10.
それから約三十分後、峻は学校説明会の手伝いから解放されていた。本当はもう少し片付け等があるのだが、あとは生徒会が中心になってやるということなので、峻は先に抜けることにした。
正門のところまで行くと、先に約束した通り、董子と睦が待っていた。
「おーい、お待たせ」
そう声をかけながら峻が近づくと、会話をしていた董子と睦が振り返って峻を見た。
「お手伝いお疲れ様」
「峻兄、お疲れー」
二人とも峻への労いの言葉をかけてくれる。それに「ありがとう」と返して、峻は二人に同流した。
「これからどうするの?」
すると、睦が早速峻へと質問をしてくる。峻は、董子の方を見て聞いた。
「董子、着替え持ってきた?」
「え、あ、あぁ……うん」
少し気恥ずかしそうに言いながら、董子は自分の手元に視線を移す。董子の手には手提げのバッグが握られていた。
「で、でも、いいの? 峻君の家に行かせてもらっても」
「別にいいよ。一緒に居た方がなにかと動きやすいだろ?」
「それはそうだけど」
「え、なに? 董子さんも峻兄の家に来るの?」
峻と董子の会話を横で聞いていた睦が興味津々で割り込む。
「そのつもりで、今董子を説得してるとこ」
「そうなんだ! 董子さん、一緒に帰りましょうよ! 私、もっと董子さんとお喋りしたいです!」
睦が無邪気に董子を誘う。董子は少し思案した後で頷いた。
「やった! そうと決まれば、峻兄の家にレッツゴー!」
睦は、破顔しながらそう言うと、我先にと歩き出す。その様子に峻と董子は顔を見合わせて苦笑した後で、それに続いた。
そしてその帰り道、先を軽やかに歩く睦を見守りながら、峻と董子の二人は肩を並べて歩いていた。
「説明会、どうだった?」
峻が董子へ聞く。董子が峻を見上げながら答えた。
「おもしろかったよー。私たち一般の人たちにはこんな風に説明されてるんだなって分かったから。……聞いてるこっちは恥ずかしかったけどね」
「どうせ、近田先生だろ? あの人、なんでも大げさに言うから」
「うん。特にどこかの学年一位さんのことは、最後も褒め称えてたよ」
「……勘弁してくれ」
峻がげんなりした顔をすると、董子はそれを見てくすくすと笑った。峻は前を向いて歩きながら、その笑顔を横目でチラリと見る。
「――っ」
その屈託のない笑顔に魅せられ、峻は言葉を失う。峻がじっと自分のことを見ていることに気づいた董子が小首をかしげる。無言で「どうしたの?」と問うてきた。
「いや、なんでもないよ」
峻は頬をぽりぽりと掻きながら顔を背けた。少し赤くなった顔を董子に見られたくなかったからだ。董子がそんな峻を見て、またおかしそうに笑う。
董子にいろいろと見透かされているような気がしながらも、峻は隣を歩き続ける。その居心地は悪くなかった。
やがて峻の家にたどり着く。
「ただいまー!」
睦が玄関の扉を開けて、一番乗りで中に飛び込んでいった。
続いて中に入ろうとする董子の手をとり、峻が呼びかける。
「董子」
その表情は、さっきまでと異なり、少し険しいものだった。董子が峻へと顔を向ける。
「あのさ……一つ約束してほしいことがあるんだ」
「なに?」
「今日、もし奈亜と会うことがあっても、十五日の夜にあったことは話さないでほしい。董子のお母さんが事故にあったことを」
峻が真剣な表情で董子へ向けて言った。峻は奈亜と董子が会う前に、十五日の夜にあったことの口止めをしておこうとしていたのだ。
奈亜の性格上、董子に直接聞くことはないと峻は思っていたが、一応の予防策として手を打っておくことにした。
「事故のことを?」
しかし、二人の関係の悪化を知らない董子は、当然顔をしかめる。峻の思惑が分からなかったからだ。
「なんで?」
「理由は聞かないでくれっていうのは都合が良過ぎるかな……?」
立ち止まって二人は向かい合う。峻も董子も互いに視線を外さなかった。
「私が嫌って言ったら?」
「……董子なら納得してくれるって信じてる」
「峻君、卑怯だよ。……肝心なところ話してくれないもん」
「ごめん。……でも、もう少しだけ待ってほしい」
その峻の言葉で、董子はハッとして目を大きく開く。午前中に董子が言ったことへの答えを少しだけ峻が示してくれたように感じたからだ。
「ふぅ……分かった。それじゃ聞かないことにする」
「ありがとう」
「でも納得はしてないからね。待ってるから、ちゃんと聞かせてね?」
董子は少し拗ねたような顔をして峻を見る。それを見て、峻は苦笑いを浮かべると、「……了解」とだけ返した。
「さ、中へ入ろうぜ。外は暑い」
「うん」
峻が玄関のドアを開けて、董子を中に促す。玄関に入ると、ちょうど睦がリビングのドアを開けて出てくるところだった。
「あ、入ってきた」
どうやらなかなか入ってこない二人を迎えに行こうとしていたようだ。
「ごめんね、睦ちゃん。おまたせ」
「いいよー! 董子さん、どうぞ上がってください!」
「はい、お邪魔します」
董子が微笑みながら靴を脱ぐ。峻も同じように靴を脱ぐと、すぐに洗面所へと向かった。それに董子も続く。
二人して手を洗った後でリビングへと戻ると、睦が気を利かせて冷蔵庫からオレンジジュースを出してコップに注いでくれていた。
「ありがと、睦」
「どういたしましてー」
自分用のコップにオレンジジュースを注ぎながら睦が答える。峻はテーブルに二つあるコップを両方とって、一つを董子に渡す。そして、コップの中身を一気に飲み干した。
「はぁー……」
峻は思わず息を漏らす。それくらい体に水分が染み渡ったのを感じた。
「峻兄、おっさんくさーい」
睦がジト目で見ながら言う。
「うるさい。男はだいたいこういう生き物なの」
自分でも訳の分からない説明をしながら、峻はジュースをコップに注ぎ直した。
「俺、ちょっと部屋に戻って着替え取ってくる。二人から先にシャワー浴びたら? 汗かいてるし気持ち悪いだろ」
「りょうかーい!」
峻の提案に睦が元気よく返事をする。
「董子も遠慮せずにゆっくりくつろいで」
「うん、分かった」
そして、董子へ一言かけた後、峻は二人を残して二階へと上がった。
峻は、自分の部屋に入ると、早速着替えを用意し始める。しかし、収納タンスを開けた時、ぴたりと動きを止めた。
(……いつも通りの服装でいいのか?)
いつも通りの服装とは、半袖のカットソーに半ズボンというラフな格好だ。これから少しの間は家で過ごすわけだし、別にそれでも問題ない。だが、峻が懸念しているのは、董子がいるということだ。
(あんまりラフ過ぎる格好はやめた方がいいかな)
そう思い直して、外行きの服を物色し始める。しかし、何着か服を出した後で、また手の動きが止まる。
(いやいや、家で過ごすのにそんなに気を張った服装をしなくても……)
とまた考えてしまう。
一度堂々巡りに入ってしまうと、その思考からなかなか抜け出せなくなってしまい、結局峻が服を決めて二階から降りたのは、それから五分ほど後のことだった。ちなみに選んだ服は、部屋に入って最初に引っ張り出した服だった。
とはいえ、シャワーの順番はまだ先なのは分かっていたから峻はそこまで慌てることもなく階段をおりる。
そして、峻が階段をおりきって、リビングのドアに手をかけて瞬間だった。
「あ、峻兄! ちょっと来て!」
廊下の奥から睦の声がした。その声に反応して峻が視線を移す。そして「なんだよ?」と聞きかけたのだが、それを飲み込んでしまう。
「…………おい」
代わりに出てきたのは、心底呆れたような呟きだった。いや、実際に呆れていた。
峻の視線の先には、バスタオル一枚で立つ睦の姿があったのだ。
「お前、なにやってんだ」
「シャワーから水しか出ないんだけどー……ちょっと見てよ」
「いや、待て! その前になんでバスタオル一枚なんだよ」
「だって一回濡れちゃったし、いるの峻兄だけだし」
「頼むから俺がいることを問題にしてくれ」
峻は思わず頭を抱える。
たしかに峻が、睦のこういう姿を昔からある程度見慣れているとはいえ、睦ももう中学二年生なのだ。恥じらいというものを持ってほしい、と峻は心の中で切に願った。
「お湯の出し方だっていつも説明してるだろ? 給湯器の電源を入れるんだよ」
「それってどこにあったっけ?」
「脱衣所だよ。去年も教えたろ」
そう言うと、峻は睦を追い越こす。リビングにいるはずの董子にこんな姿の睦と話しているところを見られると非常にまずいからだ。
(さっさと電源入れて追い返さないと)
そう思い、峻は急いで脱衣所のドアに手をかけた。
「あ! 峻兄、待って!」
そこで睦が制止をかけた。しかし、峻の手にはすでに力が入っていて、ドアを開けるのを止めることができなかった。
「…………えっ?」
「ふぇ!?」
ドアを開けた峻の目の前に、董子がいた。――一糸まとわぬ姿で。
透き通るほど白い肌が、惜しげもなく峻の目に映る。全体的に小柄であるが、幼児体型の睦とは違い、きちんと女性として成長した箇所もしっかりと。
「きゃああああ!」
そんな峻にとっては至福の時も、ものの数秒後に起こった董子の悲鳴で霧散した。
「うわあああ! ご、ごめん!!」
思考を取り戻した峻自身も、叫び声を上げてドアをこれ以上ないというスピードで閉めた。
「あ、あー、やっちゃった……」
ドアの外にいた睦もさすがに引き気味だった。そんな睦を峻が責め立てる。
「ち、睦! お前なんで董子がいることを言わないんだよ!」
「だって、言う前に峻兄が入るんだもん」
「最初に言え! そういうことは最初に言え!」
「わ、分かったよぉ……今度からそうする」
睦は峻の勢いから逃げるため、後ろ手に脱衣所のドアを開けると、さっと入る。
「おい、睦!」
「峻兄、それより給湯器の場所教えてよ。董子さんも待ってるから」
安全地帯に逃れたため、睦がドア越しに余裕がある声で聞いてくる。さらにわざわざ董子の名前を出すあたり、意外に賢しい。
峻は悔しそうにドアを見つめた後、ぼそりと言った。
「……場所教えるから、風呂の中で董子へのフォローしてくれ」
「了解!」
峻は崩れ落ちるように脱衣所のドアに額をぶつけた。着替えをどうするかなどとはまったく次元の違う問題ができて、そのまま倒れてしまいそうだった。