15.
石段をのぼってくる人々の流れに逆らって、峻は石段をくだっていく。少しでも早くおりようとするものの、その気持ちに反して、おりるスピードは早歩きにも満たない程度だ。
やっとの思いで峻が石段をおりきった頃には、花火の開始時間まであと十分ほどだった。
「ふぅ……」
峻は一息ついた後、投票所があった場所に向かって駆け出す。今いる場所から投票所まではそれほど距離はない。ものの一分も走ると、白いテントが見えてきた。
テントに着いた峻は、すぐに睦が番号を書いていた辺りの机を見る。すると、その机の上にあのネコのぬいぐるみがちょこんと鎮座していた。
「あった!」
峻はそれを持ち上げると、思わずその頭を撫ぜてやる。
「……頼むからもう逃げないでくれよ」
ぬいぐるみの見様によってはつぶらな瞳にそう語りかけた。そしてぬいぐるみを大事に腕に抱えると、すぐに来た道を取って返す。
境内へ続く石段の下までは簡単に戻ることができたが、その石段にはいまだ人の列ができていた。しかもさっきより状況は悪くなっていて、のぼろうとする人々に加えて、境内で場所が取れなかったために、おりてくる人が増えている。そのため人の列は遅々として進んでいない。この状況ではとてもじゃないが、のぼることなどできないだろう。
「やっぱり合流するのは無理か……」
峻はそう呟くと、思案顔になる。
(どうせなら花火も見たいし……となると、あそこか)
峻の足が石段とは別の方向へと向いた。境内のある山の裾に沿って道を歩く。祭りの喧騒が徐々に遠ざかっていくのを感じながら、ぽつりぽつりとある街灯の明かりを辿っていくと、また石段が見えてきた。
だが、境内に続く立派な石段とは違う。人が二人も横に並べばいっぱいになる横幅の狭さ。そして、長年整備もされていないため、踏み段は落ち葉に埋もれ、ところどころ割れてもいる。
峻はその石段をのぼり始めた。今まで何度ものぼったことのある場所なので、その歩みに躊躇はない。
この石段の先に峻の目的とする場所がある。その場所は境内より高い位置にあり、神社の拝殿、そして本殿の裏手にあたる。昔は、神社に関係するなにかしらの建造物があったかのように、開けた空間になっていた。
そこは峻の知っている中で、一番花火が綺麗に見える絶好のポイントだった。
他の地域から来た人はもちろん知らない。たぶん地元民でも思いつかない場所。ここを知っているのは、峻ともう一人――奈亜だけだ。
「……間に合った」
峻はそう呟くと、花火が上がる方向を向いて草むらに腰かけた。もう幾分もせずに一発目の花火が上がるだろう。
(みんなと見たかったな、花火)
心の中でそう呟く。せっかく祭りに来たのに、結局みんなとメインイベントを見ることができなかったのは、峻にとっても悔しかった。そんな時――、
峻の顔が明るく照らされる。見上げると、夜空に赤い大輪の華が咲いていた。数拍遅れて、ドンッという音が響き渡る。それと共に少し離れた所で歓声が上がった。
祭りのメインイベントである花火が始まったのだ。
一発目の花火が消える。それに続いて、今度は二発同時に緑と黄色の華が咲く。一瞬の輝きにすべてを込めて、夜空を照らして輝いている。それは美しくも儚い。
ただ、その輝きはいつまでも人の心に残る。人が忘れない限り永遠に記憶の中でその華は咲き続ける。
昔この場所で、奈亜と二人で見た花火も、今も峻の記憶の中で輝きを放っていた。今見ている花火と同じで、まったく色あせてなどいない。
花火を眺める峻の頭の中で、今までの奈亜との思い出が流れていく。鮮明なものから微かなものまで、その量は膨大だ。
――今まで何度一緒に笑っただろう。何度一緒泣いただろう。何度喧嘩して、何度謝りあっただろう。……そして何度、何度奈亜のことを好きだと思ったことだろう。
峻の記憶の中で、満面の笑顔を見せ、大粒の涙をこぼして泣き、目を吊り上げて怒り、うな垂れながら頭を下げる奈亜の姿。その姿は、時に高校生だったり、時に中学生だったり、また時には幼稚園に通っていた時のものもある。そのすべてが峻にとっては愛しかった。
峻がスッと目を閉じた。そのまぶたの動きに押し出されるように、透明の雫が頬を伝った。
暗転した峻の視界に、また新たな思い出が浮かぶ。それはそれほど量がない。でも、どれも鮮明なものばかりだった。
その人物の優しい微笑みが峻へと向けられる。その笑顔に幾度となく癒された。そして場面が変わると、その人物は上目遣いで峻を見ながら、控えめなお願いをしている。かと思えば、時々驚くほどに積極的な行動に出ることもあった。だがそのくせ、その行動を終えた後には、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに峻へと謝る。さらには、峻の小説選びに呆れたような表情を見せる時もあった。
そして、一番新しい記憶は甲城大附属の階段で、「待っている」と言ってくれた時の記憶だ。その言葉に峻の心は救われたのかもしれない。
ひとたび思い出してみれば、どんな場面でもその人物は、峻と共にいてくれた。そんな風にいつの間にか峻の中で大きくなっていた存在にやっと気づく。
目の前にあった一番大切だと思っていたもの、そればかり見ていた峻だが、少し視点を横にずらせば、それと同じくらい近い位置に、それに負けないくらいに大切になっていたものがあったのだ。
峻が目を開く。涙はもう流れない。潤んだ瞳に花火の光を反射させながら、峻は自身の心が出した結論をゆっくりと理解した。
その時だった。
ざっという音が背後でした。人の足音のように聞こえて、峻は振り返った。その視線の先には、
「奈亜……」
少し肩を上下させている奈亜の姿があった。
「どうして?」
「……案内役がいなくなったから、董子たちと逸れたのよ」
峻の問いに奈亜がぼそりと呟いた。だがそれは答えになっていなかった。境内で逸れても奈亜がこの場所に来る理由にはならないのだから。
「そうか」
だが、峻はそのことに関して追求しない。聞いても明確な答えは返してくれないことは分かっていたから。そして、それを峻自身ももう求めていなかったから。
「まぁいいや。お前も座って花火見たら?」
「う、うん」
峻は自分の隣をポンポンと叩いて、奈亜に座るように促す。そんな峻に少し戸惑いを感じながら奈亜はそこに座った。
しばらく二人は無言で打ちあがる花火を眺めていた。色とりどり、そして形も様々な花火が夜空を彩る。
「ね、ねぇ、峻」
「ん?」
そんな中、口を開いたのは奈亜だった。
「こ、この場所懐かしいね。最近ここで花火を見ることなかったもんね」
「そうだな」
「ねぇ、覚えてる? 最初にこの場所を見つけた時のこと」
「あぁ、覚えてるよ。花火の直前に親と逸れて、二人して迷ってたらあの石段見つけて……ここから神社に行けるんじゃないかって、二人で決めつけてのぼったのが、最初だったな」
「うん。結局神社につかなかったけど、おかげですごく綺麗な花火が見れたよね」
「でも、花火に見惚れてたおかげで、あとで親父たちにめちゃくちゃ怒られたけどな」
「そうだったねー……あの時のおじさん怖かったなぁ」
花火を見上げながら、峻と奈亜は昔の思い出を語り合う。ただ、二人の間にある問題がなくなったわけではない。その問題に触れるか触れまいか、二人ともそれを探りあっているかのような状態だ。だから、その昔の思い出話も長くは続かない。
「…………」
「…………」
また二人は沈黙してしまう。しかし、再度奈亜が口を開く。
「ねぇ、峻」
「なんだよ」
「やっぱりあの夜にあったこと……話してくれないの?」
「っ…………」
唐突に奈亜が本題をきり出す。それに峻は一瞬詰まったものの、すぐに返答をした。
「話さない」
「なんで……?」
あの夜と同じように、奈亜が懇願するような顔になる。その顔を見て、峻は胸がしめつけられる思いだった。だが、それでも自分の意志は曲げない。
「お前が大切な人だからだよ」
「えっ……?」
「大切な人だから話せないこともあるってこと」
「なにそれ……」
予想外の峻の言葉に奈亜は困惑する。一方の峻は落ち着いていた。ついさっき自分の中で出した結論。それによって、いつもより少し素直な自分を持って奈亜に応対できていた。
「奈亜」
「なに……?」
「そのことも含めて、俺からも話がある」
そしてついに覚悟を決めて、峻は自分から話を切り出した。