったが、どうも一往復が限界だったようだ。
だが狙い通り鼻先を切り裂いた黒曜の刃は、返す一撃で犬の右目に深々と突き刺さった。
黒曜の刃が柄から外れ、大きく悲鳴を上げる犬。
飛び退りながら、近くの茂みへ逃げ出そうとする。
その後ろ脚に、吾輩の投石がヒットする。
脚を引きずりながらも懸命に前へ進む犬。
その体に練習を兼ねて、石を次々と当てていく吾輩。
八発目でようやく犬の動きが止まった。
用心しながら近付くと、犬は荒く息を吐きながらも吾輩を睨み付けてくる。
その片目と鼻先からは、赤い血が溢れ出していた。
じっと見ていると、犬はぐったりと地面へ顎をつけた。
魂力の減少ぶりから見るに、もう体に力が入らないのだろう。
念のため後ろ脚を逆間接にへし折ると、犬は口から泡を吹きながら痙攣を始めた。
抵抗を止めた犬を体を肩に担いた吾輩の鼻腔に、濃い小便の臭いが入り込んでくる。
疑問に思って振り向いた吾輩は、驚きで思わず動きを止める。
子供たちは、なぜかまだそこに居た。
どうして、逃げていない?!
男の子の顔色は、完全に血の気が引いて真っ白になっていた。
幼子たちは目と口を仲良く真ん丸に開けて、吾輩を凝視している。
しかし女の子だけが、全く違っていた。
目を最大限に見開いているのは他の子と同じだが、その唇の端が大きく持ち上がっている。
嫌な予感を抱いた瞬間、少女は銅像の様に固まっていた少年を突き飛ばして吾輩の元へ駆け寄ってきた。
「て、天の御使い様! 御使い様ですよね?!」
半ば転ぶように近付いてきた少女は、吾輩の数歩手前でいきなり地面に伏した。
両手の指をきつく組合せ、祈りを捧げるような姿勢で問い掛けてくる。
……いや、骨違いだよ。
吾輩はこの時、心の底から舌が欲しいと願った。




