5.
午後六時半、峻は店の片づけを行っていた。表の扉にかかっている『OPEN』と書かれた表示をひっくり返して『CLOSE』にした後、店内の掃除にとりかかった。本当ならば食器等の洗い物もあるはずなのだが、今日は客足も少なく営業時間内にすべて洗い終えていた。
峻が他人に店の話をすると、大概の人が「その店大丈夫なのか?」と聞いてくるのだが、その点において問題はなかった。
実はこの『フォレスト』という店の本業はこれからなのだ。この店の本来の姿はショットバーで、昼間の営業はマスターの趣味でやっていた。午後六時半で喫茶店の営業が終了し、三十分の休憩の後バーとしての営業が始まるのだ。
未成年である峻はその時間帯に働くことは遠慮していた。その理由はいくつかあるが、大前提としてこの店のマスターに迷惑をかけたくなかったことが大きい。閑古鳥が鳴くという言葉を体現しているかのような昼の営業だ。峻を雇わなくても店は十分に回るだろう。しかしマスターは峻を雇ってくれたのだ。そこまでしてくれた人に迷惑をかけるわけにはいかないというのが峻の思いだった。
そしてもう一つ大きな理由というのが、
「おー、峻お疲れ! マスター、こんばんは」
ドアの鈴を鳴らして入ってきたこの男性だった。
細身でスッとした体型、オールバック気味に整えられた薄い茶色の髪の毛。意識して生やしていることが分かる顎髭が、峻にはない大人びた雰囲気を醸し出していた。身長は峻と並ぶと少し低いくらいなので、百七十センチ前半といったところだ。
「海人さん、こんばんは」
「おう」
峻の挨拶に微笑みを返すこの男性、名前を八島海人という。年齢は二十歳、峻とは小学校からの知り合いだ。甲城大の二年生で、峻がバイト探しをしている時この店を紹介してくれたのも海人だった。
その海人がこの店の夜の部のバイトに入っている。それが峻の夜に働かないもう一つの理由だった。
「峻、あとやっとくからもうあがっていいぞ」
「いえ、あと少しなんでやって帰りますよ」
「大丈夫だって。ね、マスター?」
海人がそう言うとカウンターでウィスキー等の準備をしていたマスターが「えぇ、構いませんよ」と言って頷く。
「ほれ見ろ。さ、お前も来いよ。着替えようぜ」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
峻は手に持っていた箒を置くと、海人の手招きに応じて奥の更衣室へと向かった。
二人並んで着替えはじめると、海人が峻に聞いてきた。
「最近の調子はどうだ?」
「どうって言われても……普通です」
答える側に優しくないその質問に峻はありきたりに答えた。そして逆にある意味答えにくい質問をぶつけた。
「海人さんこそ、最近彼女さんとどうなんですか? あんまりバイトばかりしてると愛想つかされますよ?」
「ははは、大丈夫だよ。うまくやってる」
軽く笑いながら海人が言う。簡単に返されてしまったが、海人がテキトーに答えているわけではなく、本当にうまくいっているのだということが峻には分かった。
「それを聞くならお前の方こそ、まだ奈亜の尻追っかけてるのか?」
今度は海人がお返しだとばかりに聞いてきた。
「……なに言ってるんですか? 俺は昔から追っかけてたことなんてありませんよ。むしろあいつが俺を引っ張り込むんです」
「そうかー? ……ま、ほどほどにしとけよ、と」
そんなことを言いながら、海人は着替えを終えた。峻の方はただベストを脱ぐだけなので、着替えと呼ぶまでもなくとうに終わっている。
「さて、行くかー」
海人は体を軽く捻った後、更衣室から出て行く。峻もそれに続いた。
更衣室から出て、海人はそのまま峻の残した箒のところに歩いて行く。峻は入り口のドアのところまで歩くと振り返って店内の二人に頭を下げた。
「それじゃ、お先に失礼します」
「おう、お疲れー」
「お疲れ様、桐生君」
二人から労いの言葉をかけてもらってから峻は店の外に出た。外はすでに暗くなっていた。夜空を見上げると、雲は少なく星が綺麗に見えた。
峻はその自然の光を少し見た後、学生鞄に入れていた携帯を取り出す。すっかり主流となったスマートフォンのホームボタンを押すと、人工的な光が峻の顔を照らした。ホーム画面の一番上にメールありのアイコンが出ていたので、メールを確認すると差出人は奈亜だった。メールの着信は約二分前、内容は『バイトお疲れ! 晩御飯もうすぐできるから早く帰ってくること! 今日は私も手伝ってます!』というものだった。絵文字や顔文字は使ってあるのだが、ゴテゴテしすぎることもなく、あくまで相手に読んでもらうことを前提として書かれていた。そういった配慮を奈亜は忘れない。
(でも、本当にバイトが終わった時に送ってきてるな)
峻の行動をどこかで見ていたかのようなメールに峻は苦笑した。すぐに返信メールを作り、本文に短く『了解!』とだけ打つとすぐに送信し携帯を鞄に入れる。奈亜からの返事はもう来ないと峻は確信していた。奈亜の場合、メールを待つより早く帰ってこいと言うだろうと思ったからだ。
(よし、それじゃ運動がてら走って帰るかな)
峻はそう決めると、足を少し伸ばしてから駆け足で家路に着いた。