77話
◇◆◇ サァレス
その部屋には机と椅子しか置いていなかった。
しかし、大量の資料と本が乱雑に積み重なり足の踏み場所さえなくなっていた。
その部屋の主であるサァレスは椅子に深く腰掛け、天井の明かりをボンヤリと眺めていた。
「本当、どうしたもんかね。何処から手を付ければいいのか」
現状、厄介な優先案件は3つある。
そのうち一つはVIP待遇ではあるが投獄には成功している。
だが、アレを本当の意味で投獄したとは言えないだろう。
自力で出ようと思えば出れる牢獄は、タダで泊まれる宿と変わらないだろう。
だが、それでいい。
何よりも快適だと思ってもらい、出ていく気が失せ気分を害さないようにすればいい。
警戒のしすぎだろうか。
いや、杞憂であるならそれに越した事は無い。
例え臆病者だと笑われても死ぬわけではない。
臆病な間抜けがいた、それで終わりだ。
ただ、アレを見て最悪を想定すべきだと感じた。
目を閉じ、深くゆっくりと呼吸をする。
取調室のことを思い出す。
最初にアレに調書を取ったのは俺だ。
報告書に上る人物がどんな奴か知りたくて無理を言って代わってもらった。
直接この目で確かめ、他愛のない会話をしてみたが、典型的な弱者が最初の印象だった。
言われていた通り魔力が無い。
才能あるものに共通する独特な雰囲気や自信と言ったものが感じられない。
試しに煽ってみるも苦笑いするばかりで反応が薄い。
いっそ攻撃的な態度を取ってくれれば対処がしやすいのだが、覇気すら感じられない。
年齢こそ若いが、見た目通り枯れている印象すら抱く。
凡夫である俺では見極められないのだろうかと、別の方へ意識が向いたときにふと気が付いた。
最初に話していた位置から少しだけ離れている。
初めは勘違いだろうと、特に気にせず椅子ごと前に詰めようとした時、それが異常であると気が付いた。
前に進めない。
それどころか前のめりになる事さえできない。
まるで椅子に縛り付けられたかのような感覚。
呼吸もどこか息苦しく、呼吸音まで変になっているような気がする。
手足が痺れるような感覚がして、上手く動かせない。
なんだ? 何が起きている?
体が、本能が、近づくことを拒んでいるとでもいうのか。
現状をより詳しく把握するため、視線を動かしていると目の前の男と目があった。
その男は何の表情も浮かべずにこちらを見ていた。
ただ、それだけだった。
何も感じない。
いや、何も感じない事こそが異常ではないのか。
浮かびあがる疑念さえも、まるで他人事のように感じる。
この異常事態はあの男が関わっているのは間違いないのに、それでもあの男が異常であると判断できない。
事ここに至っても、あの男に恐怖すら抱けていないのだ。
意識が遠のく一瞬。
気が付けば椅子から転げ落ちていた。
先程とは違う理由で素早く、この場から逃げるように切り上げた。
部屋から出ると大量の汗と極度の疲労感が残っている。
荒げる呼吸が落ち着いてくると、変な笑いが込み上げてきた。
まるで何かの冗談の様で、質の悪い小説を読んでいる様で、夢を見ていたような気分だった。
起きたことの現実感が無い。
理解できないと言う気持ち悪さとむず痒さだけが残っていた。
あの優秀なアクゥンを自然災害クラスだと言わせしめながらも分からないと評価した意味が、本当の意味でようやく理解できた気がした。
アレには誰も近づけさせてはいけない。
目を開く。
変わらない天井。
いっそ全部夢であったのならと、割と本気で願ったが何も変わっていなかった。
変わっていないのなら仕事をしなくてはならない。
勤め人の辛い所だ。
また一つ大きく深呼吸する。
今の所、アレの時間が稼げるている内は保留扱いでいいだろう。
会話も出来るし、ある程度の常識もある。
交渉できる可能性は残っている。
そういう意味では観光に来たドラゴンと言うのは的確な表現である。
折を見て、気分良く出て行ってもらえるように誘導しよう。
そうなると残りは2つだ。
散らばった資料の上に、問題となる報告書を広げる。
この件に関して唯一の朗報と言えるのは、両者ともこの国が目的ではないという事だろう。
向かう方角が少しズレている。
1つは随時確認が取れており、定期報告も届いている。
予測にはなるが、目標となる場所は渦中の人工ダンジョンであろう。
何が目的かは分からないが、潰し合ってくれるなら万々歳。
だが、
「それは予測ではなく、縋りたい希望の部類だよな」
最悪を想定して準備すべきだ。
引き出しを開け、中に入っていた砂糖菓子を口に放り込む。
ボリボリと部屋に響く。
最悪なのは両者が協力関係である場合だ。
それならば、あのダンジョンから出てこず反撃してこない理由に納得が出来る。
援軍が来るまで待っているのだろう。
合流されるのは不味い。
どちらかを相手にするなら、情報量の多い人工ダンジョンを優先した方が良いだろう。
接触する前に総力を挙げて人工ダンジョンとその主を潰しておきたい。
組むべき相手が居なくなれば、退いてくれる可能性が出て来る。
そうなると総戦力での短期決戦が好ましい。
そのためにも勇者の協力が必要だ。
一度は撤退したとはいえ勇者の力は絶大だ。何としても勇者の力を借りたいところだが、その勇者達の腰が重い。
あの敗走がよほど堪えたのか動いてくれる気配はない。かと言って、勇者抜きでの総戦力は避けたいところ。
甚大な被害が出る事は予想できるし、最悪の場合は全滅の危険性すらある。
例え上手く行けたとしても、向こうが撤退せず連戦の可能性が拭えない以上無茶はしたくない。
勇者の置き土産で作られた装備が出来上がるようなので、それを口実に動いてもらうしかない......か。
低く唸り、考え込む。
やはり不安が拭えない。
勇者の協力は絶対だが、実力に疑問が浮かんでしまう。
スキルや魔法が強力であることに疑問は無いが、使う勇者達が未熟であることに一抹の不安がよぎる。
確かに勇者たちは幾つもの眩い功績をあげているが、召喚されて日が浅い。
経験不足であることは否めない。
もう少し成熟していればと思わなくもない。
不安材料はまだある。
厄介案件の最後の一つ。
個人的に一番懸念している案件だ。
ある意味で一番不気味で厄介であろう案件。
重さの無い大きな白いローブの様な物を羽織り、手と足付近に金色の刺繍が施されている。
ローブの下がどうなっているか判断できない。
恐らくは魔人かその類の生物ではないかと判断している。
普通の魔人程度なら対処は出来る。
だが、破壊と殺戮行動をせずコソコソと隠れるように行動していることに違和感が残る。
出来るだけ情報が欲しい所なのに、これに関しての情報がほとんどない。
1番不気味だと言った原因でもある。
情報が掴めない原因は監視をしている調査員が全員行方不明になっていることだ。
最後の定期報告を最後に一切の消息が掴めなくなった。
追加でその付近を調査に出した人員も連絡が取れず行方不明になっている。
人員を多く使い、連絡が付かなくなるタイミングを測ればおおよその場所は特定できそうだが、これ以上人員を割るわけにはいかない。
椅子の背もたれに体重を預けながら現状を思案する。
「アクゥンが言ってた通り意思を持った暴風でもあったってわけか。変なものを呼び寄せたのかね」
諦めたと諸手を挙げて降参できればどんなに楽か。
「情けないが、成功しそうな手がこれしかないもんな」
毒を以て毒を制す......か。
他人任せな作戦。
「ついでにアクゥンにも丸投げするか」
その時、部屋の外から走り寄ってくる音がすると、慌てたようなノックが部屋に響いた。
返事を待たずに扉が開かれる。
「どうした?」
「取り急ぎ失礼します。現在監視していた対象が消えました」
「あ゛あ?」
◇◆◇ アーシェ
時間は少し遡る。
取調室からこんにちは。
アーシェです。
今少し手が離せない状態です。
そうですね。何をしているんだ? と至極まともな疑問だと思いますが、見て貰えれば分かります。
目の前の獣人の首を絞めています。
腕に目一杯力を入れていますが、想像以上に非力なようで腕が震えています。
単純な膂力ではこれが限界のようですね。
悲しい事ですが、結果は変わりません。
工夫しましょう。
胸元の服を絞り上げるように掴んで椅子に押し付ける。
服と椅子を利用した方法に変えてみましたが、効果はあまりなさそうです。
呼吸音が変わり、目を白黒させている姿が愉快ではありますが、死ぬ様子はありません。
息の根を止めるのは難しそうです。
しかし、最近覚えた【身体強化】を使えば出来る気がします。
呼吸を整え魔力により膂力を跳ね上げる。
ん? あぁ。なるほど。
何故この獣人を殺そうとしているのか? と疑問に思う人もいるようですね。
事情を知らなければ持って当然の疑問です。
しかし、話せば誰もが納得してくれることでしょう。
それなら仕方ない、と万人が納得して頷く光景が目に浮かびます。
何をしたかと言えば、この......あぁ、この哀れな獣人の名前は何と言ったか。
恐らくは、サァレスだったかと思います。
名前があるとは生意気ですね。
カスで十分です。
このカスが、私の恩人のシヒロさんを馬鹿にし侮辱するような言葉を発したからです。
それだけでも極刑です。
さらに私に名前を思い出させる労力を使わせました。
万死に万死を重ねてもまだ足りません。
しかし、こんなカスでも唯一と言っていい功績があるのでまだ息をしていることを許しています。
それは、私の恩人であるシヒロさんの名前を言った事でしょう。
聞くタイミングを逃した私には千載一遇のタイミングでした。
それだけであったのなら感謝の念を抱いていたというのに。
さて、もう一生分の息をしたと思いますので、止めても構いませんよね?
【身体強化】を発動し直接首を絞めようとした時、冷たい視線が体を突き刺す。
っん。
全身に冷たく甘い死の感覚が呼び起こされる。
薄暗い部屋、首に残る手の感触、一瞬と永遠の狭間、蜜月の時。
咄嗟に手を放しシヒロさんの横に立つ。
肘で横腹を突かれる。
「すいみません」
呆れた目でこちらを見ている。
ふふっ。
心の中の笑いが漏れてしまう。
少し浮かれているようだ。
怒られてしまいました。
そんな事を内心ニヤニヤと喜んでいると、獣人がいなくなっているのに遅ればせながら気が付きました。
まぁ、気分が良いので見逃すことにします。
ふふっ。
◇◆◇ シヒロ
横に取り澄まして立っているアーシェを見る。
一切の表情を崩さず本気で獣人を殺しに行っていた。
全く何を考えているのかさっぱり分からない。
だが、改めてこいつの怖さをまざまざと見せつけられた気がする。
道中でもそうだったが、この状態のアーシェでも認知できる者はいなかった。
徒歩で連行されている最中にも予感はあったがここまでとは思わなかった。
厳重に警戒されている中で、自由に動き回っても注意どころか気にするものはおらず、眼前に迫り興味深そうに観察していても、まるで居ないかのように反応が無かった。
気づかれない事を良い事に、アーシェの行動は過激さを増していく。
背中に触れる所からはじめ、足を引っかけて転ばしたり、頭に花を乗せていた。
だが、それでもアーシェのした事だと認知する事は無かった。
いや、それよりもっと質が悪い。
アーシェを認知できないどころかしたこと自体が認知されていないようだ。
振るわれた暴力に対して周りどころか本人すら訝しむ様子はない。
容疑者を連行するように。
逃がさないように警戒するように。
互いに連携が取れるように最適な位置で取り囲むように。
突然転んでもそれが当然のように。
頭の花が装備の一つかのように扱っていた。
まるでそれが仕事の内容だと言わんばかりに。
その異常な光景に、ゾッと寒気がした。
あの仮面が無ければ自分もこうなっていたかもしれない。
反応がない事に飽きたのか追随するように後を歩くアーシェに寒気がする。
一緒にいる限り気の抜けない生活になるだろう。
だが、まだこの時は本当の恐ろしさに気が付かなかった。
いくら何でも、ある程度のラインはあると思っていたからだ。
例えば、相手を殺そうと剣を振って致命傷にならずとも命の危険を察すれば、さすがに気が付くだろうと思っていた。
それは自分の身にも当て嵌めて考えていた。
だが、先程の光景を見てその考えは崩される。
直接肌に触れ、殺意を漲らせ首を絞められているのに何をされているのか理解できていなかった。
呼吸音が変わり気を失うその瞬間まで、だ。
隣に立っているアーシェが「ふふっ」と消え入るような笑い声が聞こえた。
怖い。
アーシェの気が変わり、仮面を外して殺す気で来たらどうすればいいのか改めて必死に模索する。
そして出た結論は後手に回る可能性が高く、そうなれば死ぬ可能性も跳ね上がる事だった。
対策とするなら、そう言った予兆が無いか定期的に仮面に触れてアーシェの内心を探る必要がありそうだ。
厄介ではあると思っていたが、予想よりも厄介だったかもしれない。
◇◆◇ ???
その見た目は餓死寸前のように瘦せ細っていた。
しかしその足取りは見た目に反ししっかりとしており、目は異様に爛々と輝いている。
それは、青と白と金色の非対称な修道服を纏っていたが細い体のせいで歩くポールハンガーのように見えた。
「あぁ、ここに来るのは本当に久しぶりです。良い所ですねぇ」
誰に話すわけでも無い独り言をつぶやく。
「ですが、長居は出来ませんねぇ。私と言う存在が枠にはみ出す危険性があります。気を付けなければ」
ブツブツと小声で呟き、ある地点で足を止める。
そして幽鬼のような目を下に向け、ジッと地面を眺める。
一通り地面を眺めると、歯が砕けんばかりに食いしばる。
「何時まで! 経っても! 社会の枠をはみ出す屑ばかり。枠自体は少しづつ大きくなっていってるというのに、余計な欲を出してはみ出そうとする。......いけない! いけません!! やってはダメなのです!!! そう!! こう言った不逞は一切の容赦なく真心を込めて、カット!!! しなくてはいけません」
その細枝のような指で顔を掻きむしる。
「あぁ......あぁ!! なんと罪深い。その不敬に涙が止まりません!!」
顔から血と涙と鼻水が溢れ出る。
それを一切拭う事はせず、溢れ出た液体が混ざり地面を濡らす。
「まずは、転生者へ! カット!!! しなくては」
その場から一切の痕跡を残さず姿を消した。