第50話 計算尺
おぞましい『マンハッタン計画』を記録したニュース映画の中で、実験結果を検証するために白衣の胸ポケットから小型計算尺を取り出して計算する場面がしばしば映し出されているらしいが、電卓が普及する以前の1970年代頃まで、計算尺というアナログ式の計算用具が技術者や理系科学者のあいだで広く世界中で使われていた。
今から四十五年も昔のことでほとんど忘れているが、水田功が学んだ高校の授業に測量があって、たぶんその中で計算尺の使い方を教わったのかと思う。授業担当の山高先生が商工会議所計算尺技能検定試験を受けることを熱心に奨励し、受験手続きなどをすべてやってくれたので、4級の検定試験をクラスの十人ほどが受験した。受験会場は名古屋市内の某工業高校の教室だった。
制限時間が三〇分の4級はすんなり合格したので、その後調子に乗って自発的に水田一人だけで3級を受けてみたらこれも難なく合格した。さて次は2級だが、5数の乗除、比例・反比例、平方・平方根を含む乗除に加え、立方・立方根を含む乗除と三角関数を含む乗除が加わることになるのでかなり難易度が高く、制限時間も四〇分から五〇分に増える。水田は中学時代から数学は好きだったので果敢に挑戦してみたところ、見事一発で合格した。
これは嬉しかった。そもそも3級以上を誰も受けようとはしなかったのだが、2級合格者が出たのは『高校始まって以来の快挙』ということで、「やればできるんだ」という自信につながった。合格証が学校に届いたというので鼻高々に胸をそっくらせて職員室まで取りに行くことになる。
生きていく上で自分に自信を持つことは大切だとつくづく思う。それまでの、中学までの水田は自信がなかった。宿題だけは何とか片付けていたおかげで成績は中の中だったのだが、そもそも家で勉強してまで成績を上げる必要性を骨身には感じていなかった。両親も教育熱心というでなく、やれ弁護士になれだの医者になれだの一流企業を狙えだのと本心からは高望みしない純朴寡欲な両親だった。今でこそ猫も杓子も大学に行く時代だが、当時はそれほどでもなく、水田自身も勉強は好きではなかったので高校を卒業して就職することに別段なんの不平不満はなかった。
ただ、今から思い起こせば、微妙な分岐点があった。小学校から中学に進んだ最初の中間テストで、何の予告もなく、三百人以上いた一学年生徒の上位百番くらいまでの名前が突然廊下の壁に成績順で張り出されたのだ。そこに水田功の名前はなかった。度肝を抜かれた水田少年は俄然、次の期末試験で頑張った。この時、『試験のための勉強』とやらを生まれて初めて経験した。その結果は六十九番だったのだが、成績順に名前が張り出されたのは最初の中間テスト一回きりで、その後二度と張り出されることはなかった。水田少年は落胆し、成績は再び中の中に逆戻りして行った。
もし、あのまま学校側が廊下の壁に名前を張り出し続けていたら、人一倍見栄っ張りな水田少年はある程度の順位までは少しずつ成績を上げて行ったと思う。もしそうなれば欲が出て、大学に進学することを考え始め、現在とは全く異なる人生を歩んでいたかもしれない。
だから高校を選ぶ際には普通科は眼中になく、私立高校は何かと金が要るので一校も受験せず、公立高校一本で確実に合格する高校、ということで選んだ県立高校だった。ということで、成績は常にクラスの上位でいられた。そのため徐々に自分に自信が持てるようになっていった。
しかし、これはあくまで相対的なもので、『二流』のなかの上位にいられたというだけで、たとえ計算尺検定試験の2級に合格したからといって、広く世間からみればまだ大したことではなかった。ところがである、1級となるとちと様相が変わってくる。2級問題のそれぞれが高度になるだけでなく、『対数・真数の求め方・べき計算』と、制限時間が二十分もある『計算尺に関する簡易な理論問題』が加わるのだ。もうこうなると、水田少年の能力の限界を遥かに超えていた。だから、ハナから1級を受けるつもりはなかった。
職員室に2級の合格証をもらいに行った時のことだ。一学年の時の学級担任だった塚本先生が声をかけてくれた。
「水田、計算尺2級受かったんだってな」
「はい、どうにか」
「次は1級だな」
「……」
水田少年は愕然とした。開いた口がふさがらなかった。2級でも『快挙』なんでしょ、1級は絶対に無理ですよ。
ところが、自信は自信を育むということなのだろうか、無謀にも挑戦する意欲が漲ってきた。そしてダメ元で試しに受けてみるとやっぱり落ちた。二度目も理論問題がちんぷんかんぷんで落ちた。しかし三度目か四度目かの挑戦の時、たまたま理論問題が奇跡的に易しかったためにまぐれで合格してしまったのだ。もし、「次は1級だな」という塚本先生の一言がなければ、『北斗』の同人となって毎号この掌編小説を書くために苦悶する、という人生もなかったに違いない。