19.
いろいろなことが頭を巡るが、それを整理する間もなく、十分という時は過ぎていく。考えをまとめるには、あまりに時間が短すぎた。
「はぁ……」
奈亜はため息をついて、夜空を見上げた。もうなにかの結論を出すことはあきらめた。あとは峻が来てからでいいか、という考えが頭に浮かぶ。
(峻ならなんとかしてくれる)
奈亜の思考は、いつの間にか、峻に頼ることを考え始める。それがこの後、残酷な結果を招くことになるということも知らずに……。
「……な、奈亜!」
名前を呼ばれた。その方向を見なくても分かる。峻の声だ。ついに峻が来たのだ。
今日ずっと待ち望んでいた瞬間だ。この瞬間を本当に素直な気持ちで迎えられたらどんなによかっただろう。奈亜は複雑な表情をしたまま、声のした方へと顔を向けた。
峻が奈亜へと近づいてきた。
「奈亜」
安堵した表情で、奈亜の名前を峻が呼ぶ。しかし、奈亜は顔を伏せたまま上げられなかった。電話で話すより、直接会う方が何倍も気まずい。
そんな奈亜の様子を見た峻が、頭を下げる。
「ごめん……」
簡潔に峻はそれだけ言った。それ以上なにも話してくれない。
「…………」
だから奈亜はなにも言わない。というよりなにも言えなかった。
「今日はお前の誕生日だったのに……台無しにしちまった……本当にごめん」
峻が続けて言う。目を閉じて、悔しそうに。けど、それだけだ。それ以上はなにも言わない。
(ねぇ……峻、もっとなにか言ってよ)
それは奈亜の求めていたものと違っていた。奈亜は、もっといろんなことを峻に喋ってほしかった。遅れた理由を教えてほしかったのだ。
二人の間に沈黙が訪れた。奈亜は峻の足元を見つめる。峻も同じように奈亜の足元を見つめているようだった。
その重苦しい沈黙に奈亜は耐えられなくなった。
(せめて、遅れた理由だけでも……)
そう思った奈亜は、口を開いた。
「なんで……」
「え?」
奈亜の声に反応して、峻が顔を上げる。少し不思議そうな顔をしていた。
「なんで約束の時間に遅れたの? なにか理由があったんでしょ?」
峻の大幅な遅刻、それにはきっと理由がある。それは奈亜にも分かっていた。きっとそれ相応の理由があるはずなのだ。
(……それを教えてよ)
しかし、峻は口を開かなかった。悔しそうに視線を下げる。
「ねぇ、峻!」
奈亜の声が一段と高くなる。しかし、それでも峻は口を開かない。その頑なな峻の態度に、奈亜は焦り始めていた。
峻ならなんとしてくれるという期待が裏切られていくように感じたからだ。
「答えてよ! 峻!」
だから、さらに追及する形になってしまう。声に鋭さが強まり、非難の色が混じる。
すると、峻が天を仰いだ。そして奈亜の目をまっすぐに見て言った。
「……董子といた」
「え……?」
奈亜の瞳が大きく見開かれる。峻の言ったことが、理解できなかった。
「……なんで?」
奈亜から声が零れる。とにかく疑問を口にした。その間にも、さっきの峻の言葉が頭の中へと浸透していく。
――董子といた。峻はたしかにそう言ったのだ。
(なんで、董子と?)
言葉の意味は理解できたが、それを整理できるだけの余裕は奈亜にはなかった。
「言えない……」
峻の言葉が、さらに奈亜へ追い打ちをかける。
(峻……そんな風に黙らないでよ。なんで、なんで言ってくれないの?)
奈亜は峻に詰め寄った。
「なんで!?」
もう一度、もう叫ぶようにして言った。必死の表情で峻を見る。
「俺は、お前に嘘をつきたくない。……董子といた。けど、その理由は言えない」
峻は真剣な表情でそう言った。
奈亜は体がふらりとよろけるのを感じた。
峻の目は、言葉以上に明確に奈亜に語っていた。峻が言っていることが嘘ではないことも……そして、これ以上の理由を話す気がないことも。
(なんでよ……峻……それだけじゃなにも分からないよ)
奈亜は、懇願するように峻を見た。しかし、峻の口は開かない。
奈亜の呼吸が荒くなる。胸が押し潰されそうなほど、締めつけられた。
今までずっと峻に頼ってきた奈亜にとっては、これはもう限界だった。他にどんなことがあっても、峻がいるから大丈夫だった。峻こそが、奈亜にとっての最後の砦だったのだ。しかし、その峻に扉を閉められてしまったと奈亜は感じた。理由も説明されずに、突然放り出されてしまったと思ってしまったのだ。
「なんで……なんでよ。なんで私の誕生日に、峻が董子と一緒にいるの!? 今日は……今日だけは……!」
奈亜が叫んだ。それは心の叫びでもあった。
峻への純粋な思いが、怒りへと変わっていく。冷静さを欠いた奈亜の心は、峻の理不尽さを受け止めようとはせず、一切を拒絶してしまった。
怒りと悔しさが混じった瞳で、峻を睨みつけた。
「ごめん……悪かった」
しかし、そんな自分とは裏腹に、峻は冷静に答えているように見えた。実際は、峻も多くのことを堪えた上で、冷静を保とうと必死だった。だが、その態度が奈亜の神経をさらに逆なでしてしまう。
「――っ!」
パンッ!
鋭く乾いた音が校門に響いた。
右手に痺れたような感覚が残る。目の前で峻が、目を細めて頬を押さえた。
ついに抑えきれなくなった奈亜の中で、なにかが切れた瞬間だった。
目尻に温かい感覚がある。それを奈亜は素早く拭う。涙を峻に見せたくなかった。
「どうして……? 峻、お願い……」
そう思いながらも、懇願するかのように峻に問いかける自分が、奈亜は不思議だった。もうなにも変わらないのは分かっているのに。
「…………」
奈亜の予想通り、峻は無言を貫いた。そんな峻を見て、奈亜は肩を落とす。ため息が口から漏れた。
「分かった……もういいよ」
奈亜の中で、すべてがどうでもよくなってしまった。この場所にいることさえもバカらしく感じた。
「……帰る」
奈亜はそう呟くと、峻の脇をすり抜けようとする。
「奈亜」
その肩に峻が手を伸ばした。まるで最後の一線を繋ぎ止めようとするように。
「触らないで!」
だが、奈亜はその手を払った。峻のすべてを拒絶してしまう。
「一人で帰るから、もう放っておいて」
「……奈亜」
峻はもう一度伸ばそうとしたが、結局それを伸ばすことをためらった。
「あ、あぁ……それと!」
怒りに任せて、奈亜が畳みかける。
さらに続けられたその言葉は、峻への思いをすべて逆ベクトルへと転じたもので、一刻の感情で言ってはならない一線を大きく超えていた。
「私、脩一君と付き合うことにしたから」
奈亜はぞんざいにそう言い切ると、茫然と立ち尽くす峻を置いて歩き始める。自分の選択がもたらす結果を、奈亜はまだ理解していなかった。
「うぅん……」
奈亜は自分のベッドの上で目を覚ました。電気が点いたままの部屋を見回すと、ほとんど使わない机の上にバッグが放り投げられている。
(私……どうしたんだっけ)
少しぼんやりする頭で記憶をさかのぼる。
あの後、家に着いた奈亜だったが、高ぶった感情は収まらなかった。しかし、いろいろと考えるのは面倒だったため、私服のままベッドに倒れ込んだ。そこまでは覚えている。
(……いつの間にか寝てたのか)
ベッドに倒れたままの状態でいるうちに、待ち疲れや歩き疲れ、そして精神的な疲れもあったのだろう、奈亜は知らぬ間に寝ていたようだ。
起き上がり、壁の時計を見た。時刻は午前零時十分、日付は変わって八月の十六日だ。つまり奈亜の誕生日が終わったことを示していた。
それを理解した奈亜は、顔をしかめる。そして、机のバッグから携帯を取り出すと、メールを作成した。
宛先は、「浅井脩一」で、その内容は簡潔だ。いくつかの定型文と共に『公園でのことの返事をします。返事はOKです』と書いた。
(結局、返事を待たせた意味なんてなかったな……)
そう思いながら、奈亜はふと顔を上げる。四分の一ほど開いたカーテンの隙間から峻の部屋が見えた。まだ電気が点いている。
メールの送信ボタンの上で、奈亜の指が止まった。奈亜は、峻の部屋をじっと見つめる。しかし、やがて諦めたように首を振ると、送信ボタンを指で触れた。
一瞬で、メールは送信された。最後の分岐点を過ぎた答えは、もう誰の手に止められることなく、示された道へと一歩踏み出した。